仏教は生きている人が成道、成仏、迷いを転じて悟るためのカリキュラムをたくさん持っていますが、
それをお葬式に応用しているので、ずいぶんと無理があるようなところがあります。
その辺が、葬式仏教の根本的な問題かもしれない。
それはさておき、
一般のかたはお気づきにならないかもしれませんが、
葬儀会場では、宗旨宗派に合わせてご本尊(仏像やお軸)がおまつりされています。
祭壇の上にご本尊さんがあり、その下に故人の遺影とお位牌、そして棺。
でも、多くの会場ではそのご本尊さんが小さくて、よく見えないこともある。
通常、仏教の儀式では本尊が主役です。お寺もそう。坊主は主役ではない。
仏壇も主役はご本尊さま、位牌ではありません。
会場によってはご本尊さんはなく、故人の遺影と位牌に向かって拝むこともあります。
寺院が経営している斎場では、ご本尊さんが固定されているところもある。
真言宗の場合は大日如来がおまつりされることが多いですが、あれ、どうなのでしょうね。
そもそも本尊とは何かといえば
『秘蔵記』に、
「我が本来自性清浄の心は、世間出世間において最勝最尊なり。故に本尊という。
また已成の仏の本来自性清浄の理も本尊という」
とあります。
自分の内なる心を外に表現したものが本尊
真言密教では、
総尊として法身大日如来をたて、他に無量の別尊を立てます。
社長が大日如来で、
そのほか、取締役や部長課長といった役割の仏さまが大勢おわします。
阿弥陀さん、お薬師さん、観音さん、お不動さん、お地蔵さんなど。
大脳が大日如来で、
身体の器官臓器それぞれがいろいろな仏さまみたいなものかな。
でも、みな大日の働きのひとつだから、
どの仏さまを本尊としても、大日如来を拝むことになります。
そして、
大日如来はダイナミックな原理で、この世界は大日如来そのものともいえます。
さて、
葬儀は故人を仏道修行者にする出家受戒作法ですから
その本尊はどうすればよいのか。
悟りを体験している人の弟子になって教わるのですから、
お釈迦さまでも大日如来でも、どの仏さまでも良いでしょうね。
僕らは生きている間に、得度式という出家受戒作法を受けます。
高野山大師教会の集団得度式では、
本尊は弘法大師
その脇に不動明王と愛染明王
次男が得度した高室院では、大師堂で得度式
いずれも、受者は准胝観音の真言を唱えます 。
中川善教先生の得度式次第には
「近来の最略作法では
准胝仏母の本尊は掛けず
多くは大師御影なり 」
とあります。
准堤観音を本尊とするのは、
「度場本尊準堤仏母等記」に、
準低仏母の本誓が剃刀三昧出家得度
とあることによる。
これは準低陀羅尼経などが由来。
真言宗の葬儀作法(引導作法)では、
不動明王の徳を讃じて、亡者の滅罪を祈る
とされています。
これは、
『二巻章』や『金剛峯寺年中行事』によります。
棺の後ろ中央に不動、左右に両界曼荼羅
とかかれている。
いずれにしても、
拝む人と故人と参列者と本尊が
まったく平等である、という心で拝まなければ
故人も残された人も、成仏に近づくことはないでしょう。
葬儀は、いのちを送る儀式です。
故人のいのちだけではなく、つながっているもの、流れるものを拝む。
遺族親族の心が悟りにつながるように拝む。
大いなるいのち(大日)を拝む。それは僕のあなたのすべての命と同じだから。
送るいのちも、送られるいのちも、違うものではないから。
それをお葬式に応用しているので、ずいぶんと無理があるようなところがあります。
その辺が、葬式仏教の根本的な問題かもしれない。
それはさておき、
一般のかたはお気づきにならないかもしれませんが、
葬儀会場では、宗旨宗派に合わせてご本尊(仏像やお軸)がおまつりされています。
祭壇の上にご本尊さんがあり、その下に故人の遺影とお位牌、そして棺。
でも、多くの会場ではそのご本尊さんが小さくて、よく見えないこともある。
通常、仏教の儀式では本尊が主役です。お寺もそう。坊主は主役ではない。
仏壇も主役はご本尊さま、位牌ではありません。
会場によってはご本尊さんはなく、故人の遺影と位牌に向かって拝むこともあります。
寺院が経営している斎場では、ご本尊さんが固定されているところもある。
真言宗の場合は大日如来がおまつりされることが多いですが、あれ、どうなのでしょうね。
そもそも本尊とは何かといえば
『秘蔵記』に、
「我が本来自性清浄の心は、世間出世間において最勝最尊なり。故に本尊という。
また已成の仏の本来自性清浄の理も本尊という」
とあります。
自分の内なる心を外に表現したものが本尊
真言密教では、
総尊として法身大日如来をたて、他に無量の別尊を立てます。
社長が大日如来で、
そのほか、取締役や部長課長といった役割の仏さまが大勢おわします。
阿弥陀さん、お薬師さん、観音さん、お不動さん、お地蔵さんなど。
大脳が大日如来で、
身体の器官臓器それぞれがいろいろな仏さまみたいなものかな。
でも、みな大日の働きのひとつだから、
どの仏さまを本尊としても、大日如来を拝むことになります。
そして、
大日如来はダイナミックな原理で、この世界は大日如来そのものともいえます。
さて、
葬儀は故人を仏道修行者にする出家受戒作法ですから
その本尊はどうすればよいのか。
悟りを体験している人の弟子になって教わるのですから、
お釈迦さまでも大日如来でも、どの仏さまでも良いでしょうね。
僕らは生きている間に、得度式という出家受戒作法を受けます。
高野山大師教会の集団得度式では、
本尊は弘法大師
その脇に不動明王と愛染明王
次男が得度した高室院では、大師堂で得度式
いずれも、受者は准胝観音の真言を唱えます 。
中川善教先生の得度式次第には
「近来の最略作法では
准胝仏母の本尊は掛けず
多くは大師御影なり 」
とあります。
准堤観音を本尊とするのは、
「度場本尊準堤仏母等記」に、
準低仏母の本誓が剃刀三昧出家得度
とあることによる。
これは準低陀羅尼経などが由来。
真言宗の葬儀作法(引導作法)では、
不動明王の徳を讃じて、亡者の滅罪を祈る
とされています。
これは、
『二巻章』や『金剛峯寺年中行事』によります。
棺の後ろ中央に不動、左右に両界曼荼羅
とかかれている。
いずれにしても、
拝む人と故人と参列者と本尊が
まったく平等である、という心で拝まなければ
故人も残された人も、成仏に近づくことはないでしょう。
葬儀は、いのちを送る儀式です。
故人のいのちだけではなく、つながっているもの、流れるものを拝む。
遺族親族の心が悟りにつながるように拝む。
大いなるいのち(大日)を拝む。それは僕のあなたのすべての命と同じだから。
送るいのちも、送られるいのちも、違うものではないから。
PR
JR南武線 津田山・久地駅間にある緑ヶ丘霊園は川崎市の公営墓地。
広い丘陵で、春には数百本の桜が咲き誇る。
義母の実家、母の実家、親類の墓をお参りしてから、
多摩川沿いを南下して六郷橋を目指す。
途中、第三京浜を過ぎた辺りにサラリーマン時代住んでいた。富士通下野毛寮。
六畳一間でふたり部屋。風呂共同、トイレ共同。
日曜日には河原を散歩して、ビールを飲んだ。
もう少し行った武蔵中原近くには、3歳くらいの時、独身寮の管理人一家として住んでいた。
日曜日には父と河原で遊んだ。川の向かいにジャイアンツのグラウンドがあった。
多摩川の河口に近い下流部を六郷川と云う。東京都大田区と神奈川県川崎市の境。
JR、京浜急行、第一京浜の橋があり、羽田の飛行機も見えて楽しい。
この河川敷の大田区側が多摩川緑地。

野球場、サイクリングコース、サッカーグラウンド、ゴルフの打ちっ放しなどがある。駐車場も広い。
散歩、ジョギングも大勢いて、
ホームレスだろうおじさんが豪快に火を焚き鍋を煮ている。
ちなみに、バーベキューは禁止である。
僕は結婚するまでの本籍地が川崎市東小田町、現在の川崎区小田3丁目。
今は高架の京浜急行は地べたを走り、トロリーバスが通っていた。

おまえは多摩川の河原で拾われてきたんだ、
と小さい時、いつも言われていた。
そのころ、
河原にホットドッグの屋台が出ていたのを憶えている。
________________________________
※2017年 年間祈祷のご案内
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% E7%A5%8 8%E7%A5 %B7%E3% 81%AE%E 3%81%94 %E6%A1% 88%E5%8 6%85
※精進おせち料理レシピ
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%81%A1%E6%96%99%E7%90%86%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%94
広い丘陵で、春には数百本の桜が咲き誇る。
義母の実家、母の実家、親類の墓をお参りしてから、
多摩川沿いを南下して六郷橋を目指す。
途中、第三京浜を過ぎた辺りにサラリーマン時代住んでいた。富士通下野毛寮。
六畳一間でふたり部屋。風呂共同、トイレ共同。
日曜日には河原を散歩して、ビールを飲んだ。
もう少し行った武蔵中原近くには、3歳くらいの時、独身寮の管理人一家として住んでいた。
日曜日には父と河原で遊んだ。川の向かいにジャイアンツのグラウンドがあった。
多摩川の河口に近い下流部を六郷川と云う。東京都大田区と神奈川県川崎市の境。
JR、京浜急行、第一京浜の橋があり、羽田の飛行機も見えて楽しい。
この河川敷の大田区側が多摩川緑地。
野球場、サイクリングコース、サッカーグラウンド、ゴルフの打ちっ放しなどがある。駐車場も広い。
散歩、ジョギングも大勢いて、
ホームレスだろうおじさんが豪快に火を焚き鍋を煮ている。
ちなみに、バーベキューは禁止である。
僕は結婚するまでの本籍地が川崎市東小田町、現在の川崎区小田3丁目。
今は高架の京浜急行は地べたを走り、トロリーバスが通っていた。
おまえは多摩川の河原で拾われてきたんだ、
と小さい時、いつも言われていた。
そのころ、
河原にホットドッグの屋台が出ていたのを憶えている。
________________________________
※2017年 年間祈祷のご案内
http://
※精進おせち料理レシピ
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%81%A1%E6%96%99%E7%90%86%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%94
『食品の科学知識』(Newton別冊)を見ていたら「RomeⅢ」という興味深いデータを見つけたので調べてみました。
国際消化器病学会による機能性消化管障害のレポート「RomeⅢ」
http:// neuro-g .umin.j p/neuro -g/publ ication /5-kai% 20PDF/9 -1_38-4 1.pdf
http:// neuro-g .umin.j p/neuro -g/publ ication /5-kai% 20PDF/h ongo%20 lunchon %20semi %200902 _25-29l ow.pdf
ここには、過敏性腸症候群をはじめとする機能性消化管障害の診断基準が書かれています。
それによると、
国際基準では
・排便回数が週3回未満
・硬便が排便時の25%以上(4回に1回以上は硬い便)
・用指的排便(指や綿棒などを用いて強制的に排便させる行為)が25%以上
・努責(排便時に強くいきむこと)、残便感、閉塞感がみられる頻度が25%以上
が便秘。
ウンコの国際基準は、
1、コロコロ便
硬くてコロコロの兎糞状の(排便困難な)便
2、硬い便
ソーセージ状であるが硬い便
3、しわのある便
表面にひび割れのあるソーセージ状の便
4、バナナ状便
表面がなめらかで柔らかいソーセージ状,または蛇のようなとぐろを巻く便
5、軟便
はっきりとしたしわのある柔らかい半分固形の(容易に排便できる)便
6、少し形がある便
境界がほぐれて,ふにゃふにゃの不定形の小片便,泥状の便
7、水様便
水様で,固形物を含まない液体状の便
となっており、国際的には4、が正常な便。
ウンコの成分は水が80パーセント。
残りの20パーセントのうち、食物繊維、腸壁細胞のカス、細菌
がほぼ同量づつ。
便秘になるのは、
繊維が少なく脂肪が多いもの(肉食)が多く(これは腸内の悪玉菌のエサになる)
繊維が多く脂肪の少ないもの(野菜きのこ海草)が少なく、
善玉菌のエサになる炭水化物が少なく、
睡眠と運動が不充分で
自律神経のバランスが崩れているから。
酸性便は黄色、
アルカリになるほど黒くなるけれど、
どちらも比較的陽性です。ウンコには塩気があるから、陰性な手当てに使えます。
身体の体の下から出るのですから、陽性なものの排毒。
深呼吸して、野菜をたくさん食べて、昼間はよく動いて、夜はリラックスして、
健康と幸せのために、ウンコをたくさん出しましょう。
国際消化器病学会による機能性消化管障害のレポート「RomeⅢ」
http://

http://

ここには、過敏性腸症候群をはじめとする機能性消化管障害の診断基準が書かれています。
それによると、
国際基準では
・排便回数が週3回未満
・硬便が排便時の25%以上(4回に1回以上は硬い便)
・用指的排便(指や綿棒などを用いて強制的に排便させる行為)が25%以上
・努責(排便時に強くいきむこと)、残便感、閉塞感がみられる頻度が25%以上
が便秘。
ウンコの国際基準は、
1、コロコロ便
硬くてコロコロの兎糞状の(排便困難な)便
2、硬い便
ソーセージ状であるが硬い便
3、しわのある便
表面にひび割れのあるソーセージ状の便
4、バナナ状便
表面がなめらかで柔らかいソーセージ状,または蛇のようなとぐろを巻く便
5、軟便
はっきりとしたしわのある柔らかい半分固形の(容易に排便できる)便
6、少し形がある便
境界がほぐれて,ふにゃふにゃの不定形の小片便,泥状の便
7、水様便
水様で,固形物を含まない液体状の便
となっており、国際的には4、が正常な便。
ウンコの成分は水が80パーセント。
残りの20パーセントのうち、食物繊維、腸壁細胞のカス、細菌
がほぼ同量づつ。
便秘になるのは、
繊維が少なく脂肪が多いもの(肉食)が多く(これは腸内の悪玉菌のエサになる)
繊維が多く脂肪の少ないもの(野菜きのこ海草)が少なく、
善玉菌のエサになる炭水化物が少なく、
睡眠と運動が不充分で
自律神経のバランスが崩れているから。
酸性便は黄色、
アルカリになるほど黒くなるけれど、
どちらも比較的陽性です。ウンコには塩気があるから、陰性な手当てに使えます。
身体の体の下から出るのですから、陽性なものの排毒。
深呼吸して、野菜をたくさん食べて、昼間はよく動いて、夜はリラックスして、
健康と幸せのために、ウンコをたくさん出しましょう。
凡夫が戒律を守り修行して仏になる、
という面と
本来仏であることを失念していたけれど、実は仏だったこと思い出し、
ああ、こういうことだったのか
という面があります。
大乗仏教は後者の立場をとることが多いのですが、
難しい話はさて置いて
実はだれもが仏さま(悟り)の可能性のまま生きています。
実は大金持ちでなのだけれど、それを知らないで生きている、
という感じかな。
胎蔵マンダラには414尊、
金剛界マンダラには1461尊の仏さまが描かれています。
仏さまには4種類ある。
1、さとりの本体。大日如来のような人格で、宇宙とか真理と云っても良い。
2、悟りを広め、それを楽しむ仏。阿弥陀さんとかお薬師さんとか、観音さまとか、いろいろ。
3、実際に目の前に現れた仏。お釈尊さま
4、生きている存在すべてに姿を変えた仏さま。僕らが見えるもの、聞こえるものに変身している。
というわけで、
あなたの恋人も仏さま、
普段はなかなか気がつかないけれど、よくよく観たら仏さまだった。
自慢しましょう。
さて、
僕の初恋は東寺・国宝十二天画像(京都国立博物館蔵)のうち水天
これはお正月の後七日御修法という儀式で使われたものだけれど、
このお姿をひとめ観て、
ああ、なんということだ。
と時が止まった。
豊満で優しい、平安と静寂のお顔、
肩から二の腕にかけての美しい曲線
今でも僕の美しさの基準は、この水天
https:/ /www.go ogle.co .jp/sea rch?q=% E5%9B%B D%E5%AE %9D+%E5 %8D%81% E4%BA%8 C%E5%A4 %A9+%E6 %B0%B4% E5%A4%A 9&espv= 2&biw=1 280&bih =670&so urce=ln ms&tbm= isch&sa =X&ved= 0ahUKEw jMt_PS- InRAhXH fLwKHWs ZBOgQ_A UIBygC& dpr=1#i mgrc=y7 Xd7onkQ DnehM%3 A
その次に恋したのが、河内の観心寺・如意輪観音
毎年4月17日18日のみの御開帳で、
それだけに紅も金も残っていて美しい。
僕がどこにいても、見ていてくれる。
https:/ /www.go ogle.co .jp/sea rch?q=% E6%B5%8 4%E7%91 %A0%E7% 92%83%E 5%AF%BA +%E5%90 %89%E7% A5%A5%E 5%A4%A9 &espv=2 &biw=12 80&bih= 670&sou rce=lnm s&tbm=i sch&sa= X&ved=0 ahUKEwi 85f2f-Y nRAhWDW 7wKHVoI Bp8Q_AU IBigB&d pr=1#tb m=isch& q=%E8%A 6%B3%E5 %BF%83% E5%AF%B A%E5%A6 %82%E6% 84%8F%E 8%BC%AA %E8%A6% B3%E9%9 F%B3%E5 %83%8F+ %E7%94% BB%E5%8 3%8F&im grc=opX rBy59fi YYyM%3A
友人と若狭湖北の十一面観音巡りをしていた時にお会いしたのが、渡岸寺(向源寺)の国宝十一面 観音。
この方は有名で、模作も多いけれど、そのお姿は美しい。
長すぎる手は衆生を救済するためなのだけれど、
それが美しい。腰つきには胸騒ぎもする。
https:/ /www.go ogle.co .jp/sea rch?q=% E6%B8%A 1%E5%B2 %B8%E5% AF%BA+1 1%E9%9D %A2%E8% A6%B3%E 9%9F%B3 &espv=2 &biw=12 80&bih= 670&tbm =isch&i mgil=tt 9e4c6PO W4e3M%2 53A%253 BKAmtSz G3FZGgZ M%253Bh ttp%252 53A%252 52F%252 52Fachi kochita zusaete .web.fc 2.com%2 5252Fou minoter a%25252 Fdougan ji%2525 2Fkanno n.html& source= iu&pf=m &fir=tt 9e4c6PO W4e3M%2 53A%252 CKAmtSz G3FZGgZ M%252C_ &usg=__ 64vQ0PG mdovs3M FI-e46a hZv5Mc% 3D&dpr= 1&ved=0 ahUKEwi B2ZzM-Y nRAhXBv rwKHZbi CsgQyjc IOA&ei= YOdcWIG pGsH98g WWxavAD A#imgrc =tt9e4c 6POW4e3 M%3A
という面と
本来仏であることを失念していたけれど、実は仏だったこと思い出し、
ああ、こういうことだったのか
という面があります。
大乗仏教は後者の立場をとることが多いのですが、
難しい話はさて置いて
実はだれもが仏さま(悟り)の可能性のまま生きています。
実は大金持ちでなのだけれど、それを知らないで生きている、
という感じかな。
胎蔵マンダラには414尊、
金剛界マンダラには1461尊の仏さまが描かれています。
仏さまには4種類ある。
1、さとりの本体。大日如来のような人格で、宇宙とか真理と云っても良い。
2、悟りを広め、それを楽しむ仏。阿弥陀さんとかお薬師さんとか、観音さまとか、いろいろ。
3、実際に目の前に現れた仏。お釈尊さま
4、生きている存在すべてに姿を変えた仏さま。僕らが見えるもの、聞こえるものに変身している。
というわけで、
あなたの恋人も仏さま、
普段はなかなか気がつかないけれど、よくよく観たら仏さまだった。
自慢しましょう。
さて、
僕の初恋は東寺・国宝十二天画像(京都国立博物館蔵)のうち水天
これはお正月の後七日御修法という儀式で使われたものだけれど、
このお姿をひとめ観て、
ああ、なんということだ。
と時が止まった。
豊満で優しい、平安と静寂のお顔、
肩から二の腕にかけての美しい曲線
今でも僕の美しさの基準は、この水天
https:/
その次に恋したのが、河内の観心寺・如意輪観音
毎年4月17日18日のみの御開帳で、
それだけに紅も金も残っていて美しい。
僕がどこにいても、見ていてくれる。
https:/
友人と若狭湖北の十一面観音巡りをしていた時にお会いしたのが、渡岸寺(向源寺)の国宝十一面 観音。
この方は有名で、模作も多いけれど、そのお姿は美しい。
長すぎる手は衆生を救済するためなのだけれど、
それが美しい。腰つきには胸騒ぎもする。
https:/
以前、阿閦如来と怒り云々のことを書いたら、下記ご意見をいただきました。
阿閦如来をネットで調べたら種字が「ウー」 怒りを表す
「我欲の怒りを昇華して悟りの為の大きな怒りにする....」
という 内容の文がネット解説にありました。
私には昇華した怒りと自分の中の怒りがどう違うのかよくわかりません。 ただ怒りをあわらす、ウーを種字にもつこの如来さんがこんなに 柔らかい佇まいをしているのと見ると、その辺り何かあるのかもしれないとは、思いました。
このあたりは、僕らが常用している『理趣経』に書かれています。
第三段に、阿閦如来の悟りについて、
阿閦は怒らないことが誓願ですが、
本来の怒りは、言うことを聞かないものを教化するもの。
それは自分自身の内面的な敵と戦うこと。
怒りの対象は自分自身のなかにある、ということ。
そして、理趣経全体を通して説いているのは、
怒り(を始めとした欲望)を無くすのではなく、
大きな怒り(欲望)、たとえば、世の中の不平等に対する怒りに転換する。
そこに我が入ってはいけない。
救済するのが難しい自分自身に怒る
そして、微笑しながら怒る
怒りの顔も、見かたによっては微笑や悲しみにも見えるのが、仏の怒り
そして、第十段には、
一切の存在は仏と本質的に平等だから、
忿怒も悟りを目指す心にもとづくなら平等で本来は清浄
汚れはよそからやってきたもの だから、
それをやっつけて本来の価値に目覚めさせる怒りが仏の怒り。
本来もっている価値の再認識が目的。
一切の存在は本質的に真理と同じだから、怒りも真理にもとづいたもの。
というわけで、
仏は(僕らは)相手を悟り(慈悲と向上心と心の静寂)にむかわせるために、忿怒の形をとります。
そもそも、
「我」があれば、
悩みも苦しみも、
怒りによっては解決しない。
それに、
怒りなどの心は、僕らが勝手に作っているだけ。
阿閦如来をネットで調べたら種字が「ウー」 怒りを表す
「我欲の怒りを昇華して悟りの為の大きな怒りにする....」
という 内容の文がネット解説にありました。
私には昇華した怒りと自分の中の怒りがどう違うのかよくわかりません。 ただ怒りをあわらす、ウーを種字にもつこの如来さんがこんなに 柔らかい佇まいをしているのと見ると、その辺り何かあるのかもしれないとは、思いました。
このあたりは、僕らが常用している『理趣経』に書かれています。
第三段に、阿閦如来の悟りについて、
阿閦は怒らないことが誓願ですが、
本来の怒りは、言うことを聞かないものを教化するもの。
それは自分自身の内面的な敵と戦うこと。
怒りの対象は自分自身のなかにある、ということ。
そして、理趣経全体を通して説いているのは、
怒り(を始めとした欲望)を無くすのではなく、
大きな怒り(欲望)、たとえば、世の中の不平等に対する怒りに転換する。
そこに我が入ってはいけない。
救済するのが難しい自分自身に怒る
そして、微笑しながら怒る
怒りの顔も、見かたによっては微笑や悲しみにも見えるのが、仏の怒り
そして、第十段には、
一切の存在は仏と本質的に平等だから、
忿怒も悟りを目指す心にもとづくなら平等で本来は清浄
汚れはよそからやってきたもの だから、
それをやっつけて本来の価値に目覚めさせる怒りが仏の怒り。
本来もっている価値の再認識が目的。
一切の存在は本質的に真理と同じだから、怒りも真理にもとづいたもの。
というわけで、
仏は(僕らは)相手を悟り(慈悲と向上心と心の静寂)にむかわせるために、忿怒の形をとります。
そもそも、
「我」があれば、
悩みも苦しみも、
怒りによっては解決しない。
それに、
怒りなどの心は、僕らが勝手に作っているだけ。
本日朝5時より、納めの不動明王護摩供を修法し、皆様の平安をお祈りしました。
「2017年 ご祈祷のご案内」
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% E7%A5%8 8%E7%A5 %B7%E3% 81%AE%E 3%81%94 %E6%A1% 88%E5%8 6%85
さて、
ちょっと調べたいことがあり、国会図書館へ。
地下鉄半蔵門線に乗って永田町へ。
ここを走っている8000系は僕の好きな車両。

千代田線の6000系や有楽町の7000系と似ているけれど、ちょっと違う。
以前は帝都高速度交通営団、略して営団地下鉄と云う立派な名前だったのだけれど、
最近は東京メトロなどと軟弱な名になっているのが気に入らない。
永田町下車、2番出口を出ると国道246号国会図書館前交叉点。
国会議事堂の裏。議員会館と反対側に民進党のビルが見える。
霞ヶ関にはカンリョーという魍魎が住んでおり、
ここ永田町にはセイジカーという妖怪がいるらしい。
東の皇居方面に歩いてすぐ、左側が国会図書館。
新館で利用者手続き。
IDカードを作ってもらい、館内でもインターネットでも、このidで検索できる。
本館へ行くと、端末がたくさん並び、大勢の人が調べたり勉強している。 ものすごく広い。
僕が探している本は貸し出し不可で、デジタルデータを画面から読む。
画面から必要なページを端末から複写依頼。資料のトリミングや色の濃淡も指定できる。
プリントアウトカウンターで料金を払って受け取る。
支払いはSUICAでもEddyでもnanacoでも、いろいろ可能。
欲しかったものが手に入るのは、それがコピーでもとても嬉しい。
大切に抱えて外へ出る。
今回は利用しなかったけれど、ここの食堂はかなりすごいらしい。
国会丼や国会カレー、富士山盛りそばなど、豊富で楽しいメニューが安い価格で食べられる。
もちろん、誰でも使える
永田町から半蔵門線に乗り錦糸町まで。
南口へ出て、丸源へ。
店内は立ち食いそばゾーンと立ち呑みゾーンがあり、二階には普通の食堂もあるみたい。
立ち呑みカウンターでは、昼でも大勢の人が飲んでいる。メニューは豊富。ちゃんと板さんがいる。
近くに場外馬券売り場があるからか、というわけでもなく、老夫婦や若いカップルもいる。
熱燗を一本だけ飲み、
スーパーでがんもどき、焼き豆腐を買って帰宅。
夜はおでんをつくった。
「2017年 ご祈祷のご案内」
http://

さて、
ちょっと調べたいことがあり、国会図書館へ。
地下鉄半蔵門線に乗って永田町へ。
ここを走っている8000系は僕の好きな車両。
千代田線の6000系や有楽町の7000系と似ているけれど、ちょっと違う。
以前は帝都高速度交通営団、略して営団地下鉄と云う立派な名前だったのだけれど、
最近は東京メトロなどと軟弱な名になっているのが気に入らない。
永田町下車、2番出口を出ると国道246号国会図書館前交叉点。
国会議事堂の裏。議員会館と反対側に民進党のビルが見える。
霞ヶ関にはカンリョーという魍魎が住んでおり、
ここ永田町にはセイジカーという妖怪がいるらしい。
東の皇居方面に歩いてすぐ、左側が国会図書館。
新館で利用者手続き。
IDカードを作ってもらい、館内でもインターネットでも、このidで検索できる。
本館へ行くと、端末がたくさん並び、大勢の人が調べたり勉強している。 ものすごく広い。
僕が探している本は貸し出し不可で、デジタルデータを画面から読む。
画面から必要なページを端末から複写依頼。資料のトリミングや色の濃淡も指定できる。
プリントアウトカウンターで料金を払って受け取る。
支払いはSUICAでもEddyでもnanacoでも、いろいろ可能。
欲しかったものが手に入るのは、それがコピーでもとても嬉しい。
大切に抱えて外へ出る。
今回は利用しなかったけれど、ここの食堂はかなりすごいらしい。
国会丼や国会カレー、富士山盛りそばなど、豊富で楽しいメニューが安い価格で食べられる。
もちろん、誰でも使える
永田町から半蔵門線に乗り錦糸町まで。
南口へ出て、丸源へ。
店内は立ち食いそばゾーンと立ち呑みゾーンがあり、二階には普通の食堂もあるみたい。
立ち呑みカウンターでは、昼でも大勢の人が飲んでいる。メニューは豊富。ちゃんと板さんがいる。
近くに場外馬券売り場があるからか、というわけでもなく、老夫婦や若いカップルもいる。
熱燗を一本だけ飲み、
スーパーでがんもどき、焼き豆腐を買って帰宅。
夜はおでんをつくった。
我が家へ配達してくれるヤマトのKくんは小中学校の同級生。
会う度に、
いやあ、忙しくてねえ
55歳に、この仕事はキツイよ
と言う。
給料増えていいじゃないの
と聞けば、
上のほうは増えるだろうけれど、俺らには回ってこねえよ
と答える。
今月は朝から夜10時ころまで走り回っているみたい。休み無し。
正月になればお酒の配達が増える、とのこと。
大丈夫かしら、と心配になる。
でも、
元気な彼が来ると僕も元気になる。同級生の様子も聞ける。
最近はインターネットで購入して配達してもらうのが当たり前になり、
配送料無料もあるけれど、あれってどうなのだろうか。
配送料はKくんらの手間賃だから、それが無いのは気の毒だ。
送料無料というのは、僕らが交通費無しで仕事に呼ばれるようなもの。
交通費がもらえないなら、僕は行かない、行けない。
そもそも、そういうことをタダにするのは、仕事をする人に失礼じゃないだろうか。
そう感じたので、これからは、送料をきちんと払うものを注文しようと思っています。
ところで、
僕は狭い湯船が苦手なので、家ではシャワーを使い、
湯船に浸かりたいときは銭湯へ行きます。
出張では大浴場がある宿を選ぶ。
我が家からいちばん近い銭湯が小山市「幸の湯」

近いといっても、自転車で30分、車で15分。
仕事の帰りなど、時間がある時に寄ります。
古い銭湯で、おじいさんとおばあさんが交代で番台に坐る。いつまで営業してくれるかな。
銭湯の特徴は、お湯が熱い。
衛生的な問題からなのかわからないけれど、この熱さがたまらない。
だいたい45度から47度。
お客は必ず身体を洗ってから湯船に入る。掛け湯程度で入る人はいない。
それから、
銭湯は温泉と違い、倶利伽羅紋紋の人もいる。
ちなみに、倶利伽羅はお不動さんが持つ剣に巻きつく龍王のこと。
それを智剣と云う。
そして、ここの壁には、現代の名工・銭湯絵師 中島盛夫さんの富士山がある。
これを見ながら湯船に浸かれば、疲れがすっかり取れる。
入浴料は大人420円、中人180円(6歳から12歳)、小人90円
僕が行っても行かなくても銭湯の湯は沸いているのだから、
自宅でお風呂を沸かすのはもったいない、
とも考えられる。
僕が乗っても乗らなくても電車は動いているのだから、
わざわざ自家用車で移動するより、電車に乗ったほうがエコロジーであるのと同じだな。
冷暖房完備の寮から帰って来ている息子が、我が家のファンヒーターを見て、
灯油も電気も使うなんて、もったいねえなあ
と言った。
会う度に、
いやあ、忙しくてねえ
55歳に、この仕事はキツイよ
と言う。
給料増えていいじゃないの
と聞けば、
上のほうは増えるだろうけれど、俺らには回ってこねえよ
と答える。
今月は朝から夜10時ころまで走り回っているみたい。休み無し。
正月になればお酒の配達が増える、とのこと。
大丈夫かしら、と心配になる。
でも、
元気な彼が来ると僕も元気になる。同級生の様子も聞ける。
最近はインターネットで購入して配達してもらうのが当たり前になり、
配送料無料もあるけれど、あれってどうなのだろうか。
配送料はKくんらの手間賃だから、それが無いのは気の毒だ。
送料無料というのは、僕らが交通費無しで仕事に呼ばれるようなもの。
交通費がもらえないなら、僕は行かない、行けない。
そもそも、そういうことをタダにするのは、仕事をする人に失礼じゃないだろうか。
そう感じたので、これからは、送料をきちんと払うものを注文しようと思っています。
ところで、
僕は狭い湯船が苦手なので、家ではシャワーを使い、
湯船に浸かりたいときは銭湯へ行きます。
出張では大浴場がある宿を選ぶ。
我が家からいちばん近い銭湯が小山市「幸の湯」
近いといっても、自転車で30分、車で15分。
仕事の帰りなど、時間がある時に寄ります。
古い銭湯で、おじいさんとおばあさんが交代で番台に坐る。いつまで営業してくれるかな。
銭湯の特徴は、お湯が熱い。
衛生的な問題からなのかわからないけれど、この熱さがたまらない。
だいたい45度から47度。
お客は必ず身体を洗ってから湯船に入る。掛け湯程度で入る人はいない。
それから、
銭湯は温泉と違い、倶利伽羅紋紋の人もいる。
ちなみに、倶利伽羅はお不動さんが持つ剣に巻きつく龍王のこと。
それを智剣と云う。
そして、ここの壁には、現代の名工・銭湯絵師 中島盛夫さんの富士山がある。
これを見ながら湯船に浸かれば、疲れがすっかり取れる。
入浴料は大人420円、中人180円(6歳から12歳)、小人90円
僕が行っても行かなくても銭湯の湯は沸いているのだから、
自宅でお風呂を沸かすのはもったいない、
とも考えられる。
僕が乗っても乗らなくても電車は動いているのだから、
わざわざ自家用車で移動するより、電車に乗ったほうがエコロジーであるのと同じだな。
冷暖房完備の寮から帰って来ている息子が、我が家のファンヒーターを見て、
灯油も電気も使うなんて、もったいねえなあ
と言った。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今までを振り返ってみると、
真っすぐ歩けば早く着けるのに、あちらこちらに寄り道して、ずいぶんと時間がかかってしまうような毎日を過ごしてきました。
小学生のころ、
毎日寄り道道草回り道をして、
クワガタを捕まえ、椎の実を食べ、野糞をしていました。そんなことはしなくても良いけれど、おもしろかった。
お葬式をしない、という家が増えています。
これは通過儀礼ですから、七五三やお宮参りや成人式や結婚式と同じで、
しなくても良いけれど、したほうが人生に味が出ます。やさしさや思いやりが生まれ、懺悔反省する機会にもなる。
お正月を迎えるにあたり、
大掃除をして鏡餅や注連飾りを準備し、おせちを作り、
年が明ければ初詣をして年賀状を読む
お盆には、先祖供養をする。
こういうことも、しなくても良いけれど、したほうが面白い。
宗教の基本は信心ですが、何を信じるのかといえば、
前世とか霊魂とか血液型占いとか噂話ではなく、
成仏・成道(悟り)という世界があることと、
そこへ至るまでの修行方法を信じることです。
そういうことも、道草を食っているうちに少しわかる。
真っすぐ一直線な人生というものがあるのかどうかわかりませんが、
回り道にはたいてい付き合い、ついて来てくれる人がいます。
それが何よりもありがたい。
その人のお蔭で、道草回り道も無駄にならないのだろうな。
ともあれ、
今年も平安でありますよう、お祈りいたします。
何かに集中していると、他のことに気づかないことはよくあることですが、
拝んでいる時に、気を失うようなことがあります。
何もかもが無くなり、ただ存在しているだけになる。
そうでなくても、
何か物思いにふける時もあり、
広々として風通しの良い静かな心持ちになることもある。
そういう時間はずいぶんと長く味わっていたように思われるのに、
実はほんの数分のことある。
誰でも心の扉を開ければ仏法の風が入ってくるけれど、
その扉は重かったり、鍵がかかっていることもある。
静かに座って懺悔反省していると、扉が軽くなり、鍵が開く。
その時間も長いように思うけれど、実は一瞬。
体験は時間を越えるようで、
心は実際の時間より、ずいぶんと速く動く。
「こだま」より「ひかり」、「ひかり」より「のぞみ」のほうが速い。
川上監督が現役のころ、
ピッチャーが投げたボールが止まって見えた。
それを撃てばヒットになる
という話は野球ファンには有名だけれど、
練習すれば速球も止まって見える。速いと思っていたものがゆっくりになることは、何でも同じである。
だから、
人生も一瞬に集約する。
心は間段の無い連続体だから、
この練習を繰り返せば、心をコントロールして怒りや貪り、慢心、疑いを、
心の平安(これを幸せという)に変えることが一瞬にできるはず。
アインシュタインは、
「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが相対性」
と言う。
そして、
特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。
さらに、
時間はそのものの実体が無い。
例えば「今」というものは無い。
今を正確には定義できないから。
今は時間的な長さが無い一瞬で、
どこからどこまでが今なのか、
は定義できない。
「今」は存在するけれど、確かな実体はない。
過去とか未来とかの関係性においてのみ「今」がある。
これを「空」というのだけれど、
ともかくも、
今日も僕は長い一瞬を体験しながら生きている。
拝んでいる時に、気を失うようなことがあります。
何もかもが無くなり、ただ存在しているだけになる。
そうでなくても、
何か物思いにふける時もあり、
広々として風通しの良い静かな心持ちになることもある。
そういう時間はずいぶんと長く味わっていたように思われるのに、
実はほんの数分のことある。
誰でも心の扉を開ければ仏法の風が入ってくるけれど、
その扉は重かったり、鍵がかかっていることもある。
静かに座って懺悔反省していると、扉が軽くなり、鍵が開く。
その時間も長いように思うけれど、実は一瞬。
体験は時間を越えるようで、
心は実際の時間より、ずいぶんと速く動く。
「こだま」より「ひかり」、「ひかり」より「のぞみ」のほうが速い。
川上監督が現役のころ、
ピッチャーが投げたボールが止まって見えた。
それを撃てばヒットになる
という話は野球ファンには有名だけれど、
練習すれば速球も止まって見える。速いと思っていたものがゆっくりになることは、何でも同じである。
だから、
人生も一瞬に集約する。
心は間段の無い連続体だから、
この練習を繰り返せば、心をコントロールして怒りや貪り、慢心、疑いを、
心の平安(これを幸せという)に変えることが一瞬にできるはず。
アインシュタインは、
「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが相対性」
と言う。
そして、
特殊相対性理論では、物体が高速で移動するほど、その系における時間の流れが遅くなる。
さらに、
時間はそのものの実体が無い。
例えば「今」というものは無い。
今を正確には定義できないから。
今は時間的な長さが無い一瞬で、
どこからどこまでが今なのか、
は定義できない。
「今」は存在するけれど、確かな実体はない。
過去とか未来とかの関係性においてのみ「今」がある。
これを「空」というのだけれど、
ともかくも、
今日も僕は長い一瞬を体験しながら生きている。
新年のご祈祷をして、お札をお送りしました。
一年間毎朝ご祈祷しますので、ご安心ください。
拝むことは心を静かにして観察することですが、
それによって心が晴れ、広く限界が開けます。
そうすると、
あらゆるものに対して優しさ、いとおしさ、懐かしさが生まれ、
他人のことを拝んでも、自分の心が平安になるので、自分自身が拝むことの恩恵を受けます。
拝むことで、他の心を開いて真理を示すというようなことにもつながる。
病気や災難を止めることは、心中の煩悩を除くこと
商売繁盛繁栄栄達を祈るのは、心中の福智を増進すること
怨敵悪魔を降伏させたいと願うのは、根源的な無知を降伏させようとすること
誰からも愛されたいと思うのは、慈悲の徳を大きくすること。
つまり、
世間の祈りの中に成仏(悟り=自分の心を知ること)が隠れています。
悟りとは幸せのことで、
幸せとは心が平安になることです。
世間の祈りは比較的即効性が期待されますが、
成仏(悟り)は時間がかかるりますし、必要と思わない人も多い。
でも、
長く祈り続けることで、世間の解釈は豊かになり、利益は長持ちします。
僕らには元々仏になる性質が隠されていますから、
苦しみ悩みを解決する能力もあるはずです。
密教は大日如来を総尊として、
阿弥陀、観音、不動、地蔵、文殊、普賢、薬師等々、
多くの仏を立てます。
それらの仏はそれぞれに誓願があり、特徴がある。
僕らの心が時間によって変わるように。
そして、
僕らの願いと仏の願いが溶け合う時に、
心が、それぞれの仏に成ります。
例えば、
仏さまを供養する。最大の供養は菩提心を発すことです。
菩提心は悟りを求める心で、その中心のひとつが慈悲心。
慈悲は思いやりと優しさです。
この心があれば、自他は平安になり、仲良く暮らすことができます。
仏の誓願は、皆が仲良く平和に暮らして、悟りに向かうことですから、
僕らが供養する時、僕らは仏になります。
自他の平安と所願成就のために、ご一緒に拝んでください。
一年間毎朝ご祈祷しますので、ご安心ください。
拝むことは心を静かにして観察することですが、
それによって心が晴れ、広く限界が開けます。
そうすると、
あらゆるものに対して優しさ、いとおしさ、懐かしさが生まれ、
他人のことを拝んでも、自分の心が平安になるので、自分自身が拝むことの恩恵を受けます。
拝むことで、他の心を開いて真理を示すというようなことにもつながる。
病気や災難を止めることは、心中の煩悩を除くこと
商売繁盛繁栄栄達を祈るのは、心中の福智を増進すること
怨敵悪魔を降伏させたいと願うのは、根源的な無知を降伏させようとすること
誰からも愛されたいと思うのは、慈悲の徳を大きくすること。
つまり、
世間の祈りの中に成仏(悟り=自分の心を知ること)が隠れています。
悟りとは幸せのことで、
幸せとは心が平安になることです。
世間の祈りは比較的即効性が期待されますが、
成仏(悟り)は時間がかかるりますし、必要と思わない人も多い。
でも、
長く祈り続けることで、世間の解釈は豊かになり、利益は長持ちします。
僕らには元々仏になる性質が隠されていますから、
苦しみ悩みを解決する能力もあるはずです。
密教は大日如来を総尊として、
阿弥陀、観音、不動、地蔵、文殊、普賢、薬師等々、
多くの仏を立てます。
それらの仏はそれぞれに誓願があり、特徴がある。
僕らの心が時間によって変わるように。
そして、
僕らの願いと仏の願いが溶け合う時に、
心が、それぞれの仏に成ります。
例えば、
仏さまを供養する。最大の供養は菩提心を発すことです。
菩提心は悟りを求める心で、その中心のひとつが慈悲心。
慈悲は思いやりと優しさです。
この心があれば、自他は平安になり、仲良く暮らすことができます。
仏の誓願は、皆が仲良く平和に暮らして、悟りに向かうことですから、
僕らが供養する時、僕らは仏になります。
自他の平安と所願成就のために、ご一緒に拝んでください。
※「アトピー、うつ、ガン、認知症の関係」
みな陽性の排毒です。
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/61Rx6s9XZ_M
※「五本指ソックスと認知症の関係」
これも陽性過多になる場合があります。
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/FI1lgJE_6dU
みな陽性の排毒です。
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/61Rx6s9XZ_M
※「五本指ソックスと認知症の関係」
これも陽性過多になる場合があります。
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/FI1lgJE_6dU
[ 2017/01/11 07:50 | 陰陽研究塾 ]
お酒は好きだけれど、他人と飲むのは苦手。
飲んでいると言葉を間違うから、
しらふの時に、真面目に真剣に熱く話をしたい。
在家の五戒に不飲酒があります。
お酒を飲んではいけない。
なぜかと云えば、
仏教は覚醒の宗教であって、酔迷を嫌う。
修行の邪魔になるからですね、仏教は修行の宗教です。
そして、
お酒を飲むと、盗み、嘘、殺生、邪淫など他の悪を行う危険が高くなる。
この辺は『智度論』や『正法念処経』にあるのですが、
戒律を守ることは心を静かにすることにつながり、
心を静かにすれば仏の智慧を得ることができます。
だから、
戒律を守らなければ仏弟子ではない。
お大師さんの『御遺誡』にも、
「もし故に犯ずる者は、仏弟子にあらず、我もまた彼が師にあらず。かの泥団折木に何ぞ異ならん」
とある。
お酒を飲む僕は、
お大師さんの弟子どころか仏教徒ですらない。
世の中には、
不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。飲んでも飲まれるな、だ。
と言う人もいます。
一緒に酒を酌み交わすことが供養になる、酒を一緒に飲むことで、心を許して檀家さんと話ができる
と考えるお坊さんも多いだろうな。
でも、それは世間の意見にすぎない。仏教は世間の倫理道徳とは違う。
ホントはね。
とにかく、
仏教は瞑想の宗教で、飲んだら瞑想できない。
十善戒の最初は不殺生。
殺してはいけない。
仏教に限らず、どの宗教でも同じだろうな。
『正法念処経』『中阿含経』『華厳経』などに説かれていますが、
これは不飲酒と違って理屈は不要。
殺してはいけない、のに理由はいらない。
ダメなものはダメなんだ。
首から上で考えることではない、そういうことが世間にはいくつもあるけれど、
ダメだからダメ、と押し付けてはいけない世の中になっているみたい。
それにしても、
酒でダメになるヤツは、それまでのヤツ
という気持ちが無ければ、飲んではいけない
と自己弁護。
飲んでいると言葉を間違うから、
しらふの時に、真面目に真剣に熱く話をしたい。
在家の五戒に不飲酒があります。
お酒を飲んではいけない。
なぜかと云えば、
仏教は覚醒の宗教であって、酔迷を嫌う。
修行の邪魔になるからですね、仏教は修行の宗教です。
そして、
お酒を飲むと、盗み、嘘、殺生、邪淫など他の悪を行う危険が高くなる。
この辺は『智度論』や『正法念処経』にあるのですが、
戒律を守ることは心を静かにすることにつながり、
心を静かにすれば仏の智慧を得ることができます。
だから、
戒律を守らなければ仏弟子ではない。
お大師さんの『御遺誡』にも、
「もし故に犯ずる者は、仏弟子にあらず、我もまた彼が師にあらず。かの泥団折木に何ぞ異ならん」
とある。
お酒を飲む僕は、
お大師さんの弟子どころか仏教徒ですらない。
世の中には、
不飲酒とは、酒を飲むこと自体を戒めているのではない。酒によって堕落し、悪を行うことを戒めているのだ。飲んでも飲まれるな、だ。
と言う人もいます。
一緒に酒を酌み交わすことが供養になる、酒を一緒に飲むことで、心を許して檀家さんと話ができる
と考えるお坊さんも多いだろうな。
でも、それは世間の意見にすぎない。仏教は世間の倫理道徳とは違う。
ホントはね。
とにかく、
仏教は瞑想の宗教で、飲んだら瞑想できない。
十善戒の最初は不殺生。
殺してはいけない。
仏教に限らず、どの宗教でも同じだろうな。
『正法念処経』『中阿含経』『華厳経』などに説かれていますが、
これは不飲酒と違って理屈は不要。
殺してはいけない、のに理由はいらない。
ダメなものはダメなんだ。
首から上で考えることではない、そういうことが世間にはいくつもあるけれど、
ダメだからダメ、と押し付けてはいけない世の中になっているみたい。
それにしても、
酒でダメになるヤツは、それまでのヤツ
という気持ちが無ければ、飲んではいけない
と自己弁護。
週末はセンター試験ですね。
受験生皆さんのご健闘をお祈りしています。
試験会場の椅子に坐ったら
両手を机の上に出して、掌を一回上に向ける。
たた、これだけで余計な緊張が取れます。
解答や質問に迷ったときは、
親指を掌中に入れて握りこぶしを作れば、
自律神経が安定して良い効果があるでしょう。
ところで、
悟りとは「しあわせ」になることで、それは「心の平安」を得ることです。
そのための修行カリキュラムがたくさんありますが、
食事を作るのも食べるのも修行のひとつ。
「食時作法」五観の偈では、
道業を成ぜんがためなり、世報は意にあらず
(食物を受けるのはただひたすら仏道を成就せんがためであり、世間の栄達名誉地位にはまったく関係がない )
と心の中で唱えます。
つまり、悟る(しあわせになる)ために食べる
ということ。
悟るためには身体が必要であり、その身体を養育するのが食事。
生きていることで、仏の智慧といのちを得ようとします。
さらに、
「正食偈」では、
飲食するときは衆生とともに 禅定の悦びを食とし、真理による歓喜の心がましますように
と唱えます。これは『八十華厳』にある偈文ですが、
身体を養うだけではなく、心の中にいる仏を養い、悟りの境涯を育むことが食事である、
ということ。

仏前にお米や炊いたご飯をお供えしますが、
これは忍辱の心の象徴。
僕らは普段、
耐え忍ぶことを忘れ、怒りを生んで、他人の批判非難や不平不満を持ちます。
お腹が空くと怒りっぽくなるけれど、ご飯を食べると心が落ち着き、精神が安定します。
このように、怒らず微笑み、心を静かにして平安になることが、最大の供養である
ということ。
ごはんを食べると、
脳が安心して、理解力と慈悲心が生まれます。

味噌汁を飲めば、
腎臓がよく働き、勇気と落ち着きが得られます。

お漬物を食べると、
肝臓がきれいになり、忍耐力が養われます。
これで、しあわせになれる。
受験生皆さんのご健闘をお祈りしています。
試験会場の椅子に坐ったら
両手を机の上に出して、掌を一回上に向ける。
たた、これだけで余計な緊張が取れます。
解答や質問に迷ったときは、
親指を掌中に入れて握りこぶしを作れば、
自律神経が安定して良い効果があるでしょう。
ところで、
悟りとは「しあわせ」になることで、それは「心の平安」を得ることです。
そのための修行カリキュラムがたくさんありますが、
食事を作るのも食べるのも修行のひとつ。
「食時作法」五観の偈では、
道業を成ぜんがためなり、世報は意にあらず
(食物を受けるのはただひたすら仏道を成就せんがためであり、世間の栄達名誉地位にはまったく関係がない )
と心の中で唱えます。
つまり、悟る(しあわせになる)ために食べる
ということ。
悟るためには身体が必要であり、その身体を養育するのが食事。
生きていることで、仏の智慧といのちを得ようとします。
さらに、
「正食偈」では、
飲食するときは衆生とともに 禅定の悦びを食とし、真理による歓喜の心がましますように
と唱えます。これは『八十華厳』にある偈文ですが、
身体を養うだけではなく、心の中にいる仏を養い、悟りの境涯を育むことが食事である、
ということ。
仏前にお米や炊いたご飯をお供えしますが、
これは忍辱の心の象徴。
僕らは普段、
耐え忍ぶことを忘れ、怒りを生んで、他人の批判非難や不平不満を持ちます。
お腹が空くと怒りっぽくなるけれど、ご飯を食べると心が落ち着き、精神が安定します。
このように、怒らず微笑み、心を静かにして平安になることが、最大の供養である
ということ。
ごはんを食べると、
脳が安心して、理解力と慈悲心が生まれます。
味噌汁を飲めば、
腎臓がよく働き、勇気と落ち着きが得られます。
お漬物を食べると、
肝臓がきれいになり、忍耐力が養われます。
これで、しあわせになれる。
京成電鉄柴又駅で妻と待ち合わせ。
駅前からすぐに帝釈天の参道だけれど、高砂から歩いてくる人も多い。
門前参道商店街を歩いて帝釈天へ。山門前に丸ポストがある。

寅さんで有名なここは日蓮宗のお寺、正式名称は経栄山 題経寺。
本堂でお参り。内殿外側にある十二支などの装飾彫刻が見ごたえある。
仏さまには如来、菩薩、天と種類があり、
持国、増長、広目、多聞(毘沙門)の四天王や、
弁財天、吉祥天、大黒天、聖天などが天部の仏さま。
元々はバラモン教などの神々で、仏教に取り入れられ、仏教を守護する護法神となった。
仏教の教えを信じ、実践する人々をも守る。
密教では等流法身(とうるほっしん)と呼び、
大日如来から等流したもの、それぞれの心安い姿になったもの。
大日如来とは、自分の心の真実を知った自分自身。
帝釈天は東方を守護する仏で、元は古代インドで最も人気のある英雄神・インドラ。
お釈迦さまが悟りを開いたときに、梵天とともにその悟りの内容を人々に説法するよう要請した。
京都・東寺講堂の立体マンダラには、美しくかっこいい梵天と帝釈天がいらっしゃる。
帝釈天の宮殿は、結び目が宝石になっている網で飾られており、
その宝石は互いを照らし映し合い、全体が美しく輝いている。
僕らも結び目の宝石と同じで、他とつながり照らしあっている、とけあっている
というのが悟りの世界。
参道に戻り、
ハイカラ横丁で10円ゲームをして、
高木屋でおでんと熱燗。
吉野家の草だんごはヨモギの香りがとても強くてうまい、一粒単位で売っている。
立花屋の硬いせんべいを歩きながら食べ、
浅野屋でお土産のせんべいを買う。
帝釈天の裏、東へ回り、書院庭園で有名な山本亭を抜けて江戸川へ。
ここから対岸の松戸へ「矢切りの渡し」に乗る。片道200円。
太った犬が同乗。客の間を歩き回り愛想がいい。

矢切は伊藤左千夫の純愛小説「野菊の墓」の舞台。
それにちなんだ「野菊のこみち」があり、
ネギ畑の農道だけれど、気分良く歩ける。野菊は咲いていない。
「民さんは野菊のような人だ」
そして、
民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
小説の景色を思い浮かべながら
北総鉄道矢切駅まで30分ほど歩き、電車に乗って帰宅。
駅前からすぐに帝釈天の参道だけれど、高砂から歩いてくる人も多い。
門前参道商店街を歩いて帝釈天へ。山門前に丸ポストがある。
寅さんで有名なここは日蓮宗のお寺、正式名称は経栄山 題経寺。
本堂でお参り。内殿外側にある十二支などの装飾彫刻が見ごたえある。
仏さまには如来、菩薩、天と種類があり、
持国、増長、広目、多聞(毘沙門)の四天王や、
弁財天、吉祥天、大黒天、聖天などが天部の仏さま。
元々はバラモン教などの神々で、仏教に取り入れられ、仏教を守護する護法神となった。
仏教の教えを信じ、実践する人々をも守る。
密教では等流法身(とうるほっしん)と呼び、
大日如来から等流したもの、それぞれの心安い姿になったもの。
大日如来とは、自分の心の真実を知った自分自身。
帝釈天は東方を守護する仏で、元は古代インドで最も人気のある英雄神・インドラ。
お釈迦さまが悟りを開いたときに、梵天とともにその悟りの内容を人々に説法するよう要請した。
京都・東寺講堂の立体マンダラには、美しくかっこいい梵天と帝釈天がいらっしゃる。
帝釈天の宮殿は、結び目が宝石になっている網で飾られており、
その宝石は互いを照らし映し合い、全体が美しく輝いている。
僕らも結び目の宝石と同じで、他とつながり照らしあっている、とけあっている
というのが悟りの世界。
参道に戻り、
ハイカラ横丁で10円ゲームをして、
高木屋でおでんと熱燗。
吉野家の草だんごはヨモギの香りがとても強くてうまい、一粒単位で売っている。
立花屋の硬いせんべいを歩きながら食べ、
浅野屋でお土産のせんべいを買う。
帝釈天の裏、東へ回り、書院庭園で有名な山本亭を抜けて江戸川へ。
ここから対岸の松戸へ「矢切りの渡し」に乗る。片道200円。
太った犬が同乗。客の間を歩き回り愛想がいい。
矢切は伊藤左千夫の純愛小説「野菊の墓」の舞台。
それにちなんだ「野菊のこみち」があり、
ネギ畑の農道だけれど、気分良く歩ける。野菊は咲いていない。
「民さんは野菊のような人だ」
そして、
民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。
小説の景色を思い浮かべながら
北総鉄道矢切駅まで30分ほど歩き、電車に乗って帰宅。
あるかたから、
私が子供の頃はお葬式も、法事も、当然お寺で、本堂でお経をきいていましたが、宗派でご本尊って違うんですね。
それとも、「私は この明王さま~」とか選んでも良いのですか?
自分の葬儀の時は
「信心していた、○○観音様でお願いします」とか は、ありですか?
と聞かれました。
昔、ご自宅でお葬儀をするときは、菩提寺のご本尊さん(の身代わり)をお借りしておまつりすることもありました。
僕は、
葬儀の連絡が入ると、戒名を考えてから、ウチのご本尊さん(お不動さん)の前で、供養法という修法をします。
この修法の一部に、お葬式の所作である引導作法を組み込むのが本義ですが、
葬儀会場では時間や備品の関係で略式になり、自宅でフルバージョンを拝みます。
で、
この作法も決まりはありません。
仏教は修行の宗教で、修行の理論や実践方法は確立されているけれど、
お葬式のやり方というものは元々無い。
経典儀軌にも典拠は無い。
その時代や地域の習慣風習に合わせたものです。
関係ありそうな経典は、(( )内は僕の加筆)
「苾蒭(びしゅく:僧のこと)のうち、葬送をよくするものに、無常経ならびに伽陀を誦させ、死者のために呪願させた 」(『毘那耶律』)
「仏(お釈迦さま)は浄飯王(お釈迦さまの父)を導引かれた」 (『浄飯王般泥洹経』 )
「大愛比丘尼が涅槃するとき、仏は自らさきにあって、香炉を捧げて引導をなされた」
(『智度論』十 )
などがある。
文献から引いてみると
葬送は(死という)無常を観じ、現在の欲を貪る生活を厭うべきを知らしめるために葬送する
仏教各宗は、その建前より儀式、式典に相当の複雑を加味される
経軌には本拠なきも、古来の慣例に従って行う(『佛事と葬儀』福山乗道)
真言宗の引導作法は諸尊法などと異なって、それぞれの地方により、師によって、大いに異なって、これが真言宗の引導作法だといえるものがない。 (『真言宗引導作法』稲谷祐宣)
江戸幕府が開かれると、キリシタン禁制、寺請け、新寺建立禁止令が矢継ぎ早に出され、
寛文五年(1665)には諸宗寺院法度が制定され、幕府による宗教統制が強化されていく。
この時期に葬儀式の規定もなされていくことになる。
儀礼は教義を行為として表現したものである以上、各宗が依ってたつ所依経典や宗祖の法語類にもとづいて構成されていることはいうまでもない。(『葬儀を考える』藤井正雄)
などがあります。
つまり、
それぞれの和尚さんが、
こういう風にすると、より良いだろうな、と考えて作法しています。
『葬儀を考える』には、
「葬儀を裏方で支えるのが葬儀社で、僧侶側は本来の役割を考えて「心の救済」を説いて欲しい」
と、全日本葬祭業協同組合連合会消費者相談室長の要請が書かれており、その通りです。
そういうわけで、
「信心していた、○○観音様でお願いします」
と僕が請われたら、
自宅でその観音様の修法をしてから、
葬儀会場ではその観音様の真言で拝み、その観音様に結縁する作法をして引導します。
故人と観音様と僕と相応し、
縁者と一緒に報恩感謝して、
みな一緒に悟りの世界へ向かいましょう。
できれば、
その観音様をお連れになってくださるとありがたい。
私が子供の頃はお葬式も、法事も、当然お寺で、本堂でお経をきいていましたが、宗派でご本尊って違うんですね。
それとも、「私は この明王さま~」とか選んでも良いのですか?
自分の葬儀の時は
「信心していた、○○観音様でお願いします」とか は、ありですか?
と聞かれました。
昔、ご自宅でお葬儀をするときは、菩提寺のご本尊さん(の身代わり)をお借りしておまつりすることもありました。
僕は、
葬儀の連絡が入ると、戒名を考えてから、ウチのご本尊さん(お不動さん)の前で、供養法という修法をします。
この修法の一部に、お葬式の所作である引導作法を組み込むのが本義ですが、
葬儀会場では時間や備品の関係で略式になり、自宅でフルバージョンを拝みます。
で、
この作法も決まりはありません。
仏教は修行の宗教で、修行の理論や実践方法は確立されているけれど、
お葬式のやり方というものは元々無い。
経典儀軌にも典拠は無い。
その時代や地域の習慣風習に合わせたものです。
関係ありそうな経典は、(( )内は僕の加筆)
「苾蒭(びしゅく:僧のこと)のうち、葬送をよくするものに、無常経ならびに伽陀を誦させ、死者のために呪願させた 」(『毘那耶律』)
「仏(お釈迦さま)は浄飯王(お釈迦さまの父)を導引かれた」 (『浄飯王般泥洹経』 )
「大愛比丘尼が涅槃するとき、仏は自らさきにあって、香炉を捧げて引導をなされた」
(『智度論』十 )
などがある。
文献から引いてみると
葬送は(死という)無常を観じ、現在の欲を貪る生活を厭うべきを知らしめるために葬送する
仏教各宗は、その建前より儀式、式典に相当の複雑を加味される
経軌には本拠なきも、古来の慣例に従って行う(『佛事と葬儀』福山乗道)
真言宗の引導作法は諸尊法などと異なって、それぞれの地方により、師によって、大いに異なって、これが真言宗の引導作法だといえるものがない。 (『真言宗引導作法』稲谷祐宣)
江戸幕府が開かれると、キリシタン禁制、寺請け、新寺建立禁止令が矢継ぎ早に出され、
寛文五年(1665)には諸宗寺院法度が制定され、幕府による宗教統制が強化されていく。
この時期に葬儀式の規定もなされていくことになる。
儀礼は教義を行為として表現したものである以上、各宗が依ってたつ所依経典や宗祖の法語類にもとづいて構成されていることはいうまでもない。(『葬儀を考える』藤井正雄)
などがあります。
つまり、
それぞれの和尚さんが、
こういう風にすると、より良いだろうな、と考えて作法しています。
『葬儀を考える』には、
「葬儀を裏方で支えるのが葬儀社で、僧侶側は本来の役割を考えて「心の救済」を説いて欲しい」
と、全日本葬祭業協同組合連合会消費者相談室長の要請が書かれており、その通りです。
そういうわけで、
「信心していた、○○観音様でお願いします」
と僕が請われたら、
自宅でその観音様の修法をしてから、
葬儀会場ではその観音様の真言で拝み、その観音様に結縁する作法をして引導します。
故人と観音様と僕と相応し、
縁者と一緒に報恩感謝して、
みな一緒に悟りの世界へ向かいましょう。
できれば、
その観音様をお連れになってくださるとありがたい。
仏教に創造神はいない、というのが特徴。
私も宇宙も元素も、その始まりを探っていくと根本的なものにつきあたる。
モノを分析して元素、素粒子、ニュートリノと見つけ、その先には何があるのか。分割できない最終的なものがあるのか。
その根本的な始まりは、どうやって始まりとなったのか。
それは神さまが創った、というのは外道の思想として仏教では認めない。
縁起とか空とか本不生などと説明するのだけれど、
分割できない全体性がある、というのが密教の立場。
縁と条件によって変化している、互いに相応しているもの、
始まりとか終わりが無い世界。
仏教には、
自力で努力精進して悟りを目指す面と、
浄土の阿弥陀さまのように、僕らを救いに来てくれるという他力的な面の両方がある。
密教に警覚(きょうがく)という言葉がある。
自分の中に眠っている仏の本性を覚醒させることなのだけれど、
慈悲の修行によって、如来が力添えをしてくれる、と云う。
眠っている僕らを如来が起こしてくれる。
子が母を呼ぶと、母が手を差し伸べてくれるようなもの。
思い悩んでいる時に、
風が吹き鳥が鳴いて、ふと気がついて悟ることがある。
その風の音、鳥の声が如来の説法であり、
それに気がつくかつかないかが人生を変える。
気がつくような人間になりたいものである。
このように考えると、
願いをかなえる、または叶えない神仏の姿が見えてくる。
神さま仏さまがいるのに、
僕らはなぜ災害や悲惨な苦しみに出会うのだろうか。
おそらく、
神仏宇宙大自然は、人類が滅びないように、ぎりぎりのところを護っている。
だから、僕らには常に困難がある。その困難を克服しようと工夫して僕らは成長する。
そして、困難があるから神仏を信じるようになる。
困難を克服することで、僕らは人生の意味と尊厳を得ることができ、
安らかに生きる可能性が高くなる。
死に向かう安らぎも得ることができる
僕らは健康で順調な時、妄想を自由に操り、その上、勉強不足なら錯覚が生じる。
なので、
神仏は戒めを与える。
ごく普通の生活で 突然見舞われる不幸にも、
如来の深い驚覚 がある。
私も宇宙も元素も、その始まりを探っていくと根本的なものにつきあたる。
モノを分析して元素、素粒子、ニュートリノと見つけ、その先には何があるのか。分割できない最終的なものがあるのか。
その根本的な始まりは、どうやって始まりとなったのか。
それは神さまが創った、というのは外道の思想として仏教では認めない。
縁起とか空とか本不生などと説明するのだけれど、
分割できない全体性がある、というのが密教の立場。
縁と条件によって変化している、互いに相応しているもの、
始まりとか終わりが無い世界。
仏教には、
自力で努力精進して悟りを目指す面と、
浄土の阿弥陀さまのように、僕らを救いに来てくれるという他力的な面の両方がある。
密教に警覚(きょうがく)という言葉がある。
自分の中に眠っている仏の本性を覚醒させることなのだけれど、
慈悲の修行によって、如来が力添えをしてくれる、と云う。
眠っている僕らを如来が起こしてくれる。
子が母を呼ぶと、母が手を差し伸べてくれるようなもの。
思い悩んでいる時に、
風が吹き鳥が鳴いて、ふと気がついて悟ることがある。
その風の音、鳥の声が如来の説法であり、
それに気がつくかつかないかが人生を変える。
気がつくような人間になりたいものである。
このように考えると、
願いをかなえる、または叶えない神仏の姿が見えてくる。
神さま仏さまがいるのに、
僕らはなぜ災害や悲惨な苦しみに出会うのだろうか。
おそらく、
神仏宇宙大自然は、人類が滅びないように、ぎりぎりのところを護っている。
だから、僕らには常に困難がある。その困難を克服しようと工夫して僕らは成長する。
そして、困難があるから神仏を信じるようになる。
困難を克服することで、僕らは人生の意味と尊厳を得ることができ、
安らかに生きる可能性が高くなる。
死に向かう安らぎも得ることができる
僕らは健康で順調な時、妄想を自由に操り、その上、勉強不足なら錯覚が生じる。
なので、
神仏は戒めを与える。
ごく普通の生活で 突然見舞われる不幸にも、
如来の深い驚覚 がある。