極悪非道な人や、
迷惑だなあ、イヤだなあ、と感じている相手に対して、
オマエなんかいなくなれば良い、どっか行ってしまえ
と思うのと、
良い人に変身してくれたらいいなあ、そしたら、仲良く楽しくやろうよ
と願うのでは、ずいぶんと違います。
人生で行き詰まりを感じたときに、
過剰な期待をしたり絶望するのと、
何が起きても冷静に対処すれば良いのだ、なるようになるさ、
という心持ちでいるのとでもだいぶ違う。
心ある人は、努力してもそれを表さず自慢しない。
他のお蔭と感謝する。
努力した人の願いはかない、努力しなければ叶わないけれど、
真摯な人は他をたたえ 自分を語らないことが多い。
人一倍努力しても、それを忘れて他の力に感謝合掌する。
そうではなくて、
自分の功績道程を話し、
努力しないから願いが叶わないのに、自分流の言い訳を正当化する。
どちらになるかで、自他の心の動きはずいぶんと変わる。
僕らは修行して初めて仏になるのではなく、始めも終わりも仏である。
それを信じている人もいない人も同じ。
この考えかたは、自分に対する厳しさが無いと危険な場合があるのだけれど、
気をつけていても、
心には高い状態と低い状態があって、順次向上するかと思えば油断して下がることもある。
うまくいかない時は、固定的な観念で固まり、臨機応変に考えていないことが多い。
他と自分を比べて、優れたところと見劣りする点を探してしまう。
自他も変化するのだから、固定的に考えても意味がないし、比べることはなおさら無意味である。
そうして心が変われば、周りの環境も変わる。何でも無い風景が美しくなる。
自分の心が柔らかくクッションがあれば、移り変わる事態に対処できる。
ことあるごとに自分の心を冷静に観察して、
絶え間ない反省を繰り返しながら、向上につとめる。
その最終的な目的は自他の救済であり、
周囲宇宙自然からは慈悲の光が降り注いでいる
と知る。
これが人生の意味である、と考えれば希望に満ちた世界になる
というのが宗教の立場、と考えています。
迷惑だなあ、イヤだなあ、と感じている相手に対して、
オマエなんかいなくなれば良い、どっか行ってしまえ
と思うのと、
良い人に変身してくれたらいいなあ、そしたら、仲良く楽しくやろうよ
と願うのでは、ずいぶんと違います。
人生で行き詰まりを感じたときに、
過剰な期待をしたり絶望するのと、
何が起きても冷静に対処すれば良いのだ、なるようになるさ、
という心持ちでいるのとでもだいぶ違う。
心ある人は、努力してもそれを表さず自慢しない。
他のお蔭と感謝する。
努力した人の願いはかない、努力しなければ叶わないけれど、
真摯な人は他をたたえ 自分を語らないことが多い。
人一倍努力しても、それを忘れて他の力に感謝合掌する。
そうではなくて、
自分の功績道程を話し、
努力しないから願いが叶わないのに、自分流の言い訳を正当化する。
どちらになるかで、自他の心の動きはずいぶんと変わる。
僕らは修行して初めて仏になるのではなく、始めも終わりも仏である。
それを信じている人もいない人も同じ。
この考えかたは、自分に対する厳しさが無いと危険な場合があるのだけれど、
気をつけていても、
心には高い状態と低い状態があって、順次向上するかと思えば油断して下がることもある。
うまくいかない時は、固定的な観念で固まり、臨機応変に考えていないことが多い。
他と自分を比べて、優れたところと見劣りする点を探してしまう。
自他も変化するのだから、固定的に考えても意味がないし、比べることはなおさら無意味である。
そうして心が変われば、周りの環境も変わる。何でも無い風景が美しくなる。
自分の心が柔らかくクッションがあれば、移り変わる事態に対処できる。
ことあるごとに自分の心を冷静に観察して、
絶え間ない反省を繰り返しながら、向上につとめる。
その最終的な目的は自他の救済であり、
周囲宇宙自然からは慈悲の光が降り注いでいる
と知る。
これが人生の意味である、と考えれば希望に満ちた世界になる
というのが宗教の立場、と考えています。
誕生日は19年目ごとに同じ月齢になります。
つまり、
19歳、38歳、57歳、76歳、95歳の誕生日の晩の月を眺めれば、
それは生まれた日の月と同じ。
人生には調子の良いときも悪い時もあります。
陰陽望診法では、胎内にいた9ヶ月と、生まれてからの60年を配当して、
妊娠3ヶ月目の事象が、20歳に表れると考えますが、
月を見ると、
19年周期に人生の昂揚期、転換期、衰退期が現れる。
月の軌道を二十七等分もしくは二十八等分して、そこに宿を置き、
陰陽五行説と西方からの七曜の概念を合わせて構築したものが『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』、略して『宿曜経』
二十七(二十八)宿、十二宮、七曜などの天体の動きや曜日の巡りをもとに、
日や方角等の吉凶を読み解く方法を説き明かした経典で、
お大師さんが唐から請来し、日本でも曜日が知られるようになりました。
密教では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日を選ぶこととされており、この宿曜経を根拠に日を決めています。
例えば僕は、昭和37年1月6日生まれ。この日は旧暦12月1日で虚宿。
原文では、
此宿生人 法合足穀食多貯積 合長貴勝蒙君主王寵愛 又好祭饗神廟終終身快楽
と極めて恵まれた星の下に生まれている。
日の吉凶としては 、
宜諸急速事 学問及沐浴 求乞子法吉 宜供養婆羅門 置城邑営兵 著新衣厳飾衣冠並吉
市販の暦では
虚宿は万事控えめに慎む日
となっており、原典とはだいぶ違う。
この宿と曜をあわせて、日の吉凶を見ます。
基本的に気にするのは何かを起こす日の吉凶のみで、人の性質や対人関係は見ない。
修行して人格の完成を目指す宗教であり、万人は元々仏であるのだから関係ない。
でも、
密教は現象界の存在そのままが真実である
という立場なので、
星月の動きも真如であるとして、『大日経』にも日時を選ぶべきことが説かれています。
実際には、
吉日を選んで悪日を避けると、なお良いけれども、
一切の日は皆善
一切の宿は皆賢
菩薩は皆威徳を備え
羅漢はみな煩悩を談じる
と『孔雀経』にあるので、
菩薩の威徳に頼り、それが慎みである
と古来考えられています。
仏の力と修行による功徳で善悪吉凶を越えようとするのが仏教ですから。
そして『大日経疏』には、
所謂良日晨といっぱ 意は菩提心嘉会の晨にあるなり
とある。
向上心と慈しみの心をもって、
心を観察しながら冷静に自他の悟りを目指す時が吉祥。
つまり、
19歳、38歳、57歳、76歳、95歳の誕生日の晩の月を眺めれば、
それは生まれた日の月と同じ。
人生には調子の良いときも悪い時もあります。
陰陽望診法では、胎内にいた9ヶ月と、生まれてからの60年を配当して、
妊娠3ヶ月目の事象が、20歳に表れると考えますが、
月を見ると、
19年周期に人生の昂揚期、転換期、衰退期が現れる。
月の軌道を二十七等分もしくは二十八等分して、そこに宿を置き、
陰陽五行説と西方からの七曜の概念を合わせて構築したものが『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』、略して『宿曜経』
二十七(二十八)宿、十二宮、七曜などの天体の動きや曜日の巡りをもとに、
日や方角等の吉凶を読み解く方法を説き明かした経典で、
お大師さんが唐から請来し、日本でも曜日が知られるようになりました。
密教では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日を選ぶこととされており、この宿曜経を根拠に日を決めています。
例えば僕は、昭和37年1月6日生まれ。この日は旧暦12月1日で虚宿。
原文では、
此宿生人 法合足穀食多貯積 合長貴勝蒙君主王寵愛 又好祭饗神廟終終身快楽
と極めて恵まれた星の下に生まれている。
日の吉凶としては 、
宜諸急速事 学問及沐浴 求乞子法吉 宜供養婆羅門 置城邑営兵 著新衣厳飾衣冠並吉
市販の暦では
虚宿は万事控えめに慎む日
となっており、原典とはだいぶ違う。
この宿と曜をあわせて、日の吉凶を見ます。
基本的に気にするのは何かを起こす日の吉凶のみで、人の性質や対人関係は見ない。
修行して人格の完成を目指す宗教であり、万人は元々仏であるのだから関係ない。
でも、
密教は現象界の存在そのままが真実である
という立場なので、
星月の動きも真如であるとして、『大日経』にも日時を選ぶべきことが説かれています。
実際には、
吉日を選んで悪日を避けると、なお良いけれども、
一切の日は皆善
一切の宿は皆賢
菩薩は皆威徳を備え
羅漢はみな煩悩を談じる
と『孔雀経』にあるので、
菩薩の威徳に頼り、それが慎みである
と古来考えられています。
仏の力と修行による功徳で善悪吉凶を越えようとするのが仏教ですから。
そして『大日経疏』には、
所謂良日晨といっぱ 意は菩提心嘉会の晨にあるなり
とある。
向上心と慈しみの心をもって、
心を観察しながら冷静に自他の悟りを目指す時が吉祥。
隣町二宮の渡邊麹店で麹を買う。
ここは昔ながらの麹屋さんで、昨今は甘酒が良く売れるらしい。
お米とお豆を持ち込めば味噌も作ってくれる。塩も指定できる。
母がいろいろ準備して味噌を仕込み、
あまった大豆を、あまった練炭コンロの火で炊いて晩酌のつまみ。枝豆みたいでうまい。

それはさておき、
同級生がぬいぐるみをたくさん持って来て、
拝んでから処分してくれ、と言う。
心は本来不去不来であるけれど、去来の法を修す。
大切にしていたものはゴミに出しにくいですからね。
被災地のガレキもゴミではなく、そういう大切なものの塊です。
昨日は七七日の法事と位牌の開眼を頼まれました。
開眼供養は拝む人の心の眼を開くことです。
それは自分の外側ではなく内側を観ること。
『般若心経秘鍵』には
あらゆるものが尊い仏であるのに、
心の眼の暗い衆生は、その盲のためにそれを観ることができない
とあり、
「医王の目には途に触れてみな薬なり」
と云う。
人は誰でも、大切なものは丁寧に扱う。
大切な人には優しく心を込めて接する。
それは心のちょっとしたことで、
大切だと思うことは心の内側を調整すること。
それは心の眼が開くことになる。
大切にするものはよく知り、心を開く。
それが拝むということ。
大切に思うことはとても大切。
ここは昔ながらの麹屋さんで、昨今は甘酒が良く売れるらしい。
お米とお豆を持ち込めば味噌も作ってくれる。塩も指定できる。
母がいろいろ準備して味噌を仕込み、
あまった大豆を、あまった練炭コンロの火で炊いて晩酌のつまみ。枝豆みたいでうまい。
それはさておき、
同級生がぬいぐるみをたくさん持って来て、
拝んでから処分してくれ、と言う。
心は本来不去不来であるけれど、去来の法を修す。
大切にしていたものはゴミに出しにくいですからね。
被災地のガレキもゴミではなく、そういう大切なものの塊です。
昨日は七七日の法事と位牌の開眼を頼まれました。
開眼供養は拝む人の心の眼を開くことです。
それは自分の外側ではなく内側を観ること。
『般若心経秘鍵』には
あらゆるものが尊い仏であるのに、
心の眼の暗い衆生は、その盲のためにそれを観ることができない
とあり、
「医王の目には途に触れてみな薬なり」
と云う。
人は誰でも、大切なものは丁寧に扱う。
大切な人には優しく心を込めて接する。
それは心のちょっとしたことで、
大切だと思うことは心の内側を調整すること。
それは心の眼が開くことになる。
大切にするものはよく知り、心を開く。
それが拝むということ。
大切に思うことはとても大切。
今朝5時より月例の不動明王護摩供修法。
皆さまの平安をお祈りいたしました。
セキをしている人が多いですが、
乾いた陽性なセキには、陰性なレンコンか大根、
湿った陰性なセキには、コーレンかネギ味噌が効果的。その反対ではあまり効かない。
キンカンも使えます。
それはさておき、
コーヒーが切れたから買ってきて、
と言われて豆屋さんで買って戻ると、お客さんが香り高い挽きたての粉を届けてくれた。
庭に活けてあるサトイモを掘って千葉の家に持っていったら、
友人から里芋がたくさん届いた。
こういうことはよくあることだけれど、自分でどうにかできることではない。
地震や事故も同じ。凶事も必ず起こる。
それは避けられないけれど、臨機応変に対応する心構えは出来る。
僕の親が親であるのは僕の意志ではなく
兄弟姉妹がいるのもいないのも、自分の努力工夫ではない。宿縁みたいなもの。
宿縁は
過去世につくった因縁(『新佛教辞典』)
前世からの因縁。運命(『日本国語大辞典』)
僕は努力すれば報われる、と考えているけれど、それは錯覚でもある。
恩師両親家族先輩友人の力で報われているのかもしれない。それは誰かとの相性がつくった結果。
相性は陰陽五行説で木火土金水の性が合うこと。
相性が良くても思い通りにはいかないし、
相性が良ければ吉というわけではない。
宿縁や相性は「在る」けれども実体としては無いから、コロコロと変わる。
生活習慣や呼び名が変わるだけで変わる。
そういうものを信じて先行きの吉凶を求めるのは愚かなことだけれど、
それらには気をつけなければならないヒントがある。
宿縁や相性はひとつのヒントであり、
冷静に観察すれば、そのヒントから智慧を引き出せる。
『般若心経秘鍵』には
迷い不安は心を静かにすることと、良き思いによって、断ち切られる
悟りは遠いところにあるのではなく、すぐ近くの自分の中にある
とある。
宿縁や相性よりも、
これこそを信じて修行工夫すれば、何事も円満に解決する。
皆さまの平安をお祈りいたしました。
セキをしている人が多いですが、
乾いた陽性なセキには、陰性なレンコンか大根、
湿った陰性なセキには、コーレンかネギ味噌が効果的。その反対ではあまり効かない。
キンカンも使えます。
それはさておき、
コーヒーが切れたから買ってきて、
と言われて豆屋さんで買って戻ると、お客さんが香り高い挽きたての粉を届けてくれた。
庭に活けてあるサトイモを掘って千葉の家に持っていったら、
友人から里芋がたくさん届いた。
こういうことはよくあることだけれど、自分でどうにかできることではない。
地震や事故も同じ。凶事も必ず起こる。
それは避けられないけれど、臨機応変に対応する心構えは出来る。
僕の親が親であるのは僕の意志ではなく
兄弟姉妹がいるのもいないのも、自分の努力工夫ではない。宿縁みたいなもの。
宿縁は
過去世につくった因縁(『新佛教辞典』)
前世からの因縁。運命(『日本国語大辞典』)
僕は努力すれば報われる、と考えているけれど、それは錯覚でもある。
恩師両親家族先輩友人の力で報われているのかもしれない。それは誰かとの相性がつくった結果。
相性は陰陽五行説で木火土金水の性が合うこと。
相性が良くても思い通りにはいかないし、
相性が良ければ吉というわけではない。
宿縁や相性は「在る」けれども実体としては無いから、コロコロと変わる。
生活習慣や呼び名が変わるだけで変わる。
そういうものを信じて先行きの吉凶を求めるのは愚かなことだけれど、
それらには気をつけなければならないヒントがある。
宿縁や相性はひとつのヒントであり、
冷静に観察すれば、そのヒントから智慧を引き出せる。
『般若心経秘鍵』には
迷い不安は心を静かにすることと、良き思いによって、断ち切られる
悟りは遠いところにあるのではなく、すぐ近くの自分の中にある
とある。
宿縁や相性よりも、
これこそを信じて修行工夫すれば、何事も円満に解決する。
子どもが小さい頃、平均体重とか平均身長とかを聞かされて、何の意味があるのだろうなあ、と思っていました。
大きな子と小さな子がいて平均値があるのだから、要するにみんな違うということ。
みんなが平均値に近かったら気持ち悪い、工業製品じゃないのだから。
家人が職場の健康診断結果を見せてくれ、おもしろいなあと思った。僕は受けたことがないから知らない数字ばかり。
血液検査の基準値は、日本人間ドック学会・健康保険組合連合会が決めています。
http:// www.nin gen-doc k.jp/wp /wp-con tent/up loads/2 013/09/ %E3%83% 97%E3%8 3%AC%E3 %82%B9% E3%83%A A%E3%83 %AA%E3% 83%BC%E 3%82%B9 %E7%94% A8PDF%E F%BC%88 140409% E5%B7%A E%E3%81 %97%E6% 9B%BF%E 3%81%88 %EF%BC% 89.pdf
http:// www.ken poren.c om/incl ude/pre ss/2014 /201404 0902.pd f
この基準値、これを超えれば病人、ということなのかしら。
どんな生活をしていても、どんな体質でも、同じ数字を超えれば病気なんて変な気がするなあ。
例えば、
肉体労働を続けてきた人が転職して芸術家や坊さんになれば、運動量が減ってコレステロールや中性脂肪の値も変わるだろうな。
環境や習慣、食生活が変化しても変わる。
血液検査で出る数字は、血液を作る食べ物で変わるのだから。
若い時の総コレステロールが170mg/dlで、年配になって200になれば、
その差だけ生活を工夫すれば良いのだろうな。
基準値とか平均値は、多くのデータから解析されたのだろうけれど、
それが誰でもにそのまま適応されるものではないはず。
そのような数値を参考にするのは分かりやすい方法だけれど、僕は望診法で判断しています。
身体の表象を診て内臓の様子を判断する望診法は、その結果について陰陽で対応できる。
お気持ちがありましたら、ご覧ください。
『望診法講義録 人相遍』
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%B1%B 3%E3%81 %9E%E3% 81%86%E 3%81%AE %E5%AE% B6/%E3% 80%8E%E 6%9C%9B %E8%A8% BA%E6%B 3%95%E8 %AC%9B% E7%BE%A 9%E9%8C %B2%E3% 80%80%E 4%BA%BA %E7%9B% B8%E7%B 7%A8%E3 %80%8F
『望診法講義録 手相編』
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%B1%B 3%E3%81 %9E%E3% 81%86%E 3%81%AE %E5%AE% B6/%E8% BF%91%E 6%97%A5 %E5%87% BA%E7%8 9%88%E3 %80%81% E5%86%8 D%E7%89 %88
大きな子と小さな子がいて平均値があるのだから、要するにみんな違うということ。
みんなが平均値に近かったら気持ち悪い、工業製品じゃないのだから。
家人が職場の健康診断結果を見せてくれ、おもしろいなあと思った。僕は受けたことがないから知らない数字ばかり。
血液検査の基準値は、日本人間ドック学会・健康保険組合連合会が決めています。
http://
http://
この基準値、これを超えれば病人、ということなのかしら。
どんな生活をしていても、どんな体質でも、同じ数字を超えれば病気なんて変な気がするなあ。
例えば、
肉体労働を続けてきた人が転職して芸術家や坊さんになれば、運動量が減ってコレステロールや中性脂肪の値も変わるだろうな。
環境や習慣、食生活が変化しても変わる。
血液検査で出る数字は、血液を作る食べ物で変わるのだから。
若い時の総コレステロールが170mg/dlで、年配になって200になれば、
その差だけ生活を工夫すれば良いのだろうな。
基準値とか平均値は、多くのデータから解析されたのだろうけれど、
それが誰でもにそのまま適応されるものではないはず。
そのような数値を参考にするのは分かりやすい方法だけれど、僕は望診法で判断しています。
身体の表象を診て内臓の様子を判断する望診法は、その結果について陰陽で対応できる。
お気持ちがありましたら、ご覧ください。
『望診法講義録 人相遍』
http://
『望診法講義録 手相編』
http://
老眼になってメガネが無くて不自由することがありますが、
メガネが無ければ無理に見なくてもいいや、と楽な気持ちにもなります。
眼は耳鼻舌皮膚心とともに対象を認識する器官ですが、眼は色や形を担当。
「あなた」を「眼」が「見て(認識して)」、脳へ伝わり「きれい」とか「素敵だ」など心が生まれます。
きれいとか素敵だなどの判断は、心の源底にあるDVDに記録されているものから引き出され、再生される。
その眼は見えるものと見えないものが、常に変化しています。
日常作法の洗目の真言は、
目を洗うことで眼病が去り、十方に諸仏を見る
という意味がある。十方に仏を観る心になろうとすることが大切。
毎日拝むどんな作法の中にも、仏眼仏母という仏さまがいらっしゃいます。
名前の通り諸仏の母で、このお母さんに加持されて、魔が避け、事業が成就する。
母が子を守り育てるようなもの。
誰に対してもそういう気持ちを持つようになりたい。
仏眼さんには五つの眼があり、
肉眼は普通の目、
天眼は肉眼よりもっとよく見える眼
この二つは世俗の眼、自分の外側を観る欲望の眼。
慧眼、法眼、仏眼 は自分の内側を観察する眼で、
この眼によって空や縁起や覚りを知る。
それによって、すべては成就する。
もうひとつ、
拝む作法中に金剛眼があります。
両目に梵字を観想し、右目が日に、左目が月になり(この左右が逆の経典もあるけれど)、
その光りによって一切の悪が消えます。
暗闇に明かりを灯せば総てが見えるように、
智慧の光があれば、迷い苦しみの闇が消える、ということ。
眼から智慧の光が出る。
ところで、
『古事記』に重要な神々が生まれた時の記述があります。
まだ仏教の影響が無い時代の話。
イザナギノミコトが死んだ妻恋しさのあまり、冥土へ尋ねて行くけれど、
そこは来るべきところではない、そして見るべきものではないものを見た、と覚り、
急いで帰り、日向の橘の小門の阿波岐原で禊(ミソギ)をします。
そして、
左目を洗ったときに日の神 天照太神が生まれ、
右の目を洗ったときに月の神 月読命が生まれた
とある。
日本古代史では、ミソギによって眼から日の神と月の神が生まれ
密教では、
梵字(これは仏のシンボル)と智慧と瞑想により、日月の光明が生まれ、大日如来の悟りにつながる。
日(太陽)は智慧(勉強)
月は禅定(心を静かにする修行)
の象徴。
陰陽五行説で眼は肝の蔵。
望診法でも眼で肝臓の様子を判断します。
肝臓は怒りに敏感で、肝臓が健康なら忍辱(耐え忍ぶこと)に優れる。
なので、
和やかに微笑むことは眼の滋養になり、悟りの仏眼につながる。
食べ物では酸味、辛味。
メガネが無ければ無理に見なくてもいいや、と楽な気持ちにもなります。
眼は耳鼻舌皮膚心とともに対象を認識する器官ですが、眼は色や形を担当。
「あなた」を「眼」が「見て(認識して)」、脳へ伝わり「きれい」とか「素敵だ」など心が生まれます。
きれいとか素敵だなどの判断は、心の源底にあるDVDに記録されているものから引き出され、再生される。
その眼は見えるものと見えないものが、常に変化しています。
日常作法の洗目の真言は、
目を洗うことで眼病が去り、十方に諸仏を見る
という意味がある。十方に仏を観る心になろうとすることが大切。
毎日拝むどんな作法の中にも、仏眼仏母という仏さまがいらっしゃいます。
名前の通り諸仏の母で、このお母さんに加持されて、魔が避け、事業が成就する。
母が子を守り育てるようなもの。
誰に対してもそういう気持ちを持つようになりたい。
仏眼さんには五つの眼があり、
肉眼は普通の目、
天眼は肉眼よりもっとよく見える眼
この二つは世俗の眼、自分の外側を観る欲望の眼。
慧眼、法眼、仏眼 は自分の内側を観察する眼で、
この眼によって空や縁起や覚りを知る。
それによって、すべては成就する。
もうひとつ、
拝む作法中に金剛眼があります。
両目に梵字を観想し、右目が日に、左目が月になり(この左右が逆の経典もあるけれど)、
その光りによって一切の悪が消えます。
暗闇に明かりを灯せば総てが見えるように、
智慧の光があれば、迷い苦しみの闇が消える、ということ。
眼から智慧の光が出る。
ところで、
『古事記』に重要な神々が生まれた時の記述があります。
まだ仏教の影響が無い時代の話。
イザナギノミコトが死んだ妻恋しさのあまり、冥土へ尋ねて行くけれど、
そこは来るべきところではない、そして見るべきものではないものを見た、と覚り、
急いで帰り、日向の橘の小門の阿波岐原で禊(ミソギ)をします。
そして、
左目を洗ったときに日の神 天照太神が生まれ、
右の目を洗ったときに月の神 月読命が生まれた
とある。
日本古代史では、ミソギによって眼から日の神と月の神が生まれ
密教では、
梵字(これは仏のシンボル)と智慧と瞑想により、日月の光明が生まれ、大日如来の悟りにつながる。
日(太陽)は智慧(勉強)
月は禅定(心を静かにする修行)
の象徴。
陰陽五行説で眼は肝の蔵。
望診法でも眼で肝臓の様子を判断します。
肝臓は怒りに敏感で、肝臓が健康なら忍辱(耐え忍ぶこと)に優れる。
なので、
和やかに微笑むことは眼の滋養になり、悟りの仏眼につながる。
食べ物では酸味、辛味。
岩原諦信僧正の『星と暦と真言密教』(1958年刊)第五章に「男女相性五原則」がある。
「地球上に数多くの人間が生きている中に我が妻となり夫となる者は唯一人きりである。
不可思議な因縁であるが因縁のみに任せておけないのが吾々の本質である」
と始まる 。
そして、
「結婚の根本問題は実に「相性」の問題であると思う。世間では相性の問題と云えば「十二支」に依る判断と直感するかもしれないが、実はこの問題はもっともっと広く且つ深い種々なる要素を含んでいるのである」
として
第一 補償の法則
夫婦はお互いに「持ち合わせていないもの」を「持ち寄って」相互に「補償し合って」包容の生活を進めていこうとするのであるから、これが都合よく行くか行かないかが吉凶判断を下す規準となる。
第二 一致の法則
二人は相異なっている半面に、一致していなければならない一面を同時に備えていなければならない。この一致点の部分において吉凶の判断を下す規準がある。
第三 調和の法則
家庭の「うまさ」を続けていくには夫婦の間の調味料となるものを二人は如何に持ち合わせているかが吉凶の判断を下す規準になる。
続いて
第四 遺伝の法則
第五 年齢の法則
と分けて説明されている。
基本的に男女の相性は陰陽のバランス、と僕は考えています。
自分が比較的陽性なら、陰性な相手に惹かれ、一緒になる。
陰陽の差が大きければ起伏の激しい関係になり、その差が小さければ比較的穏やかである。
相手の陽性が、生活や環境や老化で強くなれば、
こちらはより陰性になるよう工夫すればバランスが取れる。
姿形が陽性なら内面は陰性なので、外見だけで引き合うことは無い。
そして、
陽性な父親には陰性な精子があり、陰性な母親には陽性な卵子がある。
それが受精して、卵子の力がより大きければ男の子が生まれます。
陰陽は自然の法則で、環境時間習慣によって変化します。
女性が陽性に成りすぎれば、元々陽性な男と衝突して別れる、
ということもある。
男女の相性が良いということは、
日と月のような関係で、
学問と実践、差別と平等、慈悲と智慧のように、
互いに離れては存在しない、ということかな。
「地球上に数多くの人間が生きている中に我が妻となり夫となる者は唯一人きりである。
不可思議な因縁であるが因縁のみに任せておけないのが吾々の本質である」
と始まる 。
そして、
「結婚の根本問題は実に「相性」の問題であると思う。世間では相性の問題と云えば「十二支」に依る判断と直感するかもしれないが、実はこの問題はもっともっと広く且つ深い種々なる要素を含んでいるのである」
として
第一 補償の法則
夫婦はお互いに「持ち合わせていないもの」を「持ち寄って」相互に「補償し合って」包容の生活を進めていこうとするのであるから、これが都合よく行くか行かないかが吉凶判断を下す規準となる。
第二 一致の法則
二人は相異なっている半面に、一致していなければならない一面を同時に備えていなければならない。この一致点の部分において吉凶の判断を下す規準がある。
第三 調和の法則
家庭の「うまさ」を続けていくには夫婦の間の調味料となるものを二人は如何に持ち合わせているかが吉凶の判断を下す規準になる。
続いて
第四 遺伝の法則
第五 年齢の法則
と分けて説明されている。
基本的に男女の相性は陰陽のバランス、と僕は考えています。
自分が比較的陽性なら、陰性な相手に惹かれ、一緒になる。
陰陽の差が大きければ起伏の激しい関係になり、その差が小さければ比較的穏やかである。
相手の陽性が、生活や環境や老化で強くなれば、
こちらはより陰性になるよう工夫すればバランスが取れる。
姿形が陽性なら内面は陰性なので、外見だけで引き合うことは無い。
そして、
陽性な父親には陰性な精子があり、陰性な母親には陽性な卵子がある。
それが受精して、卵子の力がより大きければ男の子が生まれます。
陰陽は自然の法則で、環境時間習慣によって変化します。
女性が陽性に成りすぎれば、元々陽性な男と衝突して別れる、
ということもある。
男女の相性が良いということは、
日と月のような関係で、
学問と実践、差別と平等、慈悲と智慧のように、
互いに離れては存在しない、ということかな。
1980年、僕は大学受験に失敗し、予備校に通っていた。
浪人中に喫茶店(それまで不良が行く所だと思っていた)とパチンコ(メテオ)を覚え、洋楽をたくさんたくさん聴いた。 当時はウエストコーストサウンドが全盛だった。
その年の11月17日、永く主夫をしていたジョン・レノンが五年ぶりにアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表。僕はすぐに買った。だから、追悼の文字が無いきれいなジャケット。
というのは、12月8日にジョンは射殺されたから。
この日はずいぶん特色があり、
大日本帝国軍が真珠湾を攻撃、米英に宣戦布告(1941年)
力道山が赤坂のナイトクラブで暴力団員に刺される(1963年 15日に死亡)
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏洩、事故隠し(1995年)
なにより
この日はお釈迦さまが菩提樹下で成道された日。悟りを開いた日 。
重要な日である。
そして1980年、
ジョン・レノンが死ぬ4日前にスターズ・オン45というバンドがビートルズ・メドレーを発表。世界的なヒット曲になった。 もちろんジョンの曲もヒットしたけれど。
僕はその頃、英語の勉強は洋楽を聴いてディクテーションすること。
毎週土曜日のFEN「American top40」は欠かさずに聴いていた。
そのスターズ・オン45~30周年アニバーサリー日本限定版を遅まきながら購入して、
運転中に楽しんでいます。
浪人中に喫茶店(それまで不良が行く所だと思っていた)とパチンコ(メテオ)を覚え、洋楽をたくさんたくさん聴いた。 当時はウエストコーストサウンドが全盛だった。
その年の11月17日、永く主夫をしていたジョン・レノンが五年ぶりにアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表。僕はすぐに買った。だから、追悼の文字が無いきれいなジャケット。
というのは、12月8日にジョンは射殺されたから。
この日はずいぶん特色があり、
大日本帝国軍が真珠湾を攻撃、米英に宣戦布告(1941年)
力道山が赤坂のナイトクラブで暴力団員に刺される(1963年 15日に死亡)
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏洩、事故隠し(1995年)
なにより
この日はお釈迦さまが菩提樹下で成道された日。悟りを開いた日 。
重要な日である。
そして1980年、
ジョン・レノンが死ぬ4日前にスターズ・オン45というバンドがビートルズ・メドレーを発表。世界的なヒット曲になった。 もちろんジョンの曲もヒットしたけれど。
僕はその頃、英語の勉強は洋楽を聴いてディクテーションすること。
毎週土曜日のFEN「American top40」は欠かさずに聴いていた。
そのスターズ・オン45~30周年アニバーサリー日本限定版を遅まきながら購入して、
運転中に楽しんでいます。
東日本大震災物故者の七回忌が過ぎました。
亡くなられたかたがたの菩提と、被災地の円満な復興を心からお祈りしております。
さて、
福島県の県民健康調査「妊産婦に関する調査」について、が公表されています。
http:// www.pre f.fukus hima.lg .jp/upl oaded/a ttachme nt/1599 95.pdf
http:// fukushi ma-mima mori.jp /pregna nt-surv ey/resu lt/
http:// www.pre f.fukus hima.lg .jp/upl oaded/a ttachme nt/2017 44.pdf
1)妊娠結果について
母子健康手帳交付後の流産、中絶、早産、低出生体重児の割合は、今までの調査とほぼ同
様の結果であった。単胎における先天奇形・先天異常の発生率も今までの調査結果と同様
であり、一般的な発生率と比べて大きな変化はみられなかった。
2)メンタルヘルスについて
うつ傾向ありと判定された母親の割合は、経年的に減少傾向を示しているが、産後うつ病
疑いの推定割合は全国データよりも未だ高率であった。
3)自由記載内容について
自由記載内容は、「育児相談」が最も多く、次いで「育児支援サービスの充実の要望」で
あった。平成 23、24 年度に最も多かった「胎児・子どもへの放射線の影響について」は
減少傾向を示した。
人口動態調査でも福島県は宮城、岩手と同じレベルです。全体的に人口は減少。
http:// www.mhl w.go.jp /toukei /saikin /hw/jin kou/kak utei15/ dl/06_h 3-1.pdf
明日から相馬、東松島へ拝みに行きます。
帰りは郡山で、去年生まれた赤ちゃんに会うのが楽しみ。
亡くなられたかたがたの菩提と、被災地の円満な復興を心からお祈りしております。
さて、
福島県の県民健康調査「妊産婦に関する調査」について、が公表されています。
http://
http://
http://
1)妊娠結果について
母子健康手帳交付後の流産、中絶、早産、低出生体重児の割合は、今までの調査とほぼ同
様の結果であった。単胎における先天奇形・先天異常の発生率も今までの調査結果と同様
であり、一般的な発生率と比べて大きな変化はみられなかった。
2)メンタルヘルスについて
うつ傾向ありと判定された母親の割合は、経年的に減少傾向を示しているが、産後うつ病
疑いの推定割合は全国データよりも未だ高率であった。
3)自由記載内容について
自由記載内容は、「育児相談」が最も多く、次いで「育児支援サービスの充実の要望」で
あった。平成 23、24 年度に最も多かった「胎児・子どもへの放射線の影響について」は
減少傾向を示した。
人口動態調査でも福島県は宮城、岩手と同じレベルです。全体的に人口は減少。
http://
明日から相馬、東松島へ拝みに行きます。
帰りは郡山で、去年生まれた赤ちゃんに会うのが楽しみ。
次男と船橋を出発し、
郡山で長男と合流して運転を交代。
二本松から相馬福島道路の建設が進む115号線を走る。
これは復興支援道路とされているけれど、どうなのかな。
相馬へ抜け、松川浦の慰霊碑で読経。海がきれい。
この辺りの津波被災地はソーラーパネルが拡がっている。人が住めなくなった土地活用のひとつ。
6号線から45号線を走って東松島へ。
復興のシンボル的存在である「えんまん亭」で夕食をとってから、宮戸島「ちどり館」に投宿。
すべて流されたこの地には、海苔と牡蠣の養殖が戻り、民宿も6件、再出発している。
今は、わかめ、めかぶが旬で、シラウオが走。
牡蠣もまだ採れ、海苔は四番摘みくらい。
海苔はお茶と同じで、新物(一番摘み)は柔らかく薄く高級品。
二番摘み(年明けに収穫)がもっともうまいと言う人が多く、
三番四番と固く厚くなけれど、ほうれん草の磯あえなどには向いている。
そんなことを教えてもらう。
高台に移転した野蒜駅に永良尼を迎えに行き、
毎回伺う宮戸のキジマさん宅へ。
http://asacoco.jp/rensai/fukkou/miyatojima/
キジマさんが整備しているお地蔵さん前で読経。

津波の跡地はどこも広大な土地が拡がり、
何に使うのか決まっていないのに造成が続いている。
補助金がもらえるから何かを始めても、
後継者がいないから続かない。年寄りばかりで管理に手が回らない。
交通手段や食事処が無い。
移住を呼びかけても、学校が無いから地元には住みにくい。
漁業をしたい人が来てくれても、地元に住んでくれないと漁業権が得られない。
津波で小魚の産卵場所になる海藻の森は少しづつ回復しているけれど、
もう少し時間がかかりそう。
そして、
残された人で地域を守るのは大変で、
草刈りだけで毎日が過ぎていく。
などと話を伺う。
広いから、ちょっと工夫して合宿などで人が来るようになれば良いなあ。
お暇して、永良尼と長音寺跡、野蒜小学校体育館跡地、東名慰霊碑で回向。


郡山で長男と合流して運転を交代。
二本松から相馬福島道路の建設が進む115号線を走る。
これは復興支援道路とされているけれど、どうなのかな。
相馬へ抜け、松川浦の慰霊碑で読経。海がきれい。
この辺りの津波被災地はソーラーパネルが拡がっている。人が住めなくなった土地活用のひとつ。
6号線から45号線を走って東松島へ。
復興のシンボル的存在である「えんまん亭」で夕食をとってから、宮戸島「ちどり館」に投宿。
すべて流されたこの地には、海苔と牡蠣の養殖が戻り、民宿も6件、再出発している。
今は、わかめ、めかぶが旬で、シラウオが走。
牡蠣もまだ採れ、海苔は四番摘みくらい。
海苔はお茶と同じで、新物(一番摘み)は柔らかく薄く高級品。
二番摘み(年明けに収穫)がもっともうまいと言う人が多く、
三番四番と固く厚くなけれど、ほうれん草の磯あえなどには向いている。
そんなことを教えてもらう。
高台に移転した野蒜駅に永良尼を迎えに行き、
毎回伺う宮戸のキジマさん宅へ。
http://asacoco.jp/rensai/fukkou/miyatojima/
キジマさんが整備しているお地蔵さん前で読経。
津波の跡地はどこも広大な土地が拡がり、
何に使うのか決まっていないのに造成が続いている。
補助金がもらえるから何かを始めても、
後継者がいないから続かない。年寄りばかりで管理に手が回らない。
交通手段や食事処が無い。
移住を呼びかけても、学校が無いから地元には住みにくい。
漁業をしたい人が来てくれても、地元に住んでくれないと漁業権が得られない。
津波で小魚の産卵場所になる海藻の森は少しづつ回復しているけれど、
もう少し時間がかかりそう。
そして、
残された人で地域を守るのは大変で、
草刈りだけで毎日が過ぎていく。
などと話を伺う。
広いから、ちょっと工夫して合宿などで人が来るようになれば良いなあ。
お暇して、永良尼と長音寺跡、野蒜小学校体育館跡地、東名慰霊碑で回向。
お金儲けの方法、勉強ができるようになる方法、健康になる方法・・・、
そんなことを看板に掲げても関心を持たれないけれど、
神とは何か、人生とは何か
と話し始めれば、たちまち人が集まる、
というのがインド。
お釈迦さまの時代、古代インドで主流だった正統派バラモン教は、
霊魂の多様性を信じ、霊魂と物質とを区別して、現実の世界を実在としていました。
そして、世界の創造神・最高神としてブラフマンをたてます。
仏教は創造者を否定し、神を持たない人間中心主義なので、
バラモン教からは異端とされていました。異端の出家修行者を沙門と呼びます。
仏教以外にも異端の思想があり、それぞれ人気を集めていました。それらがまとまった形で書かれているのが『沙門果経』 。その中に六人の沙門が登場します。六師外道と云う。
その六人の名前と主張は、
1、プーラナ・カッサパ
無道徳論者。因果応報を否定し、善いことをしても悪いことをしても来世にその報いはないとする。
2、アジタ・ケーサカンパリン
唯物論者。人も世界も「地・水・火・風」の四元素で構成され、これのみが真実在とする。
だから、霊魂も善悪の報いも無く、宗教や道徳は無意味である。
死ねば四つの元素がそれぞれ他に移るだけで、人間そのものは無となり、死後には何も残らない。
3、パグダ・カッチャーヤナ
霊魂も物質とする唯物論者。人間も世界も、地・水・火・風・空・苦・楽・霊魂の7つの集合要素であり、物質ではない神は存在しない。
人を刃物で切っても、生命を奪うことは無く、刃のみが七要素を通過するだけ。
4、マッカリ・ゴーサーラ
運命論、決定論者。
生けるものの構成要素は、霊魂、地・水・火・風・空・得・失・苦・楽・生・死の12であり、
すべては運命によって決定されており、努力による救済など無く、人には意志も力も無い。
5、サンジャヤ・ペーラッティブッダ
不可知論者。人は知識によって真理に至ることができない、とする。
不可知論とは、
もし、あなたがあの世はあるのかと尋ねて、私がもしあの世があると答えたら、あの世はあると考えるだろうが、実際に私はそうはしないし、その通りだとも考えないし、別だとも考えない。
もし、あなたがあの世は無いのか、あの世はあってまた無いのか、あの世はあるものでもなく、無いものでもないのか、と尋ねても同じである。
という思想。 鰻論とも云う。
6、ニガンタ・ナータ・ブッダ
ジャイナ教祖。
森羅万象の一切に心と霊を認め、その心霊を支配しているのが自分の過去の行為(業)であるとする。
その業の輪廻から抜け出すために修行をする。
仏教と似ているけれど、違いは霊魂の常住を認めている点。
このうち、
4、マッカリ・ゴーサーラの運命論を、最も危険で下等な思想、と初期仏教では考えていました。
仏教の基本のひとつが不放逸。怠りなく修行をすること。
思い通りにならないこと(苦しみ)には原因があり、それを取り除けば苦しみから解放され、
その方法が修行であるから。
そしてあらゆるものは変化している。相互に依存して存在している。
だから、運命で決まっていることなど無く、結果は縁と条件で変わり、
修行と正しい生活によって変えることができる。それゆえに悟ることができる。
努力工夫によって幸せになることができる。どんなことでも可能性がある。
男女関係も災害も病も健康も幸不幸も、
運命では無く、遺伝も霊魂も前世来世も関係無い。
他のせいではなく、自分が作り出したもの。
現代には 、
阪神、横浜、広島、ヤクルト、中日、読売の六球団があり、
その中で読売は最も憎むべきものである、
というのが僕の思想。
そんなことを看板に掲げても関心を持たれないけれど、
神とは何か、人生とは何か
と話し始めれば、たちまち人が集まる、
というのがインド。
お釈迦さまの時代、古代インドで主流だった正統派バラモン教は、
霊魂の多様性を信じ、霊魂と物質とを区別して、現実の世界を実在としていました。
そして、世界の創造神・最高神としてブラフマンをたてます。
仏教は創造者を否定し、神を持たない人間中心主義なので、
バラモン教からは異端とされていました。異端の出家修行者を沙門と呼びます。
仏教以外にも異端の思想があり、それぞれ人気を集めていました。それらがまとまった形で書かれているのが『沙門果経』 。その中に六人の沙門が登場します。六師外道と云う。
その六人の名前と主張は、
1、プーラナ・カッサパ
無道徳論者。因果応報を否定し、善いことをしても悪いことをしても来世にその報いはないとする。
2、アジタ・ケーサカンパリン
唯物論者。人も世界も「地・水・火・風」の四元素で構成され、これのみが真実在とする。
だから、霊魂も善悪の報いも無く、宗教や道徳は無意味である。
死ねば四つの元素がそれぞれ他に移るだけで、人間そのものは無となり、死後には何も残らない。
3、パグダ・カッチャーヤナ
霊魂も物質とする唯物論者。人間も世界も、地・水・火・風・空・苦・楽・霊魂の7つの集合要素であり、物質ではない神は存在しない。
人を刃物で切っても、生命を奪うことは無く、刃のみが七要素を通過するだけ。
4、マッカリ・ゴーサーラ
運命論、決定論者。
生けるものの構成要素は、霊魂、地・水・火・風・空・得・失・苦・楽・生・死の12であり、
すべては運命によって決定されており、努力による救済など無く、人には意志も力も無い。
5、サンジャヤ・ペーラッティブッダ
不可知論者。人は知識によって真理に至ることができない、とする。
不可知論とは、
もし、あなたがあの世はあるのかと尋ねて、私がもしあの世があると答えたら、あの世はあると考えるだろうが、実際に私はそうはしないし、その通りだとも考えないし、別だとも考えない。
もし、あなたがあの世は無いのか、あの世はあってまた無いのか、あの世はあるものでもなく、無いものでもないのか、と尋ねても同じである。
という思想。 鰻論とも云う。
6、ニガンタ・ナータ・ブッダ
ジャイナ教祖。
森羅万象の一切に心と霊を認め、その心霊を支配しているのが自分の過去の行為(業)であるとする。
その業の輪廻から抜け出すために修行をする。
仏教と似ているけれど、違いは霊魂の常住を認めている点。
このうち、
4、マッカリ・ゴーサーラの運命論を、最も危険で下等な思想、と初期仏教では考えていました。
仏教の基本のひとつが不放逸。怠りなく修行をすること。
思い通りにならないこと(苦しみ)には原因があり、それを取り除けば苦しみから解放され、
その方法が修行であるから。
そしてあらゆるものは変化している。相互に依存して存在している。
だから、運命で決まっていることなど無く、結果は縁と条件で変わり、
修行と正しい生活によって変えることができる。それゆえに悟ることができる。
努力工夫によって幸せになることができる。どんなことでも可能性がある。
男女関係も災害も病も健康も幸不幸も、
運命では無く、遺伝も霊魂も前世来世も関係無い。
他のせいではなく、自分が作り出したもの。
現代には 、
阪神、横浜、広島、ヤクルト、中日、読売の六球団があり、
その中で読売は最も憎むべきものである、
というのが僕の思想。
僕は好き嫌いが多いですが、食べ物の相談を受けていると、食べてはいけないものを聞かれます。
そういうものは無いですね。
料理を教えて欲しいと頼まれてご自宅に伺い、
いろいろ作っていると、
台所にいる時間が長くなりますねえ、
と言われる。
簡単便利にさっと作りたいらしい。
勉強しないで合格したい、練習しないで試合に勝ちたい
と言われているようでちょっと困ります。
時間と手間がかからないものは身につかないし、
楽をすると失敗を生むのに。
『雑阿含』十七には、
一切有情は食によって存す
とあり、
『倶舎論』第十などには四食があります。
1、段食 香味触を体とし、鼻舌にして食す
2、触食 喜楽に触れて身を養う
3、思食 意識を体としてその境界にて希望の念を生じて身命を保つ
4、識職 心の水面の源底を本体として、よく有情の身命を支持する
初期仏教では、
食は生存の条件であり、新たに生まれる命の助けとなる
衆生を教化する為の食 必要以上の貪りをしない
という考えかたでした。
そして、
食べてはいけないものは『智度論』などに、
(1)方口食(方邪)
四方に奔走して国王などの使命を先方に通じ、巧言で相手を説くなどして、その功績で得た食のこと。
(2)維口食(維邪)
修行僧の本務を忘れて医術・占相などで得た食のこと。
(3)仰口食(仰邪)
占星術で吉凶禍福を説いて得た金銭や食料のこと。
(4)下口食(下邪)
耕田して五穀を作って得た食のこと。
よこしまな生活態度によって得た食はダメ、
ということですね。
僧侶の食は托鉢によるべきで、耕作などの生産的なことはしない、というのが修行僧の決まりだったので、(4)があります。
『倶舎論頌疏』には
人を益すること有れば皆食と名づく
とあり、
単に身体を養うだけではなく、座禅瞑想心静めによって喜楽すること
悟りを喜ぶ心を養う
も食である、ということ。
『雑阿含経十五』に
四食の故に未来世に生老病死憂悲悩苦が集まる
とあり、食事は煩悩の元であるとしますが、
それは座禅瞑想などの心を観察する修行によって滅します。
さらに、
『集異門足論第一』には
考えなしに食べ、食べねば力が出ぬとて食べ、おごりたかぶる心をおこすために食べ、顔色をよくし皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、世間の人にみめよしといわれんとして食べるもので、食の意味もわからず、ただ食べるだけの愚かな食べかた
を避け、
この身体を存在させ、飢渇を防ぎ、修行を摂受するために食事をとり、節食よりの苦を断じ、飽食より生じる苦を起こさず、飲食を如法に受け、身体を衰えないように、心に喜楽を受けるために、行動に差し支えないために、この身を保ち、修行に必要な限度に食事を摂ること
を選ぶべきとあります。
密教では、食事を煩悩とせず、
心中金剛界三十七尊に供養するため
食を肯定して無量の福と化す
(『栄厳阿闍梨』口伝)
という立場。
僕らは仏と同じで本来悟っているのだから、その仏に供養するために、幸せになるために食べる。
いずれにしても、
敬虔なる感謝をし、常に心に喜びを持ちながら作り、食べることを心がけるのがよろしい。
そういうものは無いですね。
料理を教えて欲しいと頼まれてご自宅に伺い、
いろいろ作っていると、
台所にいる時間が長くなりますねえ、
と言われる。
簡単便利にさっと作りたいらしい。
勉強しないで合格したい、練習しないで試合に勝ちたい
と言われているようでちょっと困ります。
時間と手間がかからないものは身につかないし、
楽をすると失敗を生むのに。
『雑阿含』十七には、
一切有情は食によって存す
とあり、
『倶舎論』第十などには四食があります。
1、段食 香味触を体とし、鼻舌にして食す
2、触食 喜楽に触れて身を養う
3、思食 意識を体としてその境界にて希望の念を生じて身命を保つ
4、識職 心の水面の源底を本体として、よく有情の身命を支持する
初期仏教では、
食は生存の条件であり、新たに生まれる命の助けとなる
衆生を教化する為の食 必要以上の貪りをしない
という考えかたでした。
そして、
食べてはいけないものは『智度論』などに、
(1)方口食(方邪)
四方に奔走して国王などの使命を先方に通じ、巧言で相手を説くなどして、その功績で得た食のこと。
(2)維口食(維邪)
修行僧の本務を忘れて医術・占相などで得た食のこと。
(3)仰口食(仰邪)
占星術で吉凶禍福を説いて得た金銭や食料のこと。
(4)下口食(下邪)
耕田して五穀を作って得た食のこと。
よこしまな生活態度によって得た食はダメ、
ということですね。
僧侶の食は托鉢によるべきで、耕作などの生産的なことはしない、というのが修行僧の決まりだったので、(4)があります。
『倶舎論頌疏』には
人を益すること有れば皆食と名づく
とあり、
単に身体を養うだけではなく、座禅瞑想心静めによって喜楽すること
悟りを喜ぶ心を養う
も食である、ということ。
『雑阿含経十五』に
四食の故に未来世に生老病死憂悲悩苦が集まる
とあり、食事は煩悩の元であるとしますが、
それは座禅瞑想などの心を観察する修行によって滅します。
さらに、
『集異門足論第一』には
考えなしに食べ、食べねば力が出ぬとて食べ、おごりたかぶる心をおこすために食べ、顔色をよくし皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、世間の人にみめよしといわれんとして食べるもので、食の意味もわからず、ただ食べるだけの愚かな食べかた
を避け、
この身体を存在させ、飢渇を防ぎ、修行を摂受するために食事をとり、節食よりの苦を断じ、飽食より生じる苦を起こさず、飲食を如法に受け、身体を衰えないように、心に喜楽を受けるために、行動に差し支えないために、この身を保ち、修行に必要な限度に食事を摂ること
を選ぶべきとあります。
密教では、食事を煩悩とせず、
心中金剛界三十七尊に供養するため
食を肯定して無量の福と化す
(『栄厳阿闍梨』口伝)
という立場。
僕らは仏と同じで本来悟っているのだから、その仏に供養するために、幸せになるために食べる。
いずれにしても、
敬虔なる感謝をし、常に心に喜びを持ちながら作り、食べることを心がけるのがよろしい。
昨日書いたように、
Ātman(アートマン)は元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり「自我」を現す代表的な語となりました。
仏教ではこの自我を否定します。アートマンは実在しない。
それが仏教であるかどうかは、無我であるかどうかですが、
「神」なども無我です。絶対的な神が存在するのではなく、
我々との関係の上にのみ存在する。
無我であれば、執着が消え、苦しみが無くなります。
「私」も何もかもは常に変化して、あれが欲しい、もっと欲しい、思い通りにならない私は過去の私。
「私」とは概念に過ぎないのです。
で、
呼吸を止めれば自我も無くなる。
肉体の束縛から離れ、心は開放されるけれど、それでは死んでしまう。
お釈迦さまは長い間の苦行を捨て、菩提樹下の瞑想によって悟りを開きますが、
その悟る前、最後の苦行が無息禅(阿含経によれば阿婆頗那迦三摩地)で、
これを境に、一切如来の真実に至る観法によって悟ります。
死ぬような呼吸停止ではなく、
呼吸を調えることにより自我の迷い煩悩を減らして、より良い希望に転換することはできます。
数十秒間呼吸を止めることで、副交感神経を刺激して、ストレスを開放できます。
呼吸の乱れは自我の混乱で、苦しみの原因。
呼吸を調えることが自我を調えることになり、
心は静になります。
Ātman(アートマン)は元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり「自我」を現す代表的な語となりました。
仏教ではこの自我を否定します。アートマンは実在しない。
それが仏教であるかどうかは、無我であるかどうかですが、
「神」なども無我です。絶対的な神が存在するのではなく、
我々との関係の上にのみ存在する。
無我であれば、執着が消え、苦しみが無くなります。
「私」も何もかもは常に変化して、あれが欲しい、もっと欲しい、思い通りにならない私は過去の私。
「私」とは概念に過ぎないのです。
で、
呼吸を止めれば自我も無くなる。
肉体の束縛から離れ、心は開放されるけれど、それでは死んでしまう。
お釈迦さまは長い間の苦行を捨て、菩提樹下の瞑想によって悟りを開きますが、
その悟る前、最後の苦行が無息禅(阿含経によれば阿婆頗那迦三摩地)で、
これを境に、一切如来の真実に至る観法によって悟ります。
死ぬような呼吸停止ではなく、
呼吸を調えることにより自我の迷い煩悩を減らして、より良い希望に転換することはできます。
数十秒間呼吸を止めることで、副交感神経を刺激して、ストレスを開放できます。
呼吸の乱れは自我の混乱で、苦しみの原因。
呼吸を調えることが自我を調えることになり、
心は静になります。
密教では、
・似ているものは同じものである
・すべての存在は如来の象徴である
という視点があります。
大日如来と僕は姿形が似ているから同じもの
あなたも似ているから大日であり、あなたと僕は同じである。
同じ価値がある、ということ。どんな人も同じ。
月は円満で清浄だから
蓮華は泥から生えて泥に染まらず鮮やかだから
大地はすべてのよりどころだから、
水は悩みの熱を冷ますから、
火は煩悩の薪を焼きつくすから
風は迷いの塵を吹き飛ばすから
大空は差別仕切りが無く、何にも染まらず、とらわれていないから
仏と同じ。仏(悟り)の象徴・シンボルです。
その仏と僕らは同じもの。
『解深密経』には、
心内影像と能縁の識は、唯識の原理において、似同的かつ同時的なので、両者は異ならない。
心が心をどうして観るのか、
ある心(法)が別のある心(法)を観るのではなく、
所縁の心と能縁の心が必ず似同的同時的に顕現する
とある。
「即身成仏の図式」(『仏教経典散策』「金剛頂経」)で津田真一博士は、
もし、個人的存在と究極的実在が相似であるなら、その両者は同一である
もしも個人存在が自らの構造を究極敵意実在のそれと相似的になるように再構築し得るなら、前者は自らを後者に合一させることができる。
と書いています。
具体的には曼荼羅仏像仏画、印真言、仏具、行為動作は、
仏と個人的存在との中間におかれ、両者を媒介する。
鏡に映ったものは、そのものと同じ
心に映ったものも同じ
心に映るものは、心が作ったものであり、
外界の事象も、心を離れてありえないから、心と異ならない。
心身は仏の住居なので、その姿がいろいろでも、みな同じもの。
骨も筋肉も血液もなにもかも、仏を構成しているものと同じだから、みな同じもの。
そもそも、骨も筋肉も血液もそのもの自体が仏なので、仏で僕らは作られている。
同じものだと知れば、差別は無くなり、穏やかな世界が表れるのだろうな。
___________________________________
『望診法講義録 人相遍』
http://
『望診法講義録 手相編』
http://
春は新しい芽が出て花開く季節だから縁起が良い。
大切な修法には、反物や美濃紙などを巻物にし、仏布施というお供えにします。
巻物は特別なもので縁起物
春巻きも春の縁起物
具にする春雨は、春の静かな雨のこと。
芭蕉『笈の小文』に
春雨の木下(こした)につたふ清水かな
がある。豆そうめんとも云う。

ノカンゾウはさっとゆでてパスタと酢味噌で調える。
菜の花は塩茹でして甘塩を振る。
春の陰性な苦味と酸味は、古い陽性を溶かして肝臓の滋養になります。
陰性なアルコールも砂糖も油も、たまっている間に陽性になります。
健康と知能のためにはヘモグロビンが必要で、
クロロフィル(青い野菜)と良い呼吸がヘモグロビン(赤い血)になる。
春の青菜の苦味辛味をどれだけたくさん食べるか、適切な呼吸をしているか、
それが初夏以降好調不調の差になるだろうな。
心身が好調なら縁起が良くなる。
大切な修法には、反物や美濃紙などを巻物にし、仏布施というお供えにします。
巻物は特別なもので縁起物
春巻きも春の縁起物
具にする春雨は、春の静かな雨のこと。
芭蕉『笈の小文』に
春雨の木下(こした)につたふ清水かな
がある。豆そうめんとも云う。
ノカンゾウはさっとゆでてパスタと酢味噌で調える。
菜の花は塩茹でして甘塩を振る。
春の陰性な苦味と酸味は、古い陽性を溶かして肝臓の滋養になります。
陰性なアルコールも砂糖も油も、たまっている間に陽性になります。
健康と知能のためにはヘモグロビンが必要で、
クロロフィル(青い野菜)と良い呼吸がヘモグロビン(赤い血)になる。
春の青菜の苦味辛味をどれだけたくさん食べるか、適切な呼吸をしているか、
それが初夏以降好調不調の差になるだろうな。
心身が好調なら縁起が良くなる。
本日、月例の不動明王護摩供修法いたしました。皆様も世界の平安をお祈りください。
さて、
Mサンは昨年、教会で洗礼をうけ、キリスト教徒になった。
6年前、震災原発事故で彼女の住まいも仕事も被害を受け、いろいろ苦労もしたようだけれど、
元々評判の良いお店で、再出発をしてからも人気があった。
明朗快活、聡明で才能ある女性で、
何よりタイガースファンだから信用できる。
何かの時に僕が、震災事故後の生きかたにおいて、宗教を持つことで良かったと感じることがある、というようなことを言ったようで、
それが信仰のきっかけになったらしい。
田中千秋先生は、
宗教を持つと持たないとでは人間の純度が違う。
持っていればだんだん混じり気がなくなる。
とおっしゃっていた。
本来、信仰は見返りを求めない。
内道を浄化するためのものだからである。
信仰が無くても道徳や倫理があり、心優しくして他の暮らしを助けることはできる。
でも、宗教は信仰によって人の魂を高めることができる。
小さな虫でも鳳凰の羽につかまれば、大空をどこまでも飛べるように、
非力な自分でも、信仰の力によって、分別を離れ執着と迷いの汚染が無い大きな心に住することができる。
仏教には、心を開放し、しあわせになるカリキュラムが数多くある。
お寺に来る人にそれらの修行を勧め、ともに拝み、
自他共に自覚の境界を味わえるようにしたいものである。
寺院は修行をする場所であり、
仏教はしあわせになるためのものだから。
修行の基本は、慈愛と自心の本源に坐ることである。
これは、かたちこそ違へ、どの宗教も同じであろう。
病人が医薬により安心し、
貧乏が金銭により安心するのは、
医薬金銭が病貧に有効であることを信じているからである。
信仰は、
目的とそこへ至る方法を信じることで、
その目的は転迷開悟、方法は日々の修法である。
さて、
Mサンは昨年、教会で洗礼をうけ、キリスト教徒になった。
6年前、震災原発事故で彼女の住まいも仕事も被害を受け、いろいろ苦労もしたようだけれど、
元々評判の良いお店で、再出発をしてからも人気があった。
明朗快活、聡明で才能ある女性で、
何よりタイガースファンだから信用できる。
何かの時に僕が、震災事故後の生きかたにおいて、宗教を持つことで良かったと感じることがある、というようなことを言ったようで、
それが信仰のきっかけになったらしい。
田中千秋先生は、
宗教を持つと持たないとでは人間の純度が違う。
持っていればだんだん混じり気がなくなる。
とおっしゃっていた。
本来、信仰は見返りを求めない。
内道を浄化するためのものだからである。
信仰が無くても道徳や倫理があり、心優しくして他の暮らしを助けることはできる。
でも、宗教は信仰によって人の魂を高めることができる。
小さな虫でも鳳凰の羽につかまれば、大空をどこまでも飛べるように、
非力な自分でも、信仰の力によって、分別を離れ執着と迷いの汚染が無い大きな心に住することができる。
仏教には、心を開放し、しあわせになるカリキュラムが数多くある。
お寺に来る人にそれらの修行を勧め、ともに拝み、
自他共に自覚の境界を味わえるようにしたいものである。
寺院は修行をする場所であり、
仏教はしあわせになるためのものだから。
修行の基本は、慈愛と自心の本源に坐ることである。
これは、かたちこそ違へ、どの宗教も同じであろう。
病人が医薬により安心し、
貧乏が金銭により安心するのは、
医薬金銭が病貧に有効であることを信じているからである。
信仰は、
目的とそこへ至る方法を信じることで、
その目的は転迷開悟、方法は日々の修法である。
心臓の食養について相談があり、セイタンの話をしたのですが、
セイタンは「マルシマ」という醤油屋さんが出している生麩(小麦グルテン)の佃煮。
岐阜の伊深時雨や、寺院が多い地域にも生麩の佃煮、時雨煮がありますが、
醤油以外の余計なものが入っているので、料理としてはおもしろいけれど、食養で使うには工夫が必要。
心臓を動かすには卵醤で良いのだけれど、アレは薬みたいなもので、料理なら苦味を使うか、セイタンが便利。
その他、骨のトラブルや貧血にも使える。
陰性な大豆を陽性な味噌や醤油にしたり、
陰性な梅の実で陽性な梅干を作るのと同じで、
陰性なグルテン(小麦と大豆ではちょっと違うけれど)が醤油と火(時間)で陽性になっている。
こういうところが料理のおもしろい点ですが、
元々が陰性なものなので、排毒の作用が期待できます。
塩のように陽性だけだと、締まりすぎて排毒できない。
セイタンの成分は
(100gあたり)
エネルギー 169kcal、 炭水化物 8.5g 、たんぱく質 28.6g 、ナトリウム 2800mg、
脂質 2.3g 、食塩相当 7.1g
単純にナトリウム量で比べると、
梅干は 8700㎎
麦味噌 4200㎎
豆味噌 4300㎎
梅干や味噌よりずいぶんと陰性。
材料としてはおもしろいし旨味も多いので、普段の料理でもいろいろ使うと便利です。
値段もそれほど高くない。

昨夜作ったのは八宝菜風。
セイタンの7倍量程度の野菜キノコを合わせれば、陰陽のバランスがよろしい。
セイタンは「マルシマ」という醤油屋さんが出している生麩(小麦グルテン)の佃煮。
岐阜の伊深時雨や、寺院が多い地域にも生麩の佃煮、時雨煮がありますが、
醤油以外の余計なものが入っているので、料理としてはおもしろいけれど、食養で使うには工夫が必要。
心臓を動かすには卵醤で良いのだけれど、アレは薬みたいなもので、料理なら苦味を使うか、セイタンが便利。
その他、骨のトラブルや貧血にも使える。
陰性な大豆を陽性な味噌や醤油にしたり、
陰性な梅の実で陽性な梅干を作るのと同じで、
陰性なグルテン(小麦と大豆ではちょっと違うけれど)が醤油と火(時間)で陽性になっている。
こういうところが料理のおもしろい点ですが、
元々が陰性なものなので、排毒の作用が期待できます。
塩のように陽性だけだと、締まりすぎて排毒できない。
セイタンの成分は
(100gあたり)
エネルギー 169kcal、 炭水化物 8.5g 、たんぱく質 28.6g 、ナトリウム 2800mg、
脂質 2.3g 、食塩相当 7.1g
単純にナトリウム量で比べると、
梅干は 8700㎎
麦味噌 4200㎎
豆味噌 4300㎎
梅干や味噌よりずいぶんと陰性。
材料としてはおもしろいし旨味も多いので、普段の料理でもいろいろ使うと便利です。
値段もそれほど高くない。
昨夜作ったのは八宝菜風。
セイタンの7倍量程度の野菜キノコを合わせれば、陰陽のバランスがよろしい。
キャンディーズが普通の女の子に戻り、成田空港が開港した1978年(昭和53年)、
高校3年生の僕は、夏休みを利用して南米ベネズエラに一人旅をした。
サンフランシスコまではパンナムのボーイング747SP
グアテマラで乗り換えてベネズエラのカラカスへ。
そこから車で数時間のマラカイという街で、
空手道場を開いていたワダさん宅に一ヶ月ほどお世話になった。
空手を習い、野球やバレーボールを観戦し、地下鉄や電車に乗り、カリブ海で泳いだ。
いちばんおいしかったのは安価なコンビーフ状のイグアナだったかな。

先日、郡山のてんぷら屋「奈良木」のカウンターで、うまいお酒と最高の天ぷらと最良の油消しで一献しながら大将と話したら、

その頃、私もカラカスで天ぷら揚げていましたよ
と言う。ワダさんもお仲間と来店していたらしい。
これにはおどろいた。
この年9月末、京都市電が全廃

これはその前年に撮った七条大橋辺り。
高校3年生の僕は、夏休みを利用して南米ベネズエラに一人旅をした。
サンフランシスコまではパンナムのボーイング747SP
グアテマラで乗り換えてベネズエラのカラカスへ。
そこから車で数時間のマラカイという街で、
空手道場を開いていたワダさん宅に一ヶ月ほどお世話になった。
空手を習い、野球やバレーボールを観戦し、地下鉄や電車に乗り、カリブ海で泳いだ。
いちばんおいしかったのは安価なコンビーフ状のイグアナだったかな。
先日、郡山のてんぷら屋「奈良木」のカウンターで、うまいお酒と最高の天ぷらと最良の油消しで一献しながら大将と話したら、
その頃、私もカラカスで天ぷら揚げていましたよ
と言う。ワダさんもお仲間と来店していたらしい。
これにはおどろいた。
この年9月末、京都市電が全廃
これはその前年に撮った七条大橋辺り。
朝の食卓、
まず味噌汁をちょっと口に入れると、
食道と胃が温まり動き出す。
みそ汁は胃液の分泌も促進する。だから、その後のごはんがうまくなるし、消化によろしい。
ひと口の味噌汁がその食事全体と内臓を調える。
胃は陰性な臓器だから、陽性なものに刺激されて陰性な胃液が分泌される。
具が野菜やキノコや海藻で、
塩気と火の陽性があるスープや汁物は腎臓の滋養になり、排毒が促され、血行も良くなる。
これは湯茶ジュース酒では望めない。
たったひとくちの味噌汁みたいに、
何かの役に立ちたいなあ。

セリと油揚げ

豆腐と大根

鉄砲ネギと豆腐
まず味噌汁をちょっと口に入れると、
食道と胃が温まり動き出す。
みそ汁は胃液の分泌も促進する。だから、その後のごはんがうまくなるし、消化によろしい。
ひと口の味噌汁がその食事全体と内臓を調える。
胃は陰性な臓器だから、陽性なものに刺激されて陰性な胃液が分泌される。
具が野菜やキノコや海藻で、
塩気と火の陽性があるスープや汁物は腎臓の滋養になり、排毒が促され、血行も良くなる。
これは湯茶ジュース酒では望めない。
たったひとくちの味噌汁みたいに、
何かの役に立ちたいなあ。
セリと油揚げ
豆腐と大根
鉄砲ネギと豆腐
次男と銭湯へ行った帰りにそう思いつき、
なじみの豆腐屋は既に閉まっていたので、
スーパーに寄っていちばん高い豆腐を買う。
豆腐も時間で味がずいぶんと変わる。
どんなに素材が良くて手をかけても、昨日の豆腐は味が落ちる。
水分が多いものはみなそうであり、野菜も水分が多い陰性なものほど新鮮さが命である。
みずみずしいものがあっという間に古くなるのは、こと食べ物の世界だけではない。
それはさておき、
帰宅したら豆腐をザルに揚げ、
水が切れたら、すりおろしたレンコンと浮き粉を混ぜ、
塩コショウで調えフライパンで焼く。
残った油で、台所にあるマイタケや芽キャベツを焼いて添える。
豆腐は元来が陰性だから、炒めて焦した陽性な野菜と合う

もう一品
豆腐を焦げるまで炒りつけて醤油を回しネギを振る。
これは僕のおつまみ。

豆腐は自由自在である。
なじみの豆腐屋は既に閉まっていたので、
スーパーに寄っていちばん高い豆腐を買う。
豆腐も時間で味がずいぶんと変わる。
どんなに素材が良くて手をかけても、昨日の豆腐は味が落ちる。
水分が多いものはみなそうであり、野菜も水分が多い陰性なものほど新鮮さが命である。
みずみずしいものがあっという間に古くなるのは、こと食べ物の世界だけではない。
それはさておき、
帰宅したら豆腐をザルに揚げ、
水が切れたら、すりおろしたレンコンと浮き粉を混ぜ、
塩コショウで調えフライパンで焼く。
残った油で、台所にあるマイタケや芽キャベツを焼いて添える。
豆腐は元来が陰性だから、炒めて焦した陽性な野菜と合う
もう一品
豆腐を焦げるまで炒りつけて醤油を回しネギを振る。
これは僕のおつまみ。
豆腐は自由自在である。
探しているものを見つけたとき、
「あっ」
と言う。
何かを思い出した時にも、
「あ、そうそう」
と最初に「あ」と言う。
見えた時、聞いた時、嗅いだ時、触った時、食べた時
五感に刺激があると「あ」と言う。
マッサージや指圧をしてもらう時は、
「あぁ」とか「あーっ」と口から漏れる。
『大日経疏』七に
「阿字はこれ一切教法の本なり。およそ最初に口を開く音に、みな阿の声あり
もし阿を離るれば、すなわち一切の言説なし、故に衆声の母となす」
とある。
「あ」から総ての音が生まれる。「あ」が無ければ何も無い。
「あ」は諸法の根源ということになる。
これを宗教では真如と云う。
宇宙とも大日如来とも心と云っても同じこと。
僕を分解してみると、
骨や筋肉や血液があり、それをさらに分析すればさまざまな元素に分けられる。
それをもっともっと細かく見てみると、最終的には何が見つかるのでしょうか。
それが「あ」なんですね。
それ以上分割できない全体性。
心も同じ。
根源とか源底とか、そこを観る。
そこを観ることは自心を知ること。
「あ」の声を聞くように、一切を見ること。
自然のままにあるがごとくに存在していることが真如
ということなのですが、
先日、運転中に尿意をもよおし、
泣きそうになりながらも我慢して、ついにトイレを見つけて入った。
用を足した途端、僕の口から、
「あー、、、」という音声が出て、幸せな気持ちになった。
「あっ」
と言う。
何かを思い出した時にも、
「あ、そうそう」
と最初に「あ」と言う。
見えた時、聞いた時、嗅いだ時、触った時、食べた時
五感に刺激があると「あ」と言う。
マッサージや指圧をしてもらう時は、
「あぁ」とか「あーっ」と口から漏れる。
『大日経疏』七に
「阿字はこれ一切教法の本なり。およそ最初に口を開く音に、みな阿の声あり
もし阿を離るれば、すなわち一切の言説なし、故に衆声の母となす」
とある。
「あ」から総ての音が生まれる。「あ」が無ければ何も無い。
「あ」は諸法の根源ということになる。
これを宗教では真如と云う。
宇宙とも大日如来とも心と云っても同じこと。
僕を分解してみると、
骨や筋肉や血液があり、それをさらに分析すればさまざまな元素に分けられる。
それをもっともっと細かく見てみると、最終的には何が見つかるのでしょうか。
それが「あ」なんですね。
それ以上分割できない全体性。
心も同じ。
根源とか源底とか、そこを観る。
そこを観ることは自心を知ること。
「あ」の声を聞くように、一切を見ること。
自然のままにあるがごとくに存在していることが真如
ということなのですが、
先日、運転中に尿意をもよおし、
泣きそうになりながらも我慢して、ついにトイレを見つけて入った。
用を足した途端、僕の口から、
「あー、、、」という音声が出て、幸せな気持ちになった。
何人かのご婦人から望診を頼まれて手相人相を観ましたが、
皆さん、手相の線の太さと長さを気にしているようでした。
線は陽性なら太く、陰性なら細い。
陽性なら短く、陰性なら長い。
陽性なら張りが大きく、陰性なら張りが無い。
もちろん、体調は毎日変わるので、陰陽も毎日違う。
僕が気にするのは色艶。
太く長くても、色が悪いなら体調も芳しくないでしょうね。これは顔色などと同じです。
自分の手相を、他人のそれと比べても意味はありません。皆、違うのだから。
手相に限らず、人生総てにおいてそうですが。
もし、意味がある比較なら、
昨日と比べて、どう違うか、というくらい。
または仏・覚者の手相と比べても良いかな。
仏の身体に備わっている特長に三十二相八十種好があります。
合わせて相好と云う。
相はサンスクリット語のラクシャナ、好は同じくアヌプヤンジャナの訳語。
特徴のこと。
手相では、
手と足に法輪の模様がある。
指が繊細で長い。
手足の指の間に水かきのようなものがある。
手足が柔らかく色が良い。
金色で輝いている。
皮膚が滑らかで柔らかい。
など。
手相のシマも気になるようですが、
線が分かれるのだから陰性ということ。
大きく分かれれば陰性が強い。
理論的なバックボーンがあれば、どんな説明でも納得でき、改善が希望なら方法を見つけられます。
でも、
噂話で不安になったり喜んだりするのは、ちょっともったいない。
望診も、
勉強実践し、知的バックグラウンドがあって、感想を言うのと、
勉強も実践もしないで想像したことを言うのでは、
ずいぶんと違う。
皆さん、手相の線の太さと長さを気にしているようでした。
線は陽性なら太く、陰性なら細い。
陽性なら短く、陰性なら長い。
陽性なら張りが大きく、陰性なら張りが無い。
もちろん、体調は毎日変わるので、陰陽も毎日違う。
僕が気にするのは色艶。
太く長くても、色が悪いなら体調も芳しくないでしょうね。これは顔色などと同じです。
自分の手相を、他人のそれと比べても意味はありません。皆、違うのだから。
手相に限らず、人生総てにおいてそうですが。
もし、意味がある比較なら、
昨日と比べて、どう違うか、というくらい。
または仏・覚者の手相と比べても良いかな。
仏の身体に備わっている特長に三十二相八十種好があります。
合わせて相好と云う。
相はサンスクリット語のラクシャナ、好は同じくアヌプヤンジャナの訳語。
特徴のこと。
手相では、
手と足に法輪の模様がある。
指が繊細で長い。
手足の指の間に水かきのようなものがある。
手足が柔らかく色が良い。
金色で輝いている。
皮膚が滑らかで柔らかい。
など。
手相のシマも気になるようですが、
線が分かれるのだから陰性ということ。
大きく分かれれば陰性が強い。
理論的なバックボーンがあれば、どんな説明でも納得でき、改善が希望なら方法を見つけられます。
でも、
噂話で不安になったり喜んだりするのは、ちょっともったいない。
望診も、
勉強実践し、知的バックグラウンドがあって、感想を言うのと、
勉強も実践もしないで想像したことを言うのでは、
ずいぶんと違う。

