皆さまの平安をお祈りいたしました。
セキをしている人が多いですが、
乾いた陽性なセキには、陰性なレンコンか大根、
湿った陰性なセキには、コーレンかネギ味噌が効果的。その反対ではあまり効かない。
キンカンも使えます。
それはさておき、
コーヒーが切れたから買ってきて、
と言われて豆屋さんで買って戻ると、お客さんが香り高い挽きたての粉を届けてくれた。
庭に活けてあるサトイモを掘って千葉の家に持っていったら、
友人から里芋がたくさん届いた。
こういうことはよくあることだけれど、自分でどうにかできることではない。
地震や事故も同じ。凶事も必ず起こる。
それは避けられないけれど、臨機応変に対応する心構えは出来る。
僕の親が親であるのは僕の意志ではなく
兄弟姉妹がいるのもいないのも、自分の努力工夫ではない。宿縁みたいなもの。
宿縁は
過去世につくった因縁(『新佛教辞典』)
前世からの因縁。運命(『日本国語大辞典』)
僕は努力すれば報われる、と考えているけれど、それは錯覚でもある。
恩師両親家族先輩友人の力で報われているのかもしれない。それは誰かとの相性がつくった結果。
相性は陰陽五行説で木火土金水の性が合うこと。
相性が良くても思い通りにはいかないし、
相性が良ければ吉というわけではない。
宿縁や相性は「在る」けれども実体としては無いから、コロコロと変わる。
生活習慣や呼び名が変わるだけで変わる。
そういうものを信じて先行きの吉凶を求めるのは愚かなことだけれど、
それらには気をつけなければならないヒントがある。
宿縁や相性はひとつのヒントであり、
冷静に観察すれば、そのヒントから智慧を引き出せる。
『般若心経秘鍵』には
迷い不安は心を静かにすることと、良き思いによって、断ち切られる
悟りは遠いところにあるのではなく、すぐ近くの自分の中にある
とある。
宿縁や相性よりも、
これこそを信じて修行工夫すれば、何事も円満に解決する。
国会図書館で調べ物をして、永田町から地下鉄有楽町線に乗り有楽町で途中下車。
大学3年生の時、駅前にマリオンという強大なビルが出来た。
その中の映画館で、ビールを飲みながら洋画を見るのがおしゃれなことだと思っていた。
会社に勤めている頃、
退社後に新橋寄りのガード下でよく飲んだ。保健所は何も言わないのか、と思うような汚い店もあったけれど、
「月の桂」の濁り酒を頼み、足が立たなくなるまで飲んだ。
結婚する前の妻にも、足が立たなくなるまで飲ませた。
特別な時は、
今は無い月光荘ギャラリーでホログラムを見てから、粋な鮨屋「きよ田」で熱燗。
この店は今でもあるみたい。
各県のアンテナショップが並ぶ交通会館の3階テラスに出たら、
そこは新幹線を見るために作られたような場所だった。
時速300キロで走る新幹線を間近に見られる郡山の「こどものもり公園」を思い出した。
明日はJRのダイヤ改正。
烏山線のキハ40形1000番台は今日がラストラン。
明日からは全列車が蓄電池駆動電車のEV-E301系になる。
僕が好きな、秋田の583系も廃車になる。
どちらも国鉄時代からの車両。
大きな子と小さな子がいて平均値があるのだから、要するにみんな違うということ。
みんなが平均値に近かったら気持ち悪い、工業製品じゃないのだから。
家人が職場の健康診断結果を見せてくれ、おもしろいなあと思った。僕は受けたことがないから知らない数字ばかり。
血液検査の基準値は、日本人間ドック学会・健康保険組合連合会が決めています。
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この基準値、これを超えれば病人、ということなのかしら。
どんな生活をしていても、どんな体質でも、同じ数字を超えれば病気なんて変な気がするなあ。
例えば、
肉体労働を続けてきた人が転職して芸術家や坊さんになれば、運動量が減ってコレステロールや中性脂肪の値も変わるだろうな。
環境や習慣、食生活が変化しても変わる。
血液検査で出る数字は、血液を作る食べ物で変わるのだから。
若い時の総コレステロールが170mg/dlで、年配になって200になれば、
その差だけ生活を工夫すれば良いのだろうな。
基準値とか平均値は、多くのデータから解析されたのだろうけれど、
それが誰でもにそのまま適応されるものではないはず。
そのような数値を参考にするのは分かりやすい方法だけれど、僕は望診法で判断しています。
身体の表象を診て内臓の様子を判断する望診法は、その結果について陰陽で対応できる。
お気持ちがありましたら、ご覧ください。
『望診法講義録 人相遍』
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『望診法講義録 手相編』
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メガネが無ければ無理に見なくてもいいや、と楽な気持ちにもなります。
眼は耳鼻舌皮膚心とともに対象を認識する器官ですが、眼は色や形を担当。
「あなた」を「眼」が「見て(認識して)」、脳へ伝わり「きれい」とか「素敵だ」など心が生まれます。
きれいとか素敵だなどの判断は、心の源底にあるDVDに記録されているものから引き出され、再生される。
その眼は見えるものと見えないものが、常に変化しています。
日常作法の洗目の真言は、
目を洗うことで眼病が去り、十方に諸仏を見る
という意味がある。十方に仏を観る心になろうとすることが大切。
毎日拝むどんな作法の中にも、仏眼仏母という仏さまがいらっしゃいます。
名前の通り諸仏の母で、このお母さんに加持されて、魔が避け、事業が成就する。
母が子を守り育てるようなもの。
誰に対してもそういう気持ちを持つようになりたい。
仏眼さんには五つの眼があり、
肉眼は普通の目、
天眼は肉眼よりもっとよく見える眼
この二つは世俗の眼、自分の外側を観る欲望の眼。
慧眼、法眼、仏眼 は自分の内側を観察する眼で、
この眼によって空や縁起や覚りを知る。
それによって、すべては成就する。
もうひとつ、
拝む作法中に金剛眼があります。
両目に梵字を観想し、右目が日に、左目が月になり(この左右が逆の経典もあるけれど)、
その光りによって一切の悪が消えます。
暗闇に明かりを灯せば総てが見えるように、
智慧の光があれば、迷い苦しみの闇が消える、ということ。
眼から智慧の光が出る。
ところで、
『古事記』に重要な神々が生まれた時の記述があります。
まだ仏教の影響が無い時代の話。
イザナギノミコトが死んだ妻恋しさのあまり、冥土へ尋ねて行くけれど、
そこは来るべきところではない、そして見るべきものではないものを見た、と覚り、
急いで帰り、日向の橘の小門の阿波岐原で禊(ミソギ)をします。
そして、
左目を洗ったときに日の神 天照太神が生まれ、
右の目を洗ったときに月の神 月読命が生まれた
とある。
日本古代史では、ミソギによって眼から日の神と月の神が生まれ
密教では、
梵字(これは仏のシンボル)と智慧と瞑想により、日月の光明が生まれ、大日如来の悟りにつながる。
日(太陽)は智慧(勉強)
月は禅定(心を静かにする修行)
の象徴。
陰陽五行説で眼は肝の蔵。
望診法でも眼で肝臓の様子を判断します。
肝臓は怒りに敏感で、肝臓が健康なら忍辱(耐え忍ぶこと)に優れる。
なので、
和やかに微笑むことは眼の滋養になり、悟りの仏眼につながる。
食べ物では酸味、辛味。
「地球上に数多くの人間が生きている中に我が妻となり夫となる者は唯一人きりである。
不可思議な因縁であるが因縁のみに任せておけないのが吾々の本質である」
と始まる 。
そして、
「結婚の根本問題は実に「相性」の問題であると思う。世間では相性の問題と云えば「十二支」に依る判断と直感するかもしれないが、実はこの問題はもっともっと広く且つ深い種々なる要素を含んでいるのである」
として
第一 補償の法則
夫婦はお互いに「持ち合わせていないもの」を「持ち寄って」相互に「補償し合って」包容の生活を進めていこうとするのであるから、これが都合よく行くか行かないかが吉凶判断を下す規準となる。
第二 一致の法則
二人は相異なっている半面に、一致していなければならない一面を同時に備えていなければならない。この一致点の部分において吉凶の判断を下す規準がある。
第三 調和の法則
家庭の「うまさ」を続けていくには夫婦の間の調味料となるものを二人は如何に持ち合わせているかが吉凶の判断を下す規準になる。
続いて
第四 遺伝の法則
第五 年齢の法則
と分けて説明されている。
基本的に男女の相性は陰陽のバランス、と僕は考えています。
自分が比較的陽性なら、陰性な相手に惹かれ、一緒になる。
陰陽の差が大きければ起伏の激しい関係になり、その差が小さければ比較的穏やかである。
相手の陽性が、生活や環境や老化で強くなれば、
こちらはより陰性になるよう工夫すればバランスが取れる。
姿形が陽性なら内面は陰性なので、外見だけで引き合うことは無い。
そして、
陽性な父親には陰性な精子があり、陰性な母親には陽性な卵子がある。
それが受精して、卵子の力がより大きければ男の子が生まれます。
陰陽は自然の法則で、環境時間習慣によって変化します。
女性が陽性に成りすぎれば、元々陽性な男と衝突して別れる、
ということもある。
男女の相性が良いということは、
日と月のような関係で、
学問と実践、差別と平等、慈悲と智慧のように、
互いに離れては存在しない、ということかな。
浪人中に喫茶店(それまで不良が行く所だと思っていた)とパチンコ(メテオ)を覚え、洋楽をたくさんたくさん聴いた。 当時はウエストコーストサウンドが全盛だった。
その年の11月17日、永く主夫をしていたジョン・レノンが五年ぶりにアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表。僕はすぐに買った。だから、追悼の文字が無いきれいなジャケット。
というのは、12月8日にジョンは射殺されたから。
この日はずいぶん特色があり、
大日本帝国軍が真珠湾を攻撃、米英に宣戦布告(1941年)
力道山が赤坂のナイトクラブで暴力団員に刺される(1963年 15日に死亡)
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏洩、事故隠し(1995年)
なにより
この日はお釈迦さまが菩提樹下で成道された日。悟りを開いた日 。
重要な日である。
そして1980年、
ジョン・レノンが死ぬ4日前にスターズ・オン45というバンドがビートルズ・メドレーを発表。世界的なヒット曲になった。 もちろんジョンの曲もヒットしたけれど。
僕はその頃、英語の勉強は洋楽を聴いてディクテーションすること。
毎週土曜日のFEN「American top40」は欠かさずに聴いていた。
そのスターズ・オン45~30周年アニバーサリー日本限定版を遅まきながら購入して、
運転中に楽しんでいます。
亡くなられたかたがたの菩提と、被災地の円満な復興を心からお祈りしております。
さて、
福島県の県民健康調査「妊産婦に関する調査」について、が公表されています。
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1)妊娠結果について
母子健康手帳交付後の流産、中絶、早産、低出生体重児の割合は、今までの調査とほぼ同
様の結果であった。単胎における先天奇形・先天異常の発生率も今までの調査結果と同様
であり、一般的な発生率と比べて大きな変化はみられなかった。
2)メンタルヘルスについて
うつ傾向ありと判定された母親の割合は、経年的に減少傾向を示しているが、産後うつ病
疑いの推定割合は全国データよりも未だ高率であった。
3)自由記載内容について
自由記載内容は、「育児相談」が最も多く、次いで「育児支援サービスの充実の要望」で
あった。平成 23、24 年度に最も多かった「胎児・子どもへの放射線の影響について」は
減少傾向を示した。
人口動態調査でも福島県は宮城、岩手と同じレベルです。全体的に人口は減少。
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明日から相馬、東松島へ拝みに行きます。
帰りは郡山で、去年生まれた赤ちゃんに会うのが楽しみ。
郡山で長男と合流して運転を交代。
二本松から相馬福島道路の建設が進む115号線を走る。
これは復興支援道路とされているけれど、どうなのかな。
相馬へ抜け、松川浦の慰霊碑で読経。海がきれい。
この辺りの津波被災地はソーラーパネルが拡がっている。人が住めなくなった土地活用のひとつ。
6号線から45号線を走って東松島へ。
復興のシンボル的存在である「えんまん亭」で夕食をとってから、宮戸島「ちどり館」に投宿。
すべて流されたこの地には、海苔と牡蠣の養殖が戻り、民宿も6件、再出発している。
今は、わかめ、めかぶが旬で、シラウオが走。
牡蠣もまだ採れ、海苔は四番摘みくらい。
海苔はお茶と同じで、新物(一番摘み)は柔らかく薄く高級品。
二番摘み(年明けに収穫)がもっともうまいと言う人が多く、
三番四番と固く厚くなけれど、ほうれん草の磯あえなどには向いている。
そんなことを教えてもらう。
高台に移転した野蒜駅に永良尼を迎えに行き、
毎回伺う宮戸のキジマさん宅へ。
http://asacoco.jp/rensai/fukkou/miyatojima/
キジマさんが整備しているお地蔵さん前で読経。
津波の跡地はどこも広大な土地が拡がり、
何に使うのか決まっていないのに造成が続いている。
補助金がもらえるから何かを始めても、
後継者がいないから続かない。年寄りばかりで管理に手が回らない。
交通手段や食事処が無い。
移住を呼びかけても、学校が無いから地元には住みにくい。
漁業をしたい人が来てくれても、地元に住んでくれないと漁業権が得られない。
津波で小魚の産卵場所になる海藻の森は少しづつ回復しているけれど、
もう少し時間がかかりそう。
そして、
残された人で地域を守るのは大変で、
草刈りだけで毎日が過ぎていく。
などと話を伺う。
広いから、ちょっと工夫して合宿などで人が来るようになれば良いなあ。
お暇して、永良尼と長音寺跡、野蒜小学校体育館跡地、東名慰霊碑で回向。
そんなことを看板に掲げても関心を持たれないけれど、
神とは何か、人生とは何か
と話し始めれば、たちまち人が集まる、
というのがインド。
お釈迦さまの時代、古代インドで主流だった正統派バラモン教は、
霊魂の多様性を信じ、霊魂と物質とを区別して、現実の世界を実在としていました。
そして、世界の創造神・最高神としてブラフマンをたてます。
仏教は創造者を否定し、神を持たない人間中心主義なので、
バラモン教からは異端とされていました。異端の出家修行者を沙門と呼びます。
仏教以外にも異端の思想があり、それぞれ人気を集めていました。それらがまとまった形で書かれているのが『沙門果経』 。その中に六人の沙門が登場します。六師外道と云う。
その六人の名前と主張は、
1、プーラナ・カッサパ
無道徳論者。因果応報を否定し、善いことをしても悪いことをしても来世にその報いはないとする。
2、アジタ・ケーサカンパリン
唯物論者。人も世界も「地・水・火・風」の四元素で構成され、これのみが真実在とする。
だから、霊魂も善悪の報いも無く、宗教や道徳は無意味である。
死ねば四つの元素がそれぞれ他に移るだけで、人間そのものは無となり、死後には何も残らない。
3、パグダ・カッチャーヤナ
霊魂も物質とする唯物論者。人間も世界も、地・水・火・風・空・苦・楽・霊魂の7つの集合要素であり、物質ではない神は存在しない。
人を刃物で切っても、生命を奪うことは無く、刃のみが七要素を通過するだけ。
4、マッカリ・ゴーサーラ
運命論、決定論者。
生けるものの構成要素は、霊魂、地・水・火・風・空・得・失・苦・楽・生・死の12であり、
すべては運命によって決定されており、努力による救済など無く、人には意志も力も無い。
5、サンジャヤ・ペーラッティブッダ
不可知論者。人は知識によって真理に至ることができない、とする。
不可知論とは、
もし、あなたがあの世はあるのかと尋ねて、私がもしあの世があると答えたら、あの世はあると考えるだろうが、実際に私はそうはしないし、その通りだとも考えないし、別だとも考えない。
もし、あなたがあの世は無いのか、あの世はあってまた無いのか、あの世はあるものでもなく、無いものでもないのか、と尋ねても同じである。
という思想。 鰻論とも云う。
6、ニガンタ・ナータ・ブッダ
ジャイナ教祖。
森羅万象の一切に心と霊を認め、その心霊を支配しているのが自分の過去の行為(業)であるとする。
その業の輪廻から抜け出すために修行をする。
仏教と似ているけれど、違いは霊魂の常住を認めている点。
このうち、
4、マッカリ・ゴーサーラの運命論を、最も危険で下等な思想、と初期仏教では考えていました。
仏教の基本のひとつが不放逸。怠りなく修行をすること。
思い通りにならないこと(苦しみ)には原因があり、それを取り除けば苦しみから解放され、
その方法が修行であるから。
そしてあらゆるものは変化している。相互に依存して存在している。
だから、運命で決まっていることなど無く、結果は縁と条件で変わり、
修行と正しい生活によって変えることができる。それゆえに悟ることができる。
努力工夫によって幸せになることができる。どんなことでも可能性がある。
男女関係も災害も病も健康も幸不幸も、
運命では無く、遺伝も霊魂も前世来世も関係無い。
他のせいではなく、自分が作り出したもの。
現代には 、
阪神、横浜、広島、ヤクルト、中日、読売の六球団があり、
その中で読売は最も憎むべきものである、
というのが僕の思想。
そういうものは無いですね。
料理を教えて欲しいと頼まれてご自宅に伺い、
いろいろ作っていると、
台所にいる時間が長くなりますねえ、
と言われる。
簡単便利にさっと作りたいらしい。
勉強しないで合格したい、練習しないで試合に勝ちたい
と言われているようでちょっと困ります。
時間と手間がかからないものは身につかないし、
楽をすると失敗を生むのに。
『雑阿含』十七には、
一切有情は食によって存す
とあり、
『倶舎論』第十などには四食があります。
1、段食 香味触を体とし、鼻舌にして食す
2、触食 喜楽に触れて身を養う
3、思食 意識を体としてその境界にて希望の念を生じて身命を保つ
4、識職 心の水面の源底を本体として、よく有情の身命を支持する
初期仏教では、
食は生存の条件であり、新たに生まれる命の助けとなる
衆生を教化する為の食 必要以上の貪りをしない
という考えかたでした。
そして、
食べてはいけないものは『智度論』などに、
(1)方口食(方邪)
四方に奔走して国王などの使命を先方に通じ、巧言で相手を説くなどして、その功績で得た食のこと。
(2)維口食(維邪)
修行僧の本務を忘れて医術・占相などで得た食のこと。
(3)仰口食(仰邪)
占星術で吉凶禍福を説いて得た金銭や食料のこと。
(4)下口食(下邪)
耕田して五穀を作って得た食のこと。
よこしまな生活態度によって得た食はダメ、
ということですね。
僧侶の食は托鉢によるべきで、耕作などの生産的なことはしない、というのが修行僧の決まりだったので、(4)があります。
『倶舎論頌疏』には
人を益すること有れば皆食と名づく
とあり、
単に身体を養うだけではなく、座禅瞑想心静めによって喜楽すること
悟りを喜ぶ心を養う
も食である、ということ。
『雑阿含経十五』に
四食の故に未来世に生老病死憂悲悩苦が集まる
とあり、食事は煩悩の元であるとしますが、
それは座禅瞑想などの心を観察する修行によって滅します。
さらに、
『集異門足論第一』には
考えなしに食べ、食べねば力が出ぬとて食べ、おごりたかぶる心をおこすために食べ、顔色をよくし皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、世間の人にみめよしといわれんとして食べるもので、食の意味もわからず、ただ食べるだけの愚かな食べかた
を避け、
この身体を存在させ、飢渇を防ぎ、修行を摂受するために食事をとり、節食よりの苦を断じ、飽食より生じる苦を起こさず、飲食を如法に受け、身体を衰えないように、心に喜楽を受けるために、行動に差し支えないために、この身を保ち、修行に必要な限度に食事を摂ること
を選ぶべきとあります。
密教では、食事を煩悩とせず、
心中金剛界三十七尊に供養するため
食を肯定して無量の福と化す
(『栄厳阿闍梨』口伝)
という立場。
僕らは仏と同じで本来悟っているのだから、その仏に供養するために、幸せになるために食べる。
いずれにしても、
敬虔なる感謝をし、常に心に喜びを持ちながら作り、食べることを心がけるのがよろしい。
バラモンはカースト制度最上位の司祭階級のこと。
北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持ちますが、
元来、アーリア人は遊牧民として牛を所有し、戦闘に従事する武士階級(クシャトリア)が主体でした。
そして、
自然の恵みと戦闘の勝利を祈願するための宗教が生まれ、
複雑な祭式儀礼を司る専門の司祭階級がバラモンとして勢力を持つようになります。(紀元前1000年ころ)
バラモン教の根本聖典をVeda(ヴェーダ)と云いいます。
ヴェーダ聖典は、狭義に三つないし四つの本集(サンヒター)を指します。
それは、
1、リグ・ヴェーダ:神々にたいする賛歌の集成
2、ヤジュル・ヴェーダ:ブラーフマナ文献(祭事部門)。この中にアーランヤカ(森林書)と ウパニシャッド(奥義書:知識部門、梵我一如を説く)がある。
3、サーマ・ヴェーダ:旋律の集成
4、アタルヴァ・ヴェーダ:呪法の集成
Vedaの宗教は多神教(三十三天)
インドに入ったアーリア人にとって重要なのは、
インドラ神(帝釈天)と、祭式の中心を構成するアグニ神(火天)
インドラ神は酒に酔って暴風雨を巻き起こし、敵を打ち破って牛を奪う。これはクシャトリアの理想像で、
アグニ神は宗教儀礼・家庭生活に最も重要な火の象徴でバラモン的な性格を持ちます。
Vedaの宗教はこの二つを始め多くの神々に犠牲を捧げて祈り、
その加護によって種族の繁栄を目的とします。これをyajna:ヤジュニャー(供犠)と云います。
そこで祈られるのは、子孫と家畜の繁栄、長命、怨敵の降伏、名誉の獲得などの現実的な願い。
儀式の際に祭壇に呼び出される神は大きくなり、他は小さくなる。これを単一神教と云います。(henotheism)
更にその一神は儀式の都度交代します。だから交代神教とも云う(kathenotheism)
神々の中で、インドラ、アグニ神が特に重要視され、その祭式によりバラモン教が成立しました。
バラモン教はバラモンによる供犠の祭式が主体の宗教です。
広義のVeda文献の中に、本集に対する注解として膨大なブラーフマナ(神学書)が成立します。
さらに附属してアーランヤカ、ウパニシャッドの宗教書が編集されました。
これらはすべて天啓として絶対の権威を持ち、この権威に逆らうものは異端とされます(→沙門)
その後、多神教の神観に変化が現れ、従来の多神教の神々の中から創造的な性格を持った統一神が出現し、ブラフマー(Brahmā:梵天)と呼ばれます。
これは人格神であると同時に宇宙の根本の理法・中性原理としてブラフマンとも称されます。
ブラフマンは元々バラモン祭官の祈祷の言葉とその魔力を指す言葉でしたが、
宇宙の最高原理、唯一真実の実在を指す言葉となります。
以上のように、
バラモン教とはVedaの宗教の上に、
このブラフマンの宗教がバラモン司祭者階級を中心として展開した宗教。
現在、ウパニシャッド(Upaniṣad)の名称を有する100あまりの文献が知られていますが、
特に古ウパニシャッドと称されるものは、お釈迦さまより以前にMadhyadesa(インド中部高原)で作られました。
ウパニシャッドは別名奥義書と云われるように、師弟間に伝えられる秘密の教えです。
そこでは、
最高神としての Brahmā あるいは中性の大宇宙原理としてのBrahmanと、個人的な我(Ātman:アートマン)との合一が説かれています。
Ātmanは元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり、
「自我」を表わす代表的な語となります。
そして、人間の最も内奥にひそむ Ātmanこそは、宇宙の最高原理としてのBrahmanと同一であるという認識が Upaniṣad 哲学の最高の真理とみなされました。
この所謂 梵我一如(BrahmĀtman)の思想は、
バラモン教あるいはインド教の基調として2500年に渡り現在に至るまで、インド思想の王座を占めています。
仏教では、大乗小乗などのすべてを通じて最も重要な教理として四法印が説かれます。
1、諸行無常:すべての現象は変化して移り変わる。だから執着しない。
2、諸法無我:すべての物事は自己ではなく、実体は無い。だから執着しない。
3、涅槃寂静:執着が無いから煩悩は消え、そこは安らぎである。
4、一切皆苦:すべての現象は苦である。
このうち、特に諸法無我は仏教教理の最も重要な思想的特徴で、
古代インドにおいて、仏教徒たちはこれによってバラモン側から無我論者(anātmavādin)と呼ばれます。
この仏教特有の無我説も、正統バラモンの有我説に対する反対命題として理解されるべきもので、
諸法無我とは、全てのもののありかたは、我が無い の意であり、固有の実体としての我は無いということです。
Upaniṣadに説かれるような、
すべてのものに内在し、内部からものを主宰し、永遠性を持ち(常住)、絶対のBrahmanと本質を等しくするような実体としてのĀtmanは無い、ということになり、
仏教はUpaniṣadの哲人が思弁をこらしてついに到達した根本原理を否定して、
迷える人間の存在が、その存在から超越し、成仏し得るという教理を、縁起の教えとして成りたたせます。
仏教の哲学が無我説として、正統派バラモンの有我論の哲学と基本的に相違していることは重要。
正統バラモン有我説に対して、インド思想史上最も重要なものはUpaniṣadにありますが、
その中に転変説という思想があります。
それは、
宇宙の最初にあると想定される唯一の精神的原理である梵、あるいは梵天が、
性質上、質量因あるいは動力因としても活動性をもち、
梵自身の持つ活動性によって梵自ら変化を起こし、転変して、
その中からさまざまな衆生なるものが生じて、我々が現在見るような雑多な世界があるとします。
※参考
例えば、
焼きそばの質料因は、生麺や豚肉など、焼きそばの材料を指す。
焼きそばの作用因(動力因)は、「焼きそばがここにある原因」つまり料理人による実際の「調理」そのものを指す。 現在「原因」と言った場合、多くこれを指す)
正統バラモンの体制では、この転変説によって宇宙と生成を解釈します。
それは哲学上形而上学に属する一種の宇宙論であり、正統バラモンの思想の特色です。
正統バラモンの体制では、この形而上学を出発点とし、そのすべての学説をその上に成立させました。
この転変説をとるものは必ず禅定を修する必要があります。
禅定は dhyānaのプラークリット形(俗語形態)であるJhāna の音訳と意訳を一音づつ重ねた語で、静慮とも云います。心が静まること。
心がとても静まった良い状態になることが、禅定の効力のひとつ。
そうすれば安楽な気持ちになり、さらに個人的な心が無くなり、個人的なものより一層深く入った全ての人々の心に通づる普遍的な心に到達できます。
これが禅定の目的。
禅定においては肉体と精神の二元において、
肉体が勢力を持っているために、心がそれによって穢されると考えます。
その場合、肉体はそのままで精神あるいは心を肉体から遠ざけて静めることに努めます。
肉体と心が結合しているために、心がその本性を表わせないと考え、
その結合を解くことが必要とされますが、
究極的に肉体の影響を受けないのは、肉体の死以外にありえません。
ところが修行が完成しない限り、輪廻によって生まれ変わることにより、再び精神と肉体が結合した状態になってしまいます。
結局、現在の生存において、幾分でも禅定の状態に入った時は、
その期間のみ少なくとも肉体の力をあまり受けないことになり、
禅定に入っている期間だけを目的として修されます。
この禅定とは対照的にタパス(tapas)とヨーガ(yoga)があります。
tapasは本来熱の意味であり、精神的肉体的緊張を指します。
古いリグ・ヴェーダ(ṛgveda)の賛歌においても、神々はtapasによって世界を創造したとあり、
人間もtapasによって特殊な体験をすることが可能とされます。
tapasは苦行のことで、特に断食節食など食事から肉体を苦しめる修行。
精神と肉体の二元に対する考えかたも、禅定とは全く逆であり、
心はそのままにし、肉体を苦しめその力を削ぐ。そうすれば心は乱れないと考えます。
また、両脚を組んで坐り、肉体に苦痛を与えることにより、
特別な精神的体験をし、恍惚状態または忘我の境地に到達する。
このような修行をyogaと云います。yogaとtapasは結びつくことが多い。
お釈迦さまが在世したB.C4~5頃の古代インドには、tapasやyogaを行う出家修行者が多く、
śramaṇaと呼ばれ、その俗語形Samanaから沙門と漢訳されます。
仏典では必ず沙門はバラモンと併記され、
彼らは正統バラモンの体制から異端視され、これに対しVeda聖典の権威を否定する傾向をもった非バラモン的宗教思想の流れを形成しました。
当時の出家には、
1、四住期による出家
青年期に師匠の家に住みVedaの祭式を学び
成人して生家に帰り、結婚して家を守り子どもを儲け
祖先の祭祀を絶やさぬようにしてから出家し
隠者の生活に入る。
2、バラモン社会に嫌気を抱いて、直ちにその社会から出家する。
の二種類がありました。
彼らは正統バラモンの転変説とは対照的に、宇宙の根源はひとつではなく多であり、
多数の要素が存在すると考えていました。
その多数独立の要素が、何らかの形式で結合し集積して、今現に我々が見るような雑多な世界が成立した、ということ。
世界は元素で作られている、というような考えかたです。
このように、
雑多から雑多が成立するというのが思想的特徴です。
従って霊魂の多様性を信じ、霊魂と物質を区別し、世界を実在視しました。
さらに、正統バラモンがたてるような世界の創造者を否定し、最高神を認めず、
Vedaの祭式をはじめ、Vedaの聖典や神々の権威を認めないので nāstika(異端)と呼ばれていました。
仏教もまたこの沙門の宗教として、 nāstikaのひとつとみなされます。
最初期の仏教が、
神をたてない人間中心の宗教である特殊な性格は、このような古代インドの歴史的事情によると考えられます。
(昭和63年 高野山大学仏教学概論(蜜波羅鳳洲先生)の受講ノートから)
Ātman(アートマン)は元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり「自我」を現す代表的な語となりました。
仏教ではこの自我を否定します。アートマンは実在しない。
それが仏教であるかどうかは、無我であるかどうかですが、
「神」なども無我です。絶対的な神が存在するのではなく、
我々との関係の上にのみ存在する。
無我であれば、執着が消え、苦しみが無くなります。
「私」も何もかもは常に変化して、あれが欲しい、もっと欲しい、思い通りにならない私は過去の私。
「私」とは概念に過ぎないのです。
で、
呼吸を止めれば自我も無くなる。
肉体の束縛から離れ、心は開放されるけれど、それでは死んでしまう。
お釈迦さまは長い間の苦行を捨て、菩提樹下の瞑想によって悟りを開きますが、
その悟る前、最後の苦行が無息禅(阿含経によれば阿婆頗那迦三摩地)で、
これを境に、一切如来の真実に至る観法によって悟ります。
死ぬような呼吸停止ではなく、
呼吸を調えることにより自我の迷い煩悩を減らして、より良い希望に転換することはできます。
数十秒間呼吸を止めることで、副交感神経を刺激して、ストレスを開放できます。
呼吸の乱れは自我の混乱で、苦しみの原因。
呼吸を調えることが自我を調えることになり、
心は静になります。
卵を放置すると腐りますが、適温で日に3回、回転させれば、ひよこが生まれます。
遺伝と病気はそのような関係でしょう。
陰陽研究塾の記事 37 「遺伝と病気について」
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/ylcTArJYthQ
そして、陰陽のバランスがとれていれば余分な物は排毒されます。
陰陽研究塾の記事 38 2017.3.24
●ひじきに含まれる砒素について
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/V959GzTqGkE
『望診法講義録 人相遍』
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『望診法講義録 手相編』
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密教では、
・似ているものは同じものである
・すべての存在は如来の象徴である
という視点があります。
大日如来と僕は姿形が似ているから同じもの
あなたも似ているから大日であり、あなたと僕は同じである。
同じ価値がある、ということ。どんな人も同じ。
月は円満で清浄だから
蓮華は泥から生えて泥に染まらず鮮やかだから
大地はすべてのよりどころだから、
水は悩みの熱を冷ますから、
火は煩悩の薪を焼きつくすから
風は迷いの塵を吹き飛ばすから
大空は差別仕切りが無く、何にも染まらず、とらわれていないから
仏と同じ。仏(悟り)の象徴・シンボルです。
その仏と僕らは同じもの。
『解深密経』には、
心内影像と能縁の識は、唯識の原理において、似同的かつ同時的なので、両者は異ならない。
心が心をどうして観るのか、
ある心(法)が別のある心(法)を観るのではなく、
所縁の心と能縁の心が必ず似同的同時的に顕現する
とある。
「即身成仏の図式」(『仏教経典散策』「金剛頂経」)で津田真一博士は、
もし、個人的存在と究極的実在が相似であるなら、その両者は同一である
もしも個人存在が自らの構造を究極敵意実在のそれと相似的になるように再構築し得るなら、前者は自らを後者に合一させることができる。
と書いています。
具体的には曼荼羅仏像仏画、印真言、仏具、行為動作は、
仏と個人的存在との中間におかれ、両者を媒介する。
鏡に映ったものは、そのものと同じ
心に映ったものも同じ
心に映るものは、心が作ったものであり、
外界の事象も、心を離れてありえないから、心と異ならない。
心身は仏の住居なので、その姿がいろいろでも、みな同じもの。
骨も筋肉も血液もなにもかも、仏を構成しているものと同じだから、みな同じもの。
そもそも、骨も筋肉も血液もそのもの自体が仏なので、仏で僕らは作られている。
同じものだと知れば、差別は無くなり、穏やかな世界が表れるのだろうな。
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『望診法講義録 人相遍』
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『望診法講義録 手相編』
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大切な修法には、反物や美濃紙などを巻物にし、仏布施というお供えにします。
巻物は特別なもので縁起物
春巻きも春の縁起物
具にする春雨は、春の静かな雨のこと。
芭蕉『笈の小文』に
春雨の木下(こした)につたふ清水かな
がある。豆そうめんとも云う。
ノカンゾウはさっとゆでてパスタと酢味噌で調える。
菜の花は塩茹でして甘塩を振る。
春の陰性な苦味と酸味は、古い陽性を溶かして肝臓の滋養になります。
陰性なアルコールも砂糖も油も、たまっている間に陽性になります。
健康と知能のためにはヘモグロビンが必要で、
クロロフィル(青い野菜)と良い呼吸がヘモグロビン(赤い血)になる。
春の青菜の苦味辛味をどれだけたくさん食べるか、適切な呼吸をしているか、
それが初夏以降好調不調の差になるだろうな。
心身が好調なら縁起が良くなる。
さて、
Mサンは昨年、教会で洗礼をうけ、キリスト教徒になった。
6年前、震災原発事故で彼女の住まいも仕事も被害を受け、いろいろ苦労もしたようだけれど、
元々評判の良いお店で、再出発をしてからも人気があった。
明朗快活、聡明で才能ある女性で、
何よりタイガースファンだから信用できる。
何かの時に僕が、震災事故後の生きかたにおいて、宗教を持つことで良かったと感じることがある、というようなことを言ったようで、
それが信仰のきっかけになったらしい。
田中千秋先生は、
宗教を持つと持たないとでは人間の純度が違う。
持っていればだんだん混じり気がなくなる。
とおっしゃっていた。
本来、信仰は見返りを求めない。
内道を浄化するためのものだからである。
信仰が無くても道徳や倫理があり、心優しくして他の暮らしを助けることはできる。
でも、宗教は信仰によって人の魂を高めることができる。
小さな虫でも鳳凰の羽につかまれば、大空をどこまでも飛べるように、
非力な自分でも、信仰の力によって、分別を離れ執着と迷いの汚染が無い大きな心に住することができる。
仏教には、心を開放し、しあわせになるカリキュラムが数多くある。
お寺に来る人にそれらの修行を勧め、ともに拝み、
自他共に自覚の境界を味わえるようにしたいものである。
寺院は修行をする場所であり、
仏教はしあわせになるためのものだから。
修行の基本は、慈愛と自心の本源に坐ることである。
これは、かたちこそ違へ、どの宗教も同じであろう。
病人が医薬により安心し、
貧乏が金銭により安心するのは、
医薬金銭が病貧に有効であることを信じているからである。
信仰は、
目的とそこへ至る方法を信じることで、
その目的は転迷開悟、方法は日々の修法である。
当地も春らしくなってきました。
今日は婁宿。何かを急いで片付けるのに良い日です。
今年は母校の100周年で祝賀会があるのですが、当日5月5日は金曜張宿で金剛峰日。
その前3日は水曜柳宿で甘露日。
どちらも吉祥日。
日々是好日で拝めばいつも吉日になるのですが、暦でもおみくじでも、吉祥とあればなんとなく嬉しい。
それはさておき、
上野は終着駅。
僕は栃木育ちだから上京して着くのは上野駅。そこには今でも井伏鱒二『駅前旅館』のイメージがあります。
もっとも上野駅らしいのが13番線から17番線までの頭端式地平ホーム。
行き止まりの線路が並び、終着駅の風情がある。
東北新幹線が開通するまでは20番線まであり、東北へ向けて特急列車が発着していました。
東京駅や新宿駅にはこれが無いから風格に欠けるんだなあ。
昭和60年ころの14番線。「つばさ」秋田行き
上野には赤帽さんが大勢いて、 ターレーも行き交っていた。
上野で時間があればまず15番線ホーム終端の啄木碑を眺めます。
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
この右後ろには朝倉文夫作「三相 智情意」の彫像。
上野駅中央改札口を出て振り返れば、猪熊弦一郎の壁画「自由」
四国丸亀に猪熊弦一郎現代美術館があり、
京都東山五条の河井寬次郎記念館とともに、僕のお気に入り。
昔の改札口には、列車の出発案内が居酒屋の舌のようにならんでいました。
この改札口に向かって右側券売機の上には、平山郁夫のステンドグラス「昭和60年春 ふる里日本の華」があります。
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拙著。どうぞお求めください。
『望診法講義録 人相遍』
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食前のお茶の温度、ご飯の温度、天つゆの温度、食後のお茶の温度、お燗の温度・・・。
それらに気をつけると何倍もおいしくなります。
穀菜食の舎メールサービス
○料理の温度
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/2HsxLLon90A
陰陽研究塾の記事 39
●心臓の違和感
セイタンは「マルシマ」という醤油屋さんが出している生麩(小麦グルテン)の佃煮。
岐阜の伊深時雨や、寺院が多い地域にも生麩の佃煮、時雨煮がありますが、
醤油以外の余計なものが入っているので、料理としてはおもしろいけれど、食養で使うには工夫が必要。
心臓を動かすには卵醤で良いのだけれど、アレは薬みたいなもので、料理なら苦味を使うか、セイタンが便利。
その他、骨のトラブルや貧血にも使える。
陰性な大豆を陽性な味噌や醤油にしたり、
陰性な梅の実で陽性な梅干を作るのと同じで、
陰性なグルテン(小麦と大豆ではちょっと違うけれど)が醤油と火(時間)で陽性になっている。
こういうところが料理のおもしろい点ですが、
元々が陰性なものなので、排毒の作用が期待できます。
塩のように陽性だけだと、締まりすぎて排毒できない。
セイタンの成分は
(100gあたり)
エネルギー 169kcal、 炭水化物 8.5g 、たんぱく質 28.6g 、ナトリウム 2800mg、
脂質 2.3g 、食塩相当 7.1g
単純にナトリウム量で比べると、
梅干は 8700㎎
麦味噌 4200㎎
豆味噌 4300㎎
梅干や味噌よりずいぶんと陰性。
材料としてはおもしろいし旨味も多いので、普段の料理でもいろいろ使うと便利です。
値段もそれほど高くない。
昨夜作ったのは八宝菜風。
セイタンの7倍量程度の野菜キノコを合わせれば、陰陽のバランスがよろしい。