今年で1160年になる伊那谷で最も古い寺であり、伊那西国三十三番札所の第一番札所。
立石寺という名の由来は、
「一夜のうちに七尺に余る青石大地より突出す、此等の因縁によって寺を立石と改む、立石村というのも同時なり・・・」と16世紀に書かれた立石寺縁起にある。
立石寺と云えば、芭蕉の句で有名な山形県の通称 山寺(宝珠山立石寺)が有名で、
こちらは円仁さんが開いた天台宗の寺。
両者のつながりは不明だが、
「飯田市・立石寺の伝広目天立像について」(『飯田市美術博物館研究紀要 14』 2004.4)
http://
によれば、本尊十一面観音は寺の創建より古い可能性があり、
寺の隣には比叡山の地主神である日枝神社(日吉神社)があることから、
何か関係があるのかもしれない。山寺の開創も貞観2年(860)と近い。
現在の立石寺本堂は江戸時代、領主・近藤重尭の再建とされており、堂内諸尊もその時に補修されたと思われるが、それ以降修復の様子はなく、国の重要美術品である本尊はじめ、仁王門の密迹金剛、執金剛神も修復が必要なレベルである。
本尊の十一面観世音菩薩は、平安時代中期~後期の作と考えられる秘仏。
この地域は、高森町発祥とされる市田柿とともに立石柿の産地で潤い、「柿の観音」と信仰されていた記録(絵馬)がある。
秘仏の前には前立ちの十一面立像があり、その両側に四天王をまつる。
十一面観音の周囲に四天王を配置するのは、東寺・食堂を始め作例は多い。
仏教の世界観に三界(さんがい)がある。
欲界 :欲望の働く世界
色界 :欲望の無い物質の世界
無色界:精神世界。
この三は共に迷いの世界で、この中を輪廻する。
その欲界に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つがあり、
天の中に六種類ある(六欲天と云う)
その下から(?)二番目の忉利天(とうりてん、三十三天とも云う)は須弥山上にあり、そこにおわす帝釈天に仕えて四方を守護するのが四天王。
忉利天は戒波羅蜜(智慧によって持戒の行が完成していること)の世界なので、禅定(心を静かにする瞑想修行)を護るのが四天王の役割であろうか。
灌頂などの儀式を護るのは十二天
修法の行者を護るのが四天王
と、僕は考えている。
また、『孔雀王呪経』などに、護摩壇には四天王を配する記述がある。この本堂も護摩壇である。
十一面観音はバラモン教の十一面の暴神・エーカダシャ・ルドラ(11の顔を持つもの)が由来と考えられるが、
『十一面観音神呪経』には、
十一面というのは心真言(神呪)のことであり、十一面観音という変化観音は形成されていない。
その十一は
十一倶胝の仏陀によって説かれたから、とする。倶胝(くてい)は数の単位で、10の7乗。
十一面の心真言は、「ブッダの大悲に入る智慧の真髄」と呼ばれ、
現在一般に唱えられている十一面観音の真言にも「キャロニキャ=大悲」とある。
立石寺本堂には聖天もまつられているが、
これは『十一面観音神呪経』の「身中障難の除去を目的とする息災法」に、
十一面観音と聖天を灌浴する
とあることからであろうか。
また、
十一面と聖天は、ヒンドゥーのシヴァとガネーシャの関係とつながりがあると考えられる。
それは、
上記のエーカダシャ・ルドラはシヴァ神の影響を受けており、
「Buddhist Thought and Ritual. Motilal Banarsi(2001)」には、
シヴァはウパーヤ(方便)として書かれている。
この方便は『観音経』に
「観音は広く智の方便を修して、十方の諸の国土に、刹として身を現ぜざること無し」
「世尊。観世音菩薩。云何遊此娑婆世界。云何而為衆生説法。方便之力。其事云何。」
として、観音がさまざまな身体になって説法することが書かれており、その中に大自在天(シヴァ神)も現れる。
十一面観音はもともとインド伝来の呪術的な仏であり、説かれている経典も、
『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』、『陀羅尼集経』、『十一面観音神呪経』 などのいわゆる修法の経典である。
内容は、
衆生救済
治病
降伏
息災(身中諸難の除去)
など、呪術的な作法が説かれる。
また、
胎蔵曼荼羅の蘇悉地院(両部不二:悟りの境地に達すること)に描かれる。これは利他の実践によって成就する。
観音は蓮華部院に描かれるが、
十一面は観音のなかでもとりわけ蓮華部の徳(すばらしき完成)が優れているので、蘇悉地院に配置されている。
このように現世利益の尊格と、瞑想修行による悟りの両面がある仏であるが、
前者は立像で、後者は坐像で現される。立石寺本尊は立像である。
いずれにしても、
密教に取り入れられることにより、現世利益によって安心を与え、悟りへ導く、という思想に変化するのはどの仏でも同じである。
さらに、
この尊の心真言は、病気や貧乏からの逃れることのみを祈るのではなく、「それもあるけれど」菩提心を呪文化したものである。
以上のように、
十一面観音、聖天、四天王をまつる本堂は、
密教寺院としては当たり前のことであるが、息災と懺悔と悟りの成就のために修法をする修行道場である、と云える。
陰陽研究塾の記事 45
●痔の治しかた
痔は肝臓系、望診法では口を診ます
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/bzzGjYbzo2w
塩漬けと醤油漬け。しばらく楽しめます。
それはさておき、
最近はお葬式をしない人が増えています。お墓はいらない、という家もある。
昔のような、
元服や徴兵検査はだれもやらないだろうけれど、
七五三、成人式、入学式、還暦や喜寿なども、
出席しない、参加しない、行わない人は昔からいます。してもしなくてもどちらでもよい。
その人、その家庭の方針で決めるもの。
だから、
結婚式も葬式も、してもしなくてもよいけれど、
それをしないのは心がけが悪いとか、人としてどうか、ということではない。
最近は法事を行わない家も少なくない。
三回忌、七回忌などを年忌と云います。
しかし、仏教で故人を追善供養するのは中有の七七日(いわゆる「しじゅうくにち」)まで。
これは『大灌頂経』『梵網経』に典拠がある。
その後の百か日、一周忌、三回忌は中国の風習です。かの国で作られた『十王経』によるところが大きい。それでも、三回忌までです。
その後、七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。
江戸時代の檀家制度のため(キリシタン禁制のため)、寺院維持の収入を増やすためなど、
いろいろ考えられます。
いずれにしても、仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、
年忌に関わらず、人は故人先祖を尊敬し供養します。
ところで、
七七日を満中陰と云います。中陰が満ちる。
中陰はサンスクリット語の antarabhāvaの訳で、antara(中間の)bhāva(生存状態)ということ。
これは旧約で、新訳では「中有(ちゅうう)」と云います。
『倶舎論』などでは、衆生が輪廻するサイクルを四つに分けています。
1、生有:精子卵子合一した妊娠の一刹那
2、死有:死の一刹那
3、本有:生有より死有にいたるまで
4、中有:死有より生有にいたるまで
1,2,3、は分かりやすいですが、問題は4、ですね。
『大毘婆沙論』70では、中有の生存期間を、
1、短期間
2、七日間
3、四九日
4、不定
のいずれかとしています。
初期仏教の大衆部などでは、
死の一刹那に、ただちに次の生を受ける
つまり、中有は無い、という立場もあります。
なぜ、4種類の期間があるかといえば、
中有の期間に、
次の生に父母と予定されているものが性交を行えば、
中有は直ちにそこへ赴いて妊娠にあずかる
と考えたようです。つまり、
妊娠成立の条件は、女性の排卵、男女の性交だけではなく、中有の顕現がある、
ということ。
中有は、自分の父母に予定されている男女が性交を始めると、
空間的にいくら隔たっていても、直ちにそれを感得し、一瞬にしてその場に顕現する
と『瑜伽師地論』1にあります。
輪廻の主体は中有、ということになる。
この中有の運命は前世の業によって決まっています。地獄か極楽か人間界か、父母はだれか、が決まっている。
そして人間の場合、
『大毘婆沙論』70によれば、
1、予定される父母が性交の機会に恵まれなかったら、他の父母に転じる
2、父母になるはずのものが、強制的に他の男女と交わり入胎する(中有の意志は必ず達成される)
とチャンスが二種類ある。
そういうことがあったのでしょうね。
肉体ではなく、心だけが輪廻する、という考えかたもあります。
『修行道地経』1には、
父母交合のときに心(精神)が赴く
『瑜伽論』には、
受精のときに、阿頼耶識(存在を決める根本的な識)が和合し依託する
とあります。
いずれにしても、
あらゆるものが空(実体が無い)ならば、
輪廻する実体も無いから、輪廻はありえない、と考えるか、
中有を信じると、
おそらく日々の行いを正し、臨終の姿勢を清めやすいですから
あたらな生(希望)のために一生懸命に生きよう
と考えるか、
今存在しているその事実こそが真実で素晴らしい、と考えるか、
仏教でもいろいろあります。
厚切りトーストに何を載せようかと考えて、
豆腐と少量の油揚げ、大根を炒りつけ、味噌、こしょう、タバスコで調える。
これは大腸の滋養になるもので、
何かを見極めたいという時は、このような白くて辛味のあるものがよろしい、
それはさておき、
『十住心論』には、
身体の病は多いといっても、要はただ六種である。四大(地・水・火・風)の不調と鬼と業である。
身体の病を治す方法に、温泉、散薬、丸薬、酒、針、灸、まじない、いましめ の八つがある。
鬼や業は仏教の修法によらなければならない。
とある。
業は悪業の報いだから、懺悔(の修法)が有効だろうけれど、鬼は具体的には何だろうか、とあらためて『仏教医学辞典』を調べてみた。
鬼病は、
鬼が四大五臓に入る(『摩訶止観』8)ことで、その鬼は神通力のある夜叉と羅刹らしい。
『楞伽経』には、
1、金銀草木などの精
2、風に託して災いをなす
3、老いたる狐狸に託して人を惑わす
4、蛇蝮に託して人を害する
5、疫病
6、餓鬼
7、睡眠中に人を惑わす
8、水石などの精
9、八幡使者の鳩
10、吉凶禍福の言を伝える巫女のごときもの
という十種の鬼をあげている。
わかりにくいものもあるけれど、根本は煩悩ですね。
だから、十住心論には呪法をもって鬼病を治す、とある。
お金も食べ物も、もっともっとと欲しがり、
他人をだまし、過失を求め、
常に怒り、
暴虐で人肉を食らうような鬼
なので、
身体の不調以外の鬼と業による病は、
懺悔と反省、精神集中と自心観察(心静めの瞑想修行)
によって無くすことができる。
お世話になっている先輩と池袋北改札にある「いけふくろう」で待ち合わせをした。
このフクロウ像は栃木の芦野石である。
先輩と奥様と3人で、西口の酒場「ふくろ」で飲んだ。
ここは朝から飲める店だけれど、夜勤明けの人が多く、携帯禁止、口論禁止、泥酔禁止の店なので客層が良い。
冬は湯豆腐がうまい。
都内の酒場では、
上野の大統領、錦糸町の丸源とともに僕のお気に入り。
僕は高卒後、上京して小田急沿線の学校に通ったので、新宿にはなじみがあったけれど、池袋はあまり知らなかった。
池袋は立教の街で、
寄席があって、
どちらかといえば汚い危ない街
と思っていた。
それに、
池袋を起点とする東武、西武より、新宿の小田急のファンだった。
東のサンシャイン60、西のメトロポリタンができてから、池袋の印象が変わった。おしゃれになったような気がする。
就職して3年目、仕事場が池袋になった。
東口のビル、NTT関連会社のマシン室で、M380という大型コンピュータのOSを担当。
だから、昼ごはんも夜の一杯もたくさん通ったのにあまり覚えていない。
一軒だけ、西口の立ち食いそば「君塚」が印象に残っている。
ここは新宿思い出横丁の「かめや」とともに、レベルが高い。
東京23区内には、地面に立つ赤い丸ポストが3本ある。
帝釈天門前、 両国江戸東京博物館前、上野下町風俗資料館前。
池袋西武7階の簡易郵便局には、ビルの中に丸ポスト。
ハウス栽培とか、家の中で飼うペットのような感じがする。
会社を辞めて高野山に上ることにした時、
職場の上司、先輩、同僚が毎日飲みに誘ってくれた。
応援してくれる人、引き止めてくれる人、うらやましがる人、それぞれだったけれど、
僕を気にしてくれていることが嬉しかった。
ある日、店から出てサンシャインを見上げると、
雲につきささるように上階は隠れていた。
夜は自分で作る。
タレは、
味噌汁の残り、純正醤油、ごま油、こしょう、酢、乾燥りんご
生臭たっぷりの麻婆豆腐が食べられなかったので、夜は自分で作る。
ニンニク、玉ねぎ、トマト、トウバンジャン、味噌、残りご飯・・・。
うまいものを作る
という努力工夫をしている人には敬服しますが、
うまいと感じる心身を調える、
という工夫が、人口に膾炙すれば良いなあ、
と思っています。
翌朝、僕の枕元に、
「6時に起こしてください」
とメモが置いてある。
僕は早起きなので、朝6時前にはひと仕事終えているから、おちゃのこさいさい。
なので、
早起きが苦手なかたへ、モーニングコールします。
どうぞ、ご利用ください。
それだけではもったいないので、仏教の相談ご質問お悩みごとなど、
お気軽にお電話ください。
但し、16時までに。
それはさておき、
以前にも書きましたが、
『十住心論』冒頭に、
「心病多しといえどもその本は唯一つのみ、所謂無明これなり」
(心の病は数限りないが、その原因は根源的な迷いである)
そして、
「醍醐がすべての病気を治す薬となるように、陀羅尼の妙薬はすべての重罪を消し去り、
速やかに根源的な無知の根を浮き取る」
さらに、『性霊集』九には、
「陀羅尼はすべての病に有効である」
また、『般若心経秘鍵』に、
「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く」
とある。
つまり、
心の病の原因は、無明の煩悩(おろかさの迷い)であり、
それは陀羅尼(観想と念誦)で取り除かれる。
この無明について、他の記述を探してみると、
「この甘露を注いで迷者を潤し、同じく無明を断じて摩軍を破せん」(『秘鍵』)
「身をもって十二因縁を修し、そこに無明の種子を抜く」(『 秘蔵宝鑰』 第五抜業因種心)
「我れ無明に積習せらるるによりて、身口意業に衆罪をつくる」(『大日経開題』 至心懺悔)
「マタの慧眼は無明の昏夜を破し(肉眼を加持して心眼とする)」(『秘蔵宝鑰』秘密荘厳心)
などがあり、まとめれば、
迷い(無明)によって三毒・煩悩・罪が生まれ
陀羅尼の修行によって無明は消える。
この陀羅尼とは、サンスクリット語ダーラーニー(dhāraṇī)で、
記憶、保持、禅定、三昧などの意味があり、
総持と漢訳し、すべての禅を保持し、悪を抑えること。
散乱する五感を制御して、精神を統一した状態が「陀羅尼」
その時、唱えるものに陀羅尼、真言などの文句がある。
具体的には、
座禅瞑想によって恐怖苦難を超え、
臍下丹田(気海)に意識を集中して、気息が調えば万病を消呑し、
足下に集中すれば、風大(腎臓・膀胱系)の不調に効果的。
さらに、
空観の瞑想によって、病を超越する。
『維摩経』には、
「空なる心身に病の生じるは、前世の妄想、顛倒、煩悩による」
とあるけれど、心を調えるには禅定などの仏教的トレーニングがとても有効。
単純に呼吸法を修するだけでも、
内臓のマッサージが行われ、血行が改善します。
心病は脳内の血行の問題だから、
血液を作る食べ物と、血行を良くする生活法が重要で、
呼吸と瞑想法はそれを促すことに役立つ
と考えています。
_______________________________________
※「お坊さんコール」は
0285-35-4901
または
090-6257-1472
念誦は即身成仏への易行である。本尊を通して、本尊の誓願を自身の中に通す。
瞑想は我を外すことである。無我の中に大我を観る。
自分というワクを大きくし、ワクさえも無くす、溶け込む。
どんどん大きくなる、そして大きさという概念がなくなると時空を越える。
今日も雨。一日中カッコーが啼く。Iさん来。
夕方排便、古便が出る。
後頭部が丸くなってきた。
苦味、塩気を避け、そば粉を食べている。
6月12日
Sさん来。戒名の件。
念誦の時、若し散心あらば、出入の息を観じて一法界と為して、我身と及び本尊を此の一法界に摂し、又一切の諸法を此の一法界に摂し、然る後に念誦せよ(『秘蔵記』)
ただ大日如来のみいまして、この計度(はからい)の小我を越えた無我の中において大我(まことのわれ)を証得している。(『吽字義』)
心の本体の内容である心の働きである国土を、
微塵にしたほどの実に多くの眷属の誰もが、
ひとつとして、この大我の身を得ざるものあらんや。
行者、この大空三昧を修するにあたり、くさぐさの縁にふれて、妄心起こる時には、その妄心はいかにして起こりたるかの因縁を観じ、その因縁をきわめるとともに、それは縁生(かりそめ)にして無自性であり、つまりは空であるとの観に住して、その妄心に追随してはならない。かくて妄心 息むとき、心源自ら空寂となる(『菩提心論』)
6月13日
昨日からそばパンにしている。
Iさんから電話、コンサートのお誘い。
宝球と白ジャスミンを檀に置く。
普段、空を見上げ見つけることは多くない。それは大きい、限りがない、たくさんのものを含んでいる。地球も私も抱いている、包んでいる。これが虚空蔵なのか。
雲は無常を教えている。
夕方、Tさんより、頑張ってくださいと電話。
子どもたちに自転車を買ってあげようと思う。
6月14日
雨。熊谷さんより鳴門金時、タケノコ佃煮、本、届く。お供えする。
おれは修行しているのだから、協力せい、と思ってはいけない。
剃髪。
6月15日
お大師さんの日。
供物は、玄米、カヤの実、鳴門金時、小豆煮、りんご、餅、突き仏供
少し眠い、少し疲れがある。吸い玉をする。
午後、乳がんの人来。
Sさんから電話。ライオンズクラブの講演依頼される。
心は体より大きい。
心の中に体があり、毎日があり、社会がある。
心は何でもできる。だから、幸せになれる。
仏教とは何か、寺はどうするべきか、
いろいろな意見があっておもしろかった。
ダライ・ラマがどこかで書いていたけれど、
チベットでは儀式ばかりして、仏教とは何かという勉強をおろそかにしている僧侶が多い。
勉強しないで修行しても無意味である、
と。
そういうことは、仏教に限らず、どんな社会でも同じかもしれない。
それはさておき、
『宗秘論』に、
球を持てば善念生じ、剱を把るは殺心の器
とある。
同じように、
合掌すれば拝む心になる。
袈裟をつければ拝む心になる。
お墓参りに行けば、仏壇の前に坐れば拝む気持ちになる。
いやいや、
恰好なんて、持ち物なんて、場所なんてどうでもよいのだ。
拝む心さえあれば、どこでも何でもよいのだ
というものでも無い。
形を調えたほうが、濁りが減る。
どこでも拝めるけれど、場所を利用すれば、場所の力がある。
道場で拝むほうが拝みやすい。
そうして、
純度が高まれば、文殊や不動のように、剣を持ってもそれは殺心の器ではなく、
煩悩迷いを断じる智慧の剱となる。
墓前や位牌の前で合掌すれば慈悲の心が生じる。
勉強すれば知識が増えて知らないことが減り、迷いが減る。
これによって心の平安が訪れる。
これは、
どちらか一方ではいけない。
皇太后崩御
6月17日
2時起床。
頭痛、だるさ、身体痛
今日で最後かもしれないとおもって拝む。
二座目が終わってから寝る。
靴下、シャツ、パジャマを着て、布団をたくさん架けて汗をかいて治す。
酸素不足なので、扇風機を窓に向けて置く。
心が動けば体が動く。
午後、Yさん来。お供えしてもらう。
シイタケスープとキャベツの塩もみ
6月18日
眞央と祥斗、剃髪する。
念誦心地よい。
本尊と心やすくなる。
6月19日
道場は正覚を成じる場である。
6月20日
中日、五落叉終える。
サツマイモ、突き仏供、玄米餅、カヤの実、黒豆昆布供える。
昨日から暑く、念誦終わると汗びっしょりになる。調子良い。
高野山大学図書館から覚鑁さんの入法界観のコピー届く。清書して檀に置く。
義父から電話
6月22日
襦袢の下を汗が流れる。
暑いと集中力が落ちる。道場のお陰がある。
最後の四千返くらいから、我念誦するにあらず、仏、我が内に在りて誦じ給う、という感じになる。
呼吸と真言の文字と意識が合えば良い。
風呂で剃髪
脾臓の位置を確認。
6月23日
風呂にないらない、布団に寝ないのは良いことである。
吸い玉する。夏みかんを食べる。
念誦中に昔のことを思い出す。
緑の木々の上に大空が広がっている。心の下に大地があり、いのちが育っている。
菩提は心であり虚空である。死ねば灰と二酸化炭素になり空に帰る。
だから、また会える。
6月24日
Aさん来。
修行道場は最良の場所、欲から遠ざかる。
自宅での瞑想修行は、高波に向かうサーフィンのようなもの
6月25日
0時半起床
1時半一座目
6時半から二座目
衆議院選挙投票日
内観して懺悔する。
僕は死なない、変化するだけ。
料理で重要なの淡味、人も淡い交わりがもっともよい関係。
6月26日
剃髪
右後頭部痛、里芋パスター貼る。
6月27日
0時半起床
1時半から5時
8時半から11時半
その後、施餓鬼
妻に新しいカヤの枝を採ってきてもらう。
拝んで一体何になるのだろう。子どもの頃を思い出す。
6月28日
終わってすぐ寝る。疲れた。
6月29日
玄米届く。
覚悟と修行(三井英光)読む。
6月30日
自分の心を知るために念誦する。
排便2回、吸い玉する。
人間少々の果報おや、拝むだけ。
人は死ぬと六大に帰る。
蒸し暑い
口に念誦するのではなく心に念じる。
存在するものはことごとく、この自己の法身仏の内容に外ならない。
自身の数は無尽、天地の森羅万象が自身の内容
「雨の足多しといえども、ならびにこれ一水。灯光一にあらざれども、堅然として同体」(『吽字義』)
つねに誰かを責めている。もう少し分かってくれ、と。
7月2日
起きたら、どうでも良くなった。ただ、拝めばよいだけ。縁があるようになる。心を無駄遣いする必要はない。
7月7日
台風近づく。剃髪入浴
7月8日
台風3号。各地に被害あり。
朝食前に2万遍済ます。
7月9日
集中力欠ける。Yさんお参り。お酒お供え。
7月10日
充実、死のヴィジョンあり。
吠瑠璃色の如意宝球を観る。
脾臓に違和感あり。
コクウゾウムシが堂内に3匹いた。虚空蔵さんに会いに来たのだろうか。
Aさん、Mさんよりお供え届く。
7月11日
ケーナ注文
庭で剃髪
結願作法の予習
カブトムシ1匹、コクワガタのオス1匹、メス2匹、捕まえる。
念誦の時、不思議な気持ちになる。すべるように唱えた。
7月12日
暑い。
0時起床。トイレ、沐浴、供物の用意。
カッコーとカエルが鳴く。
ネコ、スズメ、ヒバリの声が聞こえる。
車の音、若者の声も。
働きもせず拝んでいる。毎日が過ぎてゆく。
7月13日
22:30に起床。昼寝する。
7月14日
0時半起床
5時まで一座
仏器を磨く。念誦は時間がたつと散漫になる。
結願作法確認
くもり時々雨
0時起床
8時までに百万遍終える。
心が急いだ。
いろいろ思い感謝する。
夏の法衣を出し、納戸の掃除をする。
生きていてよかった。
生きていてもしょうがないなら、死んでもしょうがないことが分かった。
7月16日
23:30(15日)起床
トイレ、沐浴、突仏供用意
後夜念誦、閼伽作法をして、外道場作法、大師求聞持大事修法。
その後、阿弥陀法一座。
供物は
小豆煮、洗米、カヤの実、桃、突き仏供、餅
未得と得とすることが最も怖い。だから、懺悔し続ける。
人間は身体で実践して、ボンと受け止めるのが一番良い。
了。
菩薩三聚浄戒 、求寂戒、苾蒭戒のみっつを授かる。
項目としては約260。
戒律は守るべきだけれど、通常の生活では守れないことが多い。
例えば、酒を飲んではいけないという戒律があれば、飲んではいけないのである。
少量なら良いとか、飲んでも飲まれなければ良いとか、
飲んでも悪いことをせず言わず、心やすらかになれば良いとか、
酒を酌み交わすことで檀信徒と心が通うから功徳になる、とか、
自分に都合の良い理由や、自己の正当化をしても、駄目なものはダメなのである。
だから、
破戒していることを認識して、毎日懺悔反省するべきである。
戒律には、
~してはいけない
というものと、
~するべきである
がある。
先の三聚浄戒は、
・戒律を守りなさい
・善いことを続けなさい
・一切の人々の利益になることをしなさい
ということ。
そして、密教で大切にしているのが
・正法を捨ててはならない
・菩提心を捨ててはならない
・正法を伝えることを惜しんではならない
・衆生を利益しないような事があってはならない
の四つ。
さらに、
思いやり(慈悲)の心は、
自に重く他に軽いところが改善され、
自他平等に生きることになるから、悪が滅び、心は清涼になる。だからこの心は戒である。
道を求め勉強することは、
最勝の智慧に到達することであり、そうすれば悪を調伏し、善を増長し、心清涼になるから、これも戒である。
心をまとめ、静かに観察することは、
自己の中に仏を観、他の中にも仏を観ることであり、
仏(宇宙法界)自他のみっつが平等であるという心になるから、
智慧と慈悲が無限になり、
俺が俺が、の心ではなく、すべてに通じる一心が現れ、
すべての戒が円満する。
授戒の後、加行という修行過程に入る。
これにはいくつかのカリキュラムがある 。
理趣経加行 一七日
護身法加行 一七日
十八道加行 五十箇日
金剛界加行 五十箇日
胎蔵界加行 五十箇日
護摩加行 五十箇日
この214日間のうち、約90日を加行道場にて集団で行い、
残りは自分ひとりで、随意の場所で行う。
これによって、
歩く時には自然に両足が交互に前へでるように修法の作法が身についてくる。
この段階は所作タントラと呼ばれ、
その後、数年をかけて、行タントラ、瑜伽タントラの勉強と実践を日々の生活の中で行うこととなる。
飲めば冷静な判断ができなくなり、冷静な判断ができないということは悪いことだ。
悪いことなら、おもしろいということになる。
それはさておき、
妻が夏みかんをたくさん採ってきて、それを全部むいてくれた。
野生のものだから酸っぱい。ものすごく酸っぱい。
顔をしかめて、身を縮こまらせるほど酸っぱくてうまい。
甘い果物は苦手だけれど、すっぱいものは好き。
考えてみれば、トマトもイチゴも昔は酸っぱくてうまかった。
いつの間にか、軟弱で甘いものばかりの世の中になってしまった。
あまーい! なんておじさんは嫌いだ。
酸味は肝臓の薬であり、夏の滋養。
夏ミカンの黄色は悟りの色、仏心地の色。大日如来の色。
あめつちのありのままの智慧の色
密教のシンボリズムでは、
黄色を豊かな姿で確固とした揺るぎない性質の表現とする。
物事の本質を明らかにし、統合させて絶対なる智慧を現す。
つまり、
黄色は仏教の色、密教の色。
だから、しあわせの色。仏教の目的は悟り(しあわせ)だから。
機嫌不機嫌がすぐ分かる、と妻が云う。
ということは、
僕はウラオモテの無い素直な人間、ということだろうな。
六尺(180センチ)の塔婆を9本頼まれ、
書いて拝んで、墓地まで運んでまた拝む。
結構重かった。
塔婆の表には胎蔵の大日如来
裏には金剛界の大日の梵字を書く。
裏と表で大日如来の世界を現している。
これを法界とか宇宙とか自心とも云う。
裏と表で、
真如とそれを悟る知恵
本来の姿と現れた姿
智慧と慈悲
実践と瞑想
を表現し、それは表裏一体、同じものである。
合掌の左手と右手のように
男と女のように
パリーグとセリーグのように(ちょっと違うかな)
本質は同じものである、
こちらから見ればこうで、反対側から見ればああである。でも、それはどちらも真理の表現 。
僕らは普段、何でもふたつに分けて見たり考えたりすることに慣れているけれど、
本来はみなひとつの裏表を見ているに過ぎない。
酒を飲むのもよいが、酔うと危ない.
大丈夫ですと縁者が請け負ってくれても、安心できない。
そもそも、飲まなくてもよいものを飲むのは、自然の摂理に背き、仏の意思に逆らう不逞である。
もっとも、それは酔った場合に考えればいいことで、飲めば必ず酔うと決まったわけでもなく、
また無事でいる人の話を聞いてみると、酒を飲むことは随分面白いようでもあるから、、やっぱり飲んでみたくもなる。
坊主が酔っ払いに向かって、
お前の親父は何で死んだのかと尋ねたら、酔っ払いは、父も祖父も曾祖父もみんな酒で死んだと答えた。
坊主が驚いて、それでもお前は酒を飲むのが怖くないのかと聞くと、
今度は酔っ払いが、
お前の親父や祖父さんや曽祖父さんは、どこで亡くなったのかと問い返した。
そこで坊主が、みんな布団の上で死んだと答えたら、
酔っ払いはびっくりして、それでもお前さんは布団に寝るのが怖くないのか、と云った。
酒がいくら危険でも、布団の上で人が死ぬのに比べれば、遥かに安全である。
米ぞう又思えらく
坊主が金襴の袈裟をかけて読経するのは、何か色物のようでおもしろいものである。
最近は仏教離れ、寺離れ、檀家離れというのが流行っているらしいが、
読経というのは門前の小僧でも習わずに唱えられるようなので、きっと坊さんでなくてもできることなのだろう。
だから、
親戚のうちでだれか髪の薄い者に法衣袈裟をつけさせ、正面に坐らせればよい。
法話というものも、
『よく分かる仏教入門』の類や『布教法話集』などをインターネットで探して購入し、それをネタ本にして話せばよい。
一杯食わせてみる勇気があれば、その儀式はたちまちにして芸術の一部門たる認識を得るであろう。
教員や医者と違い、坊さんのふりをして坊さんみたいなことをしても法に触れることは無いから、すでに珍しいことではないかもしれない。
米ぞう思えらく
物は名の始めである。
初めに物ありて、次にその名を定める。
猫を飼ってその名をネズミとし、
「ネズミや、ネズミや」と呼べば、猫が尾を振って飛んでくるだろう。
蚊が飛ぶ季節になったが、蚊とはいえ殺生はいけないことである。
しかしやむを得ず退治しなければならない時は、
その蚊に、権力をカサに横暴なことをしている輩の名をつけてから退治することも試してみよう。
しかしながら、声字は実相である。
世の中の固体、液体、エネルギー、気体、空間は、
みな言葉で表される。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻によって嗅げるもの、口によって味わうもの、手とからだによって触れられるもの、意識によって考えられるもの
の働きによってとらえられたものが言語になる。
仏の説法は必ず文字による、文字の所在は世の中にあるものである。
世の中にあるものは仏の身体、言葉、心である。
つまり、
人はみな仏、世の中の総ては仏のサイン
それを受け取れるレベルになれば、
不公平でつらいと思われる人生が平安になるだろう。
それには、
自分の体はどのようになっているか
自分の心はどのように動いているか
それらは他とどのようにつながっているか
とういうことを仔細に観察すればいい。
それには密教の三密行がもっとも簡単で早い効果がある。
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料理教室&瞑想講座
6月3日(土)11時~
会場:吹田市PINO
料理は、腎臓・肝臓の養生。
問い合わせは下記まで
http://
春の不動明王護摩供
6月4日(日) 12時30分~
鳴門市撫養町木津 JR金比羅前駅下車 金比羅神社上の山頂
鳴門不動院
仏事と修行方法のご相談はメールでどうぞ
gbqmk185@ybb.ne.jp
余った種イモを食べるとき、
芽が出始めて、その根元の白い部分、将来芋茎になるところだけれど、
その部分がシャキシャキとしてうまい。大根が採れるまではここがその替わり。
コシアブラが採れはじめ、これはタラの芽より柔らかく食べやすい。
和え衣は塩煮した豆腐、よくすった白ごま、味噌、こしょう、酢
ちょっと疲れた時はしいたけ。
乾燥なめこの出汁でシイタケを炊く。
焼くより炊いたほうが陰性になるので陽性な疲れが取れる。
衣替えをしてから、古いカメラも掃除して虫干し。
この作業がとても楽しい。
東に山門があり、毘沙門堂を左に見て、金比羅神社へ上る階段があります。
途中に土俵があり、秋のお祭りで、ちびっこ相撲が行われる。
社殿に着き、その左を抜けて裏山へ登ります。
新緑のなか、木漏れ陽を受けながら10分ほど登ると、頂上にあるのが不動堂
小さなお堂で、春秋の年二回、護摩を焚いています。
毎回、お願い事が書かれた添え護摩が100本程度集まります。
お堂が狭いから護摩の火が近い、熱い、煙い。
火には明るさと熱があり、食べ物を柔らかく食べやすくする。人間だけがその火を使う。
そして、本能的な憧れを僕らは持っている。
これは誰の心にも在る智慧の火、迷いを焼く。
火の前で拝む
煙に巻かれて拝む
道場のお蔭を感じる。
祈願はいろいろあるけれど、
こうして誰かのことを拝んで、慈悲の心を起こせば、自分の心に平安が訪れます。
それが最大の功徳のご利益。
と思いながら駅まで歩き、電車に乗って東京へ。
出かける前は18番ホームの「グル麺」でおそばを、
と思っていたのだけれど、とても食べられる体調ではない。
新幹線に乗って座席に坐るともういけない。
とてもお腹が痛くて、脂汗が出てきた。
天気は快晴、富士山もよく見える、隣にはものすごい美人が坐っているのに、お腹が痛い。
梅干のタネをなめながら唾液を出し、ゆっくり複式呼吸しながら真言を唱えて新大阪着。
ホテルのバスタブに熱いお湯を張って浸かる。
発汗してだいぶ良くなり、
秀ハーブラウンジの元気玉(アラビノキシラン)を飲み、食事はしないで寝る。
念のため、
お茶を沸かして部屋にあるカップ・コップにすべて入れておく。
翌朝、大量の黒いうんこが出て爽快、仕事へ向かう。
お腹がだんだん痛くなるのは、
身体が変化しているということで、
ああ、僕は生きている
と実感できる。
その日作ったのは豆腐ごはん。
蒸し暑くなるこの季節は豆腐がうまい。
ご飯と一緒に炊いて、大葉と練り梅。これで冷えすぎない。
タケノコを半分収穫、半分は蹴飛ばす。
採り立てだから、下処理は残りご飯を入れた鍋でちょっとゆでればOK
パプリカと炒め、ゆでた大豆、キュウリと和えてサラダ。
塩漬けの山椒実を添える。
キクラゲと煮物
タケノコ昆布
これは水を使わず陽性に作れば、下半身の滋養とガンの薬になる。
それはさておき、
テレビは非常に低俗で、想像力や思考力を低下させるので「一億総白痴化」する、
と、大宅壮一が云ったのが1957年。
テレビを観ているとバカになる、といわれましたね。
意見はけたたましく言うのだけれど、自分の意見の知的水準に対する内省はまるでない。
彼らはインターネットと携帯の狭い世界の中でバカな意見の交換をするのに忙しい。
そいうバカが増えていると、池田清彦が「加速するバカ化」(『やぶにらみ科学論』)で云ったのが2003年。
『大パリニッバーナ経』では、お釈迦さまの言葉として、
「自らをよりどころとし(自灯明)、法をよりどころにせよ(法灯明)」
と説きます。
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
ここに修行者は、
身体について身体をを観じ、熱心に、良く気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いを除くべきである 」
この後、同じように、
感受について
心について
諸々の事象について
熱心に、良く気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いを除くべきである、
とあります。
学ぼうとする人は、
自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしない。
法とは真如のことで、勉強して論理的に証明したもの。
この際、
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)
という観想を修すことが基礎になります。そうでないと現象をイメージとして捉えがち。
論理的な説明をつけられるということと、自分のイメージと合わせて正当化することは別です。
例えば、
朝ごはんは食べたほうが良いのか、抜いたほうが良いのか
穀物(炭水化物)は摂ったほうがよいのか、食べないほうがよいのか
チーズやヨーグルトは
魚は肉は
積極的に食べるべきか、そうでもないのか
水はたくさん飲んだほうが良いのか、そんなことはないのか
塩分は摂るべきか、減塩が良いのか
これらはテレビやインターネットや「他をよりどころとして」いると、分からないですね。
なぜ、そうなのか、と勉強して実践すれば分かる。
分かれば不安悩み迷いが無くなり、平安な心身になります。
大切なのは、先にも書いたように概念や感想ではなく、理論的バックボーンです。
僕は陰陽で考えることが得意だけれど、
世の中のものはすべて元素でできており、
消化吸収も化学反応、料理も化学反応、病気や健康も化学反応だから、
化学的に判断するのも便利だろうな。
お笑い福祉士 公式サイト
https:/
學光は がっこう ではなく「がっこ」
鶴光師匠も つるこう ではなく「つるこ」
下野市石橋の「讃岐うどん処 合掌 松屋」の大将・石崎さんは、本県警の刑事さん
師匠と僕は、鳴門長谷寺住職のご縁でお付き合いがあり、
大将と師匠はお遍路さんをしている時に知り合い、師匠のアドバイスでうどん屋を始め 、
僕と大将は同じ石橋高校出身 。
そんな御縁トライアングル 。
先日、
徳島から羽田に着いたら、8日に近くまで行くからうどんを食いに行こう、
と師匠からメールがあり、昨日営業前にお邪魔しました。
四国の出汁が味わえます。
師匠の落語会も考えています。
一家にひとり、お笑い福祉士がいれば良い世の中になるだろうな、と思っています。
昨日はその中で小さいのを4本採り、畑でナスも採れはじめたので一緒に、焦しニンニク炒め。
陰性な材料で体内の陽性を溶かし、陽性な調理でお腹を温める方法です。
食べながら6年前のことを思い出し,、今はどんな状況なのか調べてみました。
・下野市のモニタリング検査結果
http://
・市町別 農林水産物等の出荷制限・自粛品目一覧
http://
・栃木県産農林水産物等の出荷制限と解除の状況について
http://
これを見ると、栃木県では今でも牛肉は出荷制限中なのですね。酪農家は大変だろうな。
・全国のタケノコの検査結果データ
http://
数字はウソをつかないから、それを見て冷静な判断が出来ればよろしい。
そこに噂話や勝手な感想はいらない。
最近はJAを通さない産直の野菜が直売所などに並んでいますが、
それらは残留農薬などを調べていないことが多い。
JAはチェルンブイリ以来、検査体制を確立しているから、残留農薬でも放射性物質でも、その検査制度は高い。
そして、
福島県など行政の検査が異常に厳しい状態はまだ続くのだろうな。
もっとも、そういうことより身体に悪いことをしている人はかなり多いけれど。
そんなことも、冷静な判断の材料になる。
あの時は、
事実より感情を優先させる人と、
「1カップの水に小さじ1」と「太平洋に小さじ1」
の違いを無視する、量の概念を認めない人がずいぶんいたけれど、
今はどうしているのだろうか。
今年のタケノコのデータを見て、あの時のことを思い出すのだろうか。
ウワサ話は忘れてよいけれど、
あの災害や事故のこと、
それによって傷ついた人が大勢いること、
は忘れないほうがいい。
ちなみに、
タケノコを食べた後の望診では、
何も問題は無い。
穀菜食の舎メールサービス
○ウイルスと食べ物、予防治病の食べかた
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