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心の所在Ⅳ:密教の心
『大日経』第一には、金剛薩埵と大日如来の問答が書かれています。

何が菩提(さとり)なのでしょうか

実の如く自心を知ることである。


その心はいつからどこにあるのか。

たとえば宇宙はビッグバンによって生じたかもしれませんが、そのビッグバンが発生する前の世界が「ある」としたら、ビッグバンが始まりとは言えなくなります。

同じように、

心も「ある時」に「生じた、作られた」のではない、と考えられます。


『大日経疏』第七には、
 
世界の根源は因縁によって生じたものではなく、

もとから不生である。

それは、自分の心をありのままに見通し、自分の心を知ることである。

その不生を見る者は、すなわち実の如く自心を知るのである。

とあります。


心もモノも、不生不滅であって、本からあって常に変化しながら存在している、ということ。

煩悩もさとりも同じく不生。

密教ではこの不生を、真言や仏具仏画仏像などによって理解できるよう、修行カリキュラムが組まれています。


この不生の本体がフリダヤ。

八葉の蓮華で象徴されます。

円満均等で、泥(迷い)の中から茎をのばし、泥(迷い)に染まらず美しい花を咲かせます。

それは慈悲を表します。

わが子を愛しいと思い、大切な人が悲しむと自分も涙を流す

そのような慈しみと悲しみの心を、ひろくすべての人や存在に向けることが慈悲です。

でも、慈悲を拡大しようとすると、

利己心や貪りや怒りや悪意や、狭い愛国心などもそれを妨げようとします。

蓮華を観想することで、それら妨げるものを消して、心を鍛えます。



そして、

チッタ(心意識)は満月に象徴される智慧で、この蓮華に座しています。

 満月のように光り輝き、円満で明るく優しい、新月も時が経てば満月になる。

智慧はその満月のようなもの。

それは雲(迷い)に隠れて見えないこともありますが、月を観想することで迷いを消して心を鍛えます。

フリダヤとチッタは、常に一緒で離れないものなので、密教の瞑想法では蓮華と月輪を観想します。



「心の所在Ⅲ:心王と心所」
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%89%80%E5%9C%A8%E2%85%A2%EF%BC%9A%E5%BF%83%E7%8E%8B%E3%81%A8%E5%BF%83%E6%89%80


「心の所在Ⅱ:仏教の心」
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%89%80%E5%9C%A8%E2%85%A1%EF%BC%9A%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E5%BF%83




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[ 2015/10/11 07:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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