一切の有情は食より生じ、生じた彼らはまた食によって生命を保ち、死後に再び食に帰入する
とあります。
初期仏典では、食物に対する厭想・不浄観の瞑想、つまり、食べ物や食べることは厭うべき汚れたことと観想しましたが、これは貪欲(むさぼりの心)を退治する方法のひとつでした。
密教では、
心の中に三十七尊(マンダラの中心仏)を観想し、その仏に食を供養し、仏から食を供養され、無量の福と化す
と観想します。
『釈氏要覧」には、修行者に食事が必要な理由が書かれています。それは、
1、食事は、飢餓の苦行をすることを否定するため
2、自己の細胞を生かして与えられた命を大切にするため
3、施主の功徳を受けるため
4、肉体四大を調えて仏道修行するため
そして、『蘇悉地経』には、
一日一食とせよ、むやみに断食すべからず、多食すべからず、全く少なくすべからず、食に疑いあればこれを食すべからず
とあります。
前回のページに書いた「五観」の中に、
心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』
とありますが、これは、
おいしいからと貪らず
まずいと言って怒らず
並みのものだからといって愚痴をこぼさない
という食事の姿勢。
また、「正食偈(しょうじきげ)」にあるように、
普段の食は肉体を長養し、坐禅瞑想などの修行そのものも食であり、それは悟りの智慧を養う、
という考えかたです。
坐禅瞑想して心が静かになる悦び
悟りの教えを聞いた喜び
これが、食事の喜びと同等であり、食事はそのためにある、悟りの境涯を育むために食を受ける、というのが食時作法の眼目です。
食べる時には心の中で『誓願偈』を唱えます。(ひと口目だけ)
為断一切悪 為修一切善
為度一切生 為回向仏道
ご飯をひと口入れて、
一切の悪を断つために、と思う。
ご飯をひと口入れて
一切の善を修するために、と思う。
ご飯をひと口入れて
全てのいのちを救うために、と思う。
お汁をひと口入れて
仏道に回向するために、と思う。
こうして食べることは、
戒律を守り(つまり悪しきことを断つ)、善きことに励み、他を助け救う
という大乗仏教の三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を実践することにつながります。
ところで、大食は四大不調の原因になりますが、『出曜経』九には、大食の五患が説かれています。
それは、
1、 大便しばしば
2、 小便しばしば
3、 睡眠多し
4、 身重く修行に堪えず
5、 患多く食消化せず
油という陰性なものが食事 に多い
この陰性同士が反発して排毒がうまくいかないため、頭痛などを引き起こすことがあります。
食養では、排毒されるべき酸化した血が脳へ上がったことが頭痛の原因と考えますが、
その酸化した血は、食べ物の他、ストレス、足の故障などから引き起こされます。
油と水は陰性同士で合わないから、野菜で溶かせばいい。
そして、
朝ごはんは比較的陰性にして、交感神経を刺激すれば、日中元気に過ごせます。朝から陽性はいけない。
昨日の朝は
大根おろしと梅干
なます
冷奴
こういうおかずの欠点は、
朝から一杯やりたくなっちゃうところです。熱燗でも冷やでもいいから。
体調崩しやすい時期ですが、皆さまお大事にお過ごしください。
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※「眞天庵仏教塾・密教塾」
13-1、食時作法 補足1: http://
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※『望診法講義録 手相編 附)六大陰陽五行色体表解説』
7月発刊予定。予約受付中です。どうぞ、お申込みください。
ご予約は、
1、送り先ご住所、お名前を下記へメールかFAXでお送りください。
2、先行予約価格 1冊 ¥1825(送料込)を下記の口座にお振込みください。
3、発刊次第、お送りします。
・改訂新版 望診法テキスト「宇宙を診る」第4版は ¥1705(¥1500+送料¥205)です。
○申込み先
眞天庵・穀菜食の舎 須永 晃仁
メール:sunagakounin@gmail.com
FAX: 0285-35-4901
○振込先
ゆうちょ銀行
通帳口座:記号 18200 番号 33643231
普通口座:店名 八二八(ハチニハチ) 口座番号 3364323
口座名 陰陽研究塾(インヨウケンキュウジュク)
高野山奥の院にご入定されます。
その後、お大師さんは弥勒菩薩とともにすべての人が悟りを開くまで修行をしている、
お大師さんは生きて僕らを救済してくれる、
という入定信仰が生まれます。
天長九年(832年)、お大師さんは万灯・万華会の願文に
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されました。
「生きとし生けるものすべてが悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」と。
今も奥の院では、毎日二回、お大師さんに食事のお膳を運び、
年に一回、法衣袈裟をお取換えする儀式が行われています。
死ではなく、生きたまま現世に生きる人々の救済にあたっている、という信仰。
これはミイラ(即身仏)とは違います。
禅定(瞑想)に入って世俗的なものを断ち切ることは、禅定の場、修禅の道場である高野山では当然の姿です。
密教の教えの中心的なものである「即身成仏」は
生きているうちに自分の中の仏性を開発する
生きている自分の中に、かけがえのない価値を見出して仏になる
ということで、
肉体を持ったまま死んでいる人、ではありません。
本来仏を自覚することです。
お大師さんの教え自体が生きていれば肉体は別問題で、ずっと生きています。
これは深信と言って、理屈ではありません。証拠のあるなしに関わらず信じること。
それに対して、理屈の上から納得しないと信仰に入ってゆけないことを信解と言います。
密教の瞑想は、
小宇宙(自分)がそのまま大宇宙である
大宇宙がそのまま小宇宙(自分)である
ということを観想し、その宇宙にあるすべての存在を育てて安楽を与える慈悲と、
迷いの闇を切り開く広大無辺な智慧を体得するものです。
そして、それは、
それ仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し
迷悟我にあれば発心すれば即ち到る
(『般若心経秘鍵』)
自分の中に見つけます。
その、見つけた所が即身成仏。
人はみな死にます。誰でも入定というわけにはいかない。
ですが、
死すべき身であることを知り、いのちを喜び、人に生まれたことの意味を問う。
それが 宗教的な人生です。
生まれてきたからには無意味ということはありません。
たとえ一日でも意味はある。生きてその意味を求めるのが求道。
もし、死んでしまったら、周りの人がそれを考えて生きる。
それが供養になります。
『秘蔵宝鑰』には、
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。
(迷いの世界に狂える人は、自分が狂っていることを知らない
事実を見ないものは、自分が何も見えていないということがわからない
生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない
死に死に死に死んで、死のおわりをしらない)
一切を慈しみ、幸せになるようにと祈り、
一切の有情非情はひとつのいのちをわけあっている
という平等観に座れば、すべての迷いが晴れます。
生きている意味を考えれば、
自分の運命がわかります。それは、何かが決まっていることではなく、工夫し開発すれば、弱点をより良いものへ運ぶことができるということ
です。
その中で日当たりに顔を出している手頃なものを採って、その場で皮をむく。
二の腕くらいの淡竹で、採りたてなら下処理は不要。
そのまま筍ご飯にしたり、大根と炊きます。
筍は速く伸びる、中が空洞など、陰性の力が強く、
梅は実の陰性を塩と時間と日光で陽性にしたもの。
筍はぐんぐん伸びるので排毒の力が強く、緩んだ身体を梅干しが引き締めます。
タケノコとワカメのように、同じ季節に出回る旬のもので、料理の相性が良いものを「出会いもの」と言います。
タケノコと梅干も出会いもの。
梅雨は酸味の季節ですが、特にタケノコご飯と梅干は合う。
これを焼いて肴にしてもいいし、揚げて出汁に浸すのもいい。
それはさておき、
ご祈祷を頼まれると紙札をお渡ししますが、印刷したお札に梵字とお名前を書きます。
お不動さんを表す梵字を書きますが、それを見たかたが
なんだかかっこいいねえ、
それ、あいうえお もあるの?
梵字と日本語では文字や言葉としての構造が違うのですが、僕らが練習する手鑒には五十字音も載っています。
じゃあ、アタシの名前も梵字で書いてよ
梵字は聖語で秘密語、
泳ぎを知らない子どもをいきなり深い広い海で泳がせると危険だから、少しづつ教えて、上手になったらだんだん大きなところで泳がせる。
というような感じで、梵字もオープンなものではないのですが、仏さまの象徴なので、そのご加護があるように、と書きます。
文字も言葉も出会いもの。
人と人
人と教え
の出会いはいつも旬
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当然のことですが、体格体質頭の中身、皆違います。
子らが小さいころ、
例えば長女が青白い顔をして震えていれば身体を温める、温めるものを飲ませる、
でも、元気いっぱいの長男長女にはそうしない。
同じように、
陽性な時には果物や水分の多いものを与え、
陰性な時には造血能力の高いものを作る。
いつでも3人同時に同じものでいい、というわけにはいかない。
体調もその日の調子もいろいろですから、臨機応変。
そのような時に、望診法というスキルがあれば、子の状態を診て、何をどうするかを判断できるので、とても便利。
どうぞ、みなさんも望診法を習得しましょう。
それはさておき、
車の運転中には米朝を聴いています。
落語「桃太郎」では、
お爺さんが山へ柴刈りに行くのは、父の恩は山よりも高いことを表し、
お婆さんが川へ洗濯へ行くのは、川は海の喩で、母の恩は海よりも深いことを表現している。
ちなみに、あの時代に
「洗濯」という言葉は無い。
明治以後の単語です。
きっと、川へ衣濯ぎ(きぬすすぎ)へ行ったのでしょうね。
さらに、
桃から生まれた、というのは「神様から授かった子」という意味。
鳴門長谷寺・祐信和尚によれば、
桃は昔から、邪気を払う、聖なる実と信じられてきました。黄泉から逃げるイザナギが、投げて追っ手たちを退散させたのが桃です。
中世の絵物語には、枕元に桃の実が置いてあったりします。
だから鬼退治は、梅太郎でも寿司太郎でもなく、桃太郎でなきゃいかんわけです。
http://
犬、猿、雉がお伴につくのは、
「犬は三日飼うと、その飼い主の恩を忘れん」という仁義に厚いこと
猿は「猿智恵」
キジはヘビに身体を巻きつかれても慌てず、巻くだけ巻かしといて、あとで弾き飛ばしてしまうと勇気のある鳥
この「仁・智・勇」という三つの徳を表わしている。
「鬼が島」というのは渡る世間。
苦労が多い世の中のこと。
キビ団子は、お米よりもずっと粗末なもので、「贅沢をしない」という教え。
苦労の多い世の中で、贅沢をせずに質素倹約し、「仁・智・勇」の徳を身につけ、一生懸命働いて、信頼や孝行、地位や名誉や財産などの宝物を手に入れる
桃太郎はそういうお話。
さて、次は何を聴こうかしら。
ちょっと調べものついでに、
| Na | K | Ca | P | Na:K | Ca:P |
大豆 | 1 | 1900 | 240 | 580 | 1:1900 | 1:2.4 |
豆乳 | 2 | 190 | 15 | 49 | 1:45 | 1:3.3 |
豆腐(もめん) | 13 | 140 | 120 | 110 | 1:11 | 1:0.9 |
油揚げ | 10 | 55 | 300 | 230 | 1:5.5 | 1:0.7 |
牛乳 | 41 | 150 | 110 | 93 | 1:3.7 | 1:0.8 |
ヨーグルト | 48 | 170 | 120 | 100 | 1:3.5 | 1:0.9 |
チーズ(エダム) | 780 | 65 | 660 | 470 | 1:0.1 | 1:0.7 |
真昆布 | 2800 | 6100 | 710 | 200 | 1:2.2 | 1:0.3 |
かつおぶし | 130 | 940 | 28 | 790 | 1:7.2 | 1:28 |
煮干 | 1700 | 1200 | 2200 | 1500 | 1:0.7 | 1:0.7 |
(単位㎎ 可食部100gあたり 文科省:食品成分データベースhttp://fooddb.mext.go.jp/)
Na:K =1:5~7
くらいが中庸です。
それよりNaが多いものを陽性、Kが多いものを陰性とします。
そして、
Caが多いものをアルカリ食品、Pが多いものを酸性食品と
食養では考えています。
牛乳や煮干しはカルシウムが多いけれどリンも多いですね。
さあ、どう考えましょうか。
大雑把には、
おおよそ動物性のものは比較的陽性
植物性のものは比較的陰性
といえます。
豆乳と牛乳では陰陽は反対の性質があり、共にアルカリ食品(ただし、脂肪の質を考えれば違う判断になります)
チーズはかなり陽性ですね。昆布は中庸。
牛乳と油揚げを比較するとおもしろい。表の成分以外に、牛乳には水分という陰性がかなりあります。
僕は、
カルシウム補給のためには牛乳より、油揚げと豆腐とわかめの味噌汁や
油揚げと青菜の煮びたしのほうが効果的である
と考えています。
もちろん、
味噌汁と牛乳
煮びたしと牛乳
などという組み合わせは下品。
ある食品の中で一つの成分だけを見て、それが有用かどうかを判断するのは全く意味がありません。
また、何と合わせて料理するかで効果は変わり、
煮る焼く揚げるなど料理法でも変化します。
何よりも、どのような体調の人が、どのような環境で、どんな心持で食べるのかが、味や滋養に影響します。
牛乳を飲む人と飲まない人では、脳にどれくらいの違いがあるのか。
牛乳を飲んでいる子のほうが、優秀で健康で朗らかなのか。
牛乳を給食で飲ませるべきと主張する立場の人は、
そうでない人より、健康で落ち着きがあり、心も安定しているのか。
そもそも、
おおぜいの子どもが同じものを同じ量で同じ時に食べている、
のが気持ち悪い。
いろいろなことが気になります。
これは『法華経』の「化城喩品偈」です。
願以此功徳(がんにしくどく)
普及於一切(ふぎゅうおいっさい)
我等與衆生(がとうよしゅじょう)
皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)
訓読すると、
願わくは、この功徳を以って
普く一切に及ぼし
我等と衆生と皆共に
仏道を成ぜんことを
仏教の基本は慈悲慈愛ですが、一切のものに慈悲をもって接するとき、
それは善行となり功徳が生まれます。
その功徳をめぐらして、他の人々の苦しみを抜き、楽を与えることを願う。
それが回向です
善行の功徳により、亡者の成仏を祈り、有縁無縁の人々の解脱(苦しみからの解放)を祈ります。
良いことをしたらご褒美がもらえる。
それを自分のものにしないで、他のみんなにあげる。
ということ。
自分と他人と、みんなが悟るために、功徳をめぐらす。
みんな一緒に、悟りの庭で優遊することを祈ります。
相手に尊敬の気持ちが無ければ、お供物を供えても供養にはならず
信仰や慈愛の気持ちや戒律が無いままに、ただ経を唱えても功徳は少ない。
仏法は心を調え、清めることが眼目ですが、
そのためにまず、身の回りを調えるのがいい。
読経や念誦は心浄を目指しますが、
その前に身浄という前提が功徳を倍増します。
身を調えないと、念誦は濁り乱れます。
精進潔斎作法具足の用心が、ほんものの読経や念誦を生み、
それが本物になってくると、僕らは不徳を離れ、功徳を積みます。
その功徳を、皆のものにしましょう。
先月30日は放火で止まり、
今月30日は僕が豊橋まで乗る予定。
お加持しよっと。
イタリアの前大統領はジョルジョ・ナポリターノ氏。
きっと
パスタ姫とペンネ王子とモッツァレラ伯爵もいるね。
と娘。
臣下には悪徳政治家ゴルゴンゾーラがいるわよ、きっと。
と妻が言う。
これはご馳走になったナポリタン
これは僕が作った夏のパスタ。
高校卒業後上京したら、
チャーハンやスパゲッティをおかずにご飯を食べるヤツがいて、
素晴らしいと思った。
さらに、
学食でナポリタンに牛乳をかけて、
これをクリームシチューと言うのだ。
という田舎者もいた。
密教行者が秘法を修する際に摂る飯を三白食と称し、『大宝楼閣経』や『十一面神呪心経』には、
粳米、乳、酪を混ぜたもの
とあります。
乳粥で有名なのは村長の娘・スジャータ
彼女は自分にふさわしい結婚をして男の子を産む、という秘めた願いがかなったので、上等の粥を作って神に捧げることにします。
まず一千頭の牝牛を選んで放牧し、その乳を五百頭の牝牛に飲ませ、次にその半数の牝牛を選んで乳を飲ませ、と次第に濃い乳を作り、
最後に十六頭の牝牛を選んで八頭の牝牛に飲ませます。
春の満月の日早朝、その乳で粥を煮ます。
乳は煮立つと泡が右にまわり、一滴も外にこぼれない、
というめでたい徴候を見せます。
お釈迦さまはその時、ニグローダの樹下に坐り、瞑想をしていました。
その身体からは光明が放たれ、樹全体が金色に輝いていました。
それを見たスジャータは、神が樹から降りてきていると思い、黄金の器に入れた乳粥をお釈迦さまにささげます。
それを受け取ったお釈迦さまは、ネーランジャラー河で水浴をして6年の苦行を終え、
その粥を召し上がってから、菩提の座につき、ブッダとなられました。
中学の同級生から、
飲み会をするから出ておいで。40年ぶりに会えるよ
とメール。
そういえば中学の時、弁当箱のご飯に牛乳をかけて食べているヤツもいた。
あいつもあの後、目覚めたのだろうな。
「悟り」そのものを身体としているのが大日如来である、
という言いかたをします。
また、
密教ではその悟りを「一切智々(いっさいちち)」とも言いますが、
それは、
完全な生きかた、よりよき人生の出発点は、悟りを求める心であり、
悟りを求める心を、他人を救おうとする行為によって育て、
悟りを求める心や他人を救う行為が、その人の生活そのものになった時、完成された境地が現れる
この究竟までに達した時、一切智々がわれわれのものになる。
と『大日経』に説かれています。
悟ったのちも、慈愛を持って常に他を救いたいと願い、行動する。
これが大日如来の境地です。
一切智々のはたらきによって、すべての人を差別することなく救う。
勿論それは僕らの心の中にあります。
「仏法遥かにあらず、己心を捨てていずくにか求めん」(般若心経秘鍵)
「自分の可能性を信じて修行すれば即身成仏できる」(大日経)
大日如来は風のように説法しているので、心の窓を開け、風を入れればいい。
戒めを護ろうとすれば、窓の鍵は開きます。
僕らは、生きるためにやむを得ず戒を犯しますが、
そのことを常に心に置き、
自分ひとりで生きているのではなく、他によって生かされて行かされていることを実感できるようにするのが宗教で、そのためには懺悔反省が必要になります。
一切智々は僕らの身体と心で表現されています。
僕らの肉体には骨や筋肉といった固いものがあり、
それは大地のように固く大きく、あらゆるものがそこから始まり成長し、帰ってきます。
そこから、
一切のものが生まれます。病気も健康も、幸せも不幸も、喜びも悲しみも、忍耐と恐怖も
他から来ることはありません。
だから、僕らのなかにあらゆるものの出発点と帰着点があります。
同じように、
僕らのなかにある、血や体液のような水分は、雨のようにすべてを潤して熱を取り去り、
呼吸などの、風のような流れは、迷いの塵を吹き飛ばします。
僕らの中にあるものをひとつづつ観察して、それがどこからきてどこへいくのか、どのように広がり、かつ縮むのか、それなどのような性質なのか
と考察することで一切智々に近づきます。
すべて挨拶はえぇ加減なものなんですなあ。
道で知ってる人とパッと出会う、
そういう時に、
「どちらへお出かけです?」
なんて言うのもえぇ加減、どこへ行こうと何の関係ない。ほっときゃえぇのに。
言われたほうも無責任なもんで
「へぇ、ちょっとそこまで」
と言う。
何や分からん、こんな「ちょっとそこまで」
こんな挨拶ないと思うんやけど、言われたほうがまたそれで納得して、
「あぁさよか、そらよろしい」て、
何がえぇねや分からん。
挨拶は仏教語です。
挨は軽く触れる
拶は強く触れる
ということで、もとは禅寺で行なわれていた問答のこと。
師が軽く問うのが「挨」。弟子が強く答えるのが「拶」
それにつけても、
挨も拶も挨拶以外には使わない漢字ですね。
若い坊さんが法会の後、諸先輩がたに、
ごくろうさまでした
と声をかけているのを聞いて、ずいぶん違和感を覚えました。
年上に、「ごくろうさま」と言うのは失礼。
お世話さまでした
くらいがいい。
○○させていただく
は最近ずいぶん使われる言葉ですが、
これは許可を取ったときの言いかたです。
そうでないときに使うのは慇懃無礼で気持ち悪い。
○○します
と普通に言えば良いのに。
料理で、
わざと焦がすのと、焦げてしまうのは全く違う
焦がすのは陽性にする、苦味を甘味に変える、などの技法。
出汁は煮立てると味が濁る。
煮立ててしまったらお金は取れない 。
米はさっと洗うだけで研がない。
研いで米が傷ついたらうまくない。
それは春までのことで、
初夏になって古くなったお米は香りも味も落ちるから、よく洗って研いだほうがうまい。
ひとつの知識に固執して、その理論的バックボーンを調べないと、つまり、なぜそうなのかを勉強しないと失敗することが多い。
世の中は無常だから、こちらも臨機応変に対応しないと、うまい人生にならない。
炒り玄米も湿気の多い今の時期は深く炒らないと滋養にならない。
それから、
梅雨時は乾物、粉物が傷む時期なので、早めに使い切りましょう。
____________________________________
2015年7月16日に衆議院を通過した「安全保障関連法案」について、
憲法と民主主義の精神を順守する立場から、また、仏教徒として、この法案に強く反対の意を表明いたします。
私どもは日々、自他の平安を祈念し、現世則密厳浄土となり、すべての人に悟りと幸せがもたらされるように、と願っております。
しかしながら、それらの願いを妨げ、愚かな戦争行為を可能とする憲法解釈や新しい法案が、「積極的平和主義」という言葉の下で進められようとしています。
『法句経』には次のようにあります。
「 ものごとは、心が先行し、心が最大の原因であり、心をもとに作りだされる。
もしも、けがれた心によって、話したり、行動するならば、苦しみがついてくる。
荷を運ぶ牛の足跡に車輪が従うように。」
「 ものごとは、心が先行し、心が最大の原因であり、心をもとに作りだされる。 もしも、清らか
な心によって、話したり、行動するならば、喜びがついてくる。 影が離れないように。」
「あの者は、私をののしった。私をなぐった。私に打ち勝った。私から奪った。」このように怨みをいだく者、かれらの怨みはしずまらない。」
「あの者は、私をののしった。私をなぐった。私に打ち勝った。私から奪った。」このような怨みをいだかない者、かれらの怨みはしずまる。」
「 まことに、怨みに怨みをもって報いるならば、この世においては、怨みのしずまることがない。しかし、怨まないことによって、怨みはしずまる。これは、いにしえより続く真理である。」
「 人々は知らない、争いによって破滅することを。この事を知るならば、争いはなくなるだろう。」
私は、仏教者として、ブッダの慈悲と智慧を学び修行するものとして、
平和憲法の精神を生かし守り、
武力に依らず、冷静な会話と互いの尊敬、高い精神文化と教養によって、世界の平安を実現させることを、
三権の長を始め、日本の代表者に求めます。
2015年7月18日
高野山真言宗 眞天庵 庵主 須永 晃仁
慈悲の甲冑をまとい身を護る。
身を護る秘訣は武器を持つことではなく、相手の敵愾心を失わせること。
そうすることで敵も味方にします。
そのためには、ただ大慈悲を心に湛える、慈悲の鎧を身にまとう。
慈悲に立ち向かう敵はいません。煩悩の敵も害心を失って味方に変わります。
その大慈悲の本質は、
自他が本来同一である、
という心。
お互い仏さまのいのちを分け合った兄弟姉妹のようなもの。
慈悲は世の中で最も強い力になります。
僕らはどこでも、護身法を結びます。
さて、
仙台から、仙石東北ラインのハイブリッド車両に乗って野蒜へ。
塩釜を過ぎたところに、東北本線から仙石線に渡り線を作り、直通運転しています。
線路の規格も電流電圧も、信号方式も違う線を結ぶのは素晴らしい。
栗橋でJRと東武がつながったのと同じくらい素晴らしい。
それはさておき、
内陸高台に移転した新しい野蒜駅。海側には昔の駅も保存されています。
http://
沿線は災害復興住宅の造成で重機がたくさん動いているけれど、果たしてどれくらいの効果があるのだろうか。人が帰ってくるのだろうか。
永良尼、夕慧尼と一緒にキジマさんの車で宮戸島へ。
キジマさんは元市役所職員で、今は震災復興、地域の復興に尽力しています。
http://
新しいお地蔵さんの開眼と物故者供養。
ここ潜ケ浦地区では地元住民5人を含む7人が亡くなりました。家は8世帯あったが、残ったのはキジマさん宅だけ。
この辺りは狭い運河や海道で区切られ、橋でつながっているのだけれど、あの日は地震で橋桁に段差ができて、立ち往生した車を津波が襲った。
鳴瀬川河口近くの元長音寺へ。
鳴瀬川河口の避難所には多くの人が避難して海を見ていた。
津波は後ろからやってきた。
東名の供養碑で読経。
このあたり、広大な土地に重機が入る。
居住禁止で農地にするらしい。
土地は国が買い取っているのだけれど、除草などの費用が毎年何億円もかかる。
これから農業はできるのだろうか。
野蒜小学校体育館跡地で読経。
周りには善意の植樹や花が植えられているけれど、植えた後の管理が大変。
根付くまで水をやり、草を刈り、花が終われば花壇を調える。
好意の後の管理は、小さくない問題です。
災害はいつくるかわかりません。
適切に冷静な行動ができるよう、準備をしておきましょう。
みっつの広大無辺なもの、
あらゆる存在はこの三つを持っています。
この三つがあるから存在している、ということ。
その三大は
体大
相大
用大。
体・相・用(たい・そう・ゆう)と言います。
体大は本体論。
相大は姿形、性能、性質
用大はその働き。
仏教では、
僕らの心の本体と性質と働きは広大無辺である、という立場です。
もう少し詳しく書くと、
僕らの心は
平等であり、生なく滅なく、増なく減なく、常にある、という体。
智慧と慈悲など一切の功徳が備わっている、という相。
善を行い、善の功徳を得て、修行して悟りを得る、という用。
密教では
僕らもその他も何でもかんでも、
地・水・火・風・空・識の六大で成り立ち、宇宙間に存在している。
これは普遍的なもので、六大が体大である。
その六大を通じて現れたものがマンダラという相(すがた)で、
色々な姿を持ち、
それぞれがそれぞれのシンボルや文字を持っています。
この、六大(本体)とマンダラ(姿)の上に起る働き・作用が三密。
用大です。
身密、口密、意密の三密によって、成仏する。
つまり、
僕らの本体は六大であり、
僕らの姿形は仏であり、その性能も仏であり、
僕らの働きは、自他を悟りに向わせ、幸せにすること
ところで、
亡くなった人はどこにいるのでしょうか。
仏壇の中
お墓
それとも遠い遠い極楽世界
故人の三大 も生きている人の三大も広大無辺
だから、
それを思う僕らの心が体であり、
神さまがどこにでもいるように、故人もどこにでもいます。
神様のイメージがあり、神さまという性質があるように、
故人のイメージと性質はどこにでも、あなたが思うところにあります。
おそらく、もっとも美しいところである自心にいるでしょう。
自分の思うところに亡くなった人はいる
それが生きかたになります。
月が多くの水面に映るように、
故人は多くの人や物に映ります。
夏は麦の季節
陽性毒の多い人は陰性な麦がいい。
麦は繊維が多く、粘着性が無いので胃のぜん動が正常になり、お通じによろしい。
押し麦は玉ねぎと炊くと、いろいろな料理に応用できます。
玉ねぎと押し麦を炊いて、炒めたナスとマーボー仕立て。
それはさておき、
歳をとると、どうでもいいなあ、と感じることが多くなり、それがそこそこの悟りだと思いますが、夏に暑いのもどうでも良いようになります。
暑いだけのことだから。
僕が「在る」ように、夏や暑さも「在る」だけだから。
人生の苦しみとは「思い通りにならないこと」ですが、
暑さが思い通りにならないと感じれば苦しみになり、
夏は暑いのである、という道理をわきまえていれば苦しみではなくなります。
まあ、苦しみと言うほどの事でもありませんが。
それに、
若い時よりも、いろいろなことに身体が追い付いていかないから、まあ、諦めます。
色々な先が見えてくるから諦めます。そうすると、楽になる。
お釈迦さまの悟りのひとつが諦観。
無執著、無分別になること。
あれやこれやと執着し、自他を分別し、
それを諦めないから苦しみがある。
それが無ければ平安解脱
その諦めかたにいろいろあります。
「諦観(たいかん)」は「つまびらかにみる」
ということですが、「明らかにする」ことです。
「諦」は、サンスクリット語・satya(サトヤ)の訳語で、意味は真理、道理。
ものごとの道理をわきまえることによって、思い通りにならない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考方法です。
お釈迦さまの最初期の説法に四諦があります。
この迷いの生存は苦である、という現状認識。
その苦は飽くなき欲望から生ずる、という原因究明。
その欲望を滅すれば、苦のない悟りであること。
そのためには正しい八つの方法に依るべきである、ということ。
苦しみの原因は自分の中にあるのですが、それを解決する方法として、
1、正見
上記の四諦を知ること。
2、正思惟
貪らない、怒らない、不満を言わない
3、正語
わるい嘘を言わない、二枚舌を使わない、悪口を言わない、きれいごとを言わない
4、正行
意味なく殺生しない、盗まない、邪淫しない
5、正命
規律正しく生活すること
6、正精進
淡々と励むこと
7、正念
冷静に観察して、事実とウワサを区別すること
8、正定
瞑想修行すること
どれかひとつでも、続けようとすれば大丈夫です。
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※穀菜食の舎会員ページ
「夏の排毒と夏の料理」
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「食育概論」
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『六大陰陽五行色体表解説』を載せています。
六大とは密教思想のひとつで、すべてのものを構成する地水火風空識の六要素(識以外を五大とします)
五行は木金火水土の五つの性質
それと
肝・心・脾・肺・腎の五臓
五方位、五味、五感、五色などとが照応している
という立場で書いています。
これらの関係はインドのヨーガや、中国の道教などが影響していますが、真言密教中興の祖である覚鑁上人が『五輪九字明秘密釈』に詳しく書いています。
拙著にあるように、五行はそれぞれ相性相克の性質がありますが、五行それぞれの気(エネルギーのようなもの)が陰陽の法則(広がる力と縮む力)によって五臓を作り、
五臓には感情や心が付随し、
それが眼、鼻、舌、耳、口によって五感として感じられ、外部と通じます。
僕らの五大(六大)が宇宙の五大(六大)と交感している
ということ。
そして、
五臓の疾病不調は五感の不具合に現れますが、
それを五味によって改善することもできますし、
五行の相生相克によって治すこともできます。
さらに、
内臓を観想することにより、その疾病トラブルを克服できます。
たとえば、
肺は金性であり、それは土性の脾臓から生まれたものです。
金性の辛味によって肺は癒されますが(肺も辛味も陰性)
金性の辛味が増えれば、木性の肝臓にストレスがかかります。
そのような時は肝臓へ、より陽性な心臓から気が流れるように瞑想します。
一般的には、ひとつひとつの内臓を観想するよりも、身体全体を五大(六大)に当てはめて観想することが主流ですが、いずれにしても瞑想によって内臓を安楽にすることができます。
五臓に対応する五大に、識大を加えた六大は仏の象徴です。 (識大を表現するものが五大)
僕もあなたも如来も、好きなもの嫌いなもの、どちらでもないものも六大を体としています。
そして、それ自体が、自他を幸せにする智慧と慈悲の働きを持っています。
宇宙に遍満するものすべて六大ですから、内臓を観察し瞑想することによって、自己と宇宙の、人と仏の合一を目指すことができます。
一般のかたもできる真言念誦や阿字観によっても、
心身の不調を治し、心を執着と差別から解放し、明るく楽しい日々にすることができるでしょう。
暑い日中は、
どうせ汗をかくのだから、涼んでいるより炎天下で動いて汗をかくほうが得である
と、何かをします。
で、水を浴びる。
夏、早朝の沐浴(水浴)は気分が良いものですが、
汗が流れてさっぱりし、清潔でよろしいばかりではなく、
水を浴びることで、副交感神経が優位になり、心身がアルカリ体質になり、欲望が制御され、邪念が流れます。
不平不満文句の多い人は水を浴びましょう。
夏休み、お子さんが旅に出ることもあるでしょうね。
良いことですが、心配な親御さんもいるでしょうね。
事故に遭わないだろうか。災害や事件は大丈夫だろうか。
食事はどうしているのだろうか。
感染症やらなんやらかやら、と。
旅に出したらお任せすればいい。
旅先で出会う人、そこにある自然の力
何よりも子どもの心身そのものにお任せする、
子の中には神さま仏さまがいるから
その神さま仏さまにお任せする
日々の生活で
ねえ、一寸これお願い
と誰かに頼まれると嬉しい。
頼まれれば、
さて、一丁やってやろうじゃないか
と、何かを任されるのはうれしい。
だから、神さま仏さまも、僕がお願いすれば喜んでくれるはず。
神仏に喜んでもらうことなんて、ずいぶんと功徳を積むことになりそうだ。
ありがとう
おいしいね
という言葉と共に
お任せする
というのは自他を幸せにする方法のひとつかもしれない。
近くで野菜の繊切り2袋 200円くらい
トマト3個 200円くらい
豆腐1丁 100円くらい
を買ってホテルのグラスが載っているトレーの上で混ぜ、
持参の醤油と塩をかけて朝のサラダ。
梅干しを1個入れた白湯を一杯飲み干してからこれを食べると、
大量の繊維がお腹を洗って、驚くほどのウンコが出ます。
野菜を繊切りにして料理したものは千草仕立て。
千草は元々色の名前で、緑がかった淡い青。
僕らの法衣には 萌黄、浅黄などきれいな名がありますが、本来僧侶が着すべき色は青・黒・木蘭の三如法色
青は銅の緑青で染めた色
黒は泥で染めた色
木蘭は木の皮で染める
このうち、木の皮で染めた黄色い袈裟が正式で如法
と僕は考えていますが、実際には正しい色と言うものは無い。
繊切りを 浮き実にした料理をジュリエンヌとも言う。
きゅうり山芋茗荷紫蘇を千切り、千草、ジュリエンヌにして小皿に盛れば涼しげでいい。
しいたけ出汁を濃く引いた味噌汁と一緒に夏の朝餉にいい。
月例護摩供を朝4時半から修法し、皆様の平安祈願をお祈りいたしましたのでご安心ください。
隣が森で庭木も多い田舎家に住んでいるので、当家は蜘蛛の巣が多い。
いぼ取りの良い薬になるけれど、毎朝玄関の掃除をする時に、張った蜘蛛の巣を取り除きます。
すると翌朝、全く同じところに網を貼っている。おそらく同じクモにちがいない。
向田邦子の「蜘蛛の巣」を思い出すけれど、僕が巣を壊すのは簡単でも、彼らがそれを再び張るのは命がけなのだろうな。
「者」のつく商売は難しい
とは落語のマクラでよくある話。
医者、易者、役者、芸者などは自分で自分の仕事に値打ちを持たせなければいけない
ということ。
例えば医者、
患者へ薬を出す時に、
「まーこんなもんたいした事おまへん、この薬でも飲んどきなはれ」
なんて軽く言われると、
患者さんは「このお医者さん大丈夫かいな? 医者変えんとあかんのんとちゃうやろか?」なんて思う。その薬だって飲まない。
ところが、
ちょっと勿体をつけて、
「いいですか、この薬はまだ臨床例はさほど無いのですけど、効くことはよく効く薬でっさかいに“必ず6時間毎”に水で服用してください!」
と大層に言っておくと、患者さんは、時計と睨めっこをして、時間通りきっかり
「さー飲めーっ」とばかりに薬を飲む。
こういう値打ちが出てくれば、薬も良く効く、と。
噺家も同じですな、
と米朝は言うけれど、坊さんや料理人も同じです。
インターネットがポピュラーになって、その値打ちというものが変わったように感じます。
自分のスキルを錯覚しやすくなる
ようやく泳げるようになったレベルなのに、大海へ出て行こうとする。
先徳を探して師事し、授業料を払って勉強し、それを実践して体得する
という手順を踏まない傾向が、僕にもある。
何を食べるか食べないか、
というのは、食に関心を持った人が最初に考えることですが、
勉強して経験が深まると、何を食べるかはそれほど問題ではなくなります。
多くの場合、量の概念が伴っていないから、食べる食べないが不安恐れの原因になるのかもしれない。
そもそも、
あれこれと区別する、分別する
そこからどちらかに執着が生まれ、苦しみが起こります。
何でもそれぞれに本分があり、
高級料亭とファミレスでも、どちらが良いということはなく、それぞれに本分があるだけ。
有機無農薬野菜と、そうでない野菜も、それぞれ本分がある。
蜘蛛と僕も
〇者もみんな
本分がある。
それを知ると知らざると、何ぞそれ遥かなる。
今日も暑くなりそうだね
と言いながら、朝ごはんと弁当を作り、
行ってきまーす、という子らの元気な声が聞こえ、
洗濯物が風にひるがえる
子どもたちの声は凱歌であり、風にひるがえる洗濯物は勝利の旗である
と『メルヘン誕生』(高島俊男著)にあるけれど、
特別ではない日々の生活が人生を作る
という当たり前のことが、おっさんになるとよくよく感じるものです。
今日は息子と棚経。僕の同級生宅で、彼の孫が可愛かった。
それはさておき、
小芋はサトイモのことで、親芋の周りのできる小さい芋。
この小芋のまわりに孫芋ができ、かように陰性な力で広がるので、サトイモパスターなどの陰性な手当てに使えます。
ジャガイモを掘って濡れ縁で干していますが、素人農園では小さな芋がたくさん採れます。
それを丁寧に洗って味噌で炊く。
陰性なジャガイモで身体を冷まして陽性毒を溶かし、味噌でお腹を温める、胃の滋養によろしい料理です。
これは水を使わずに仕上げるのが一番うまい。
水を入れたら芋の味が台無しになる。
親芋につく小芋はうまい
小芋につく孫芋もうまい
親芋の味はどうなのだろうか?
あんた、どこのだれ?
と参加者から聞かれ、
そうだなあ、何だか訳の分からない怪しいヤツだと思われてもしょうがないなあ
と思う。
先日、姪が
伯父さんは仕事しているの?
はいはい、しています。ここのところ頓に忙しい。
明日から長野のお寺でお盆
それが済んだら鳴門のお寺で棚経
帰宅したら関東で棚経と法事。
夏休みは、無い。
夏休みは無くても、夏の料理は作ります。
ししとうはごま油に合うけれど、醤油は火からおろしてかけたほうが、
ししとうの味が飛ばなくていい。
夏は酢飯
お稲荷さんは福や宝を包み込んでいるから縁起がいい。
かっぱ巻きはご飯を少なめにして、四角柱に巻くようにすればきれいに仕上がります。
かっぱ巻きは4等分に、かんぴょう巻きは6等分に切ります。
ひと口で食べるのがうまいか、そうでないかで、長さを決めます。
子どもが、お菓子や外食や添加物の多いものばかり食べたがって困る
なんて聞くことが多いけれど、
それらは陰性だから容易に排毒します。それほど心配はいらない。
ひとつかふたつの簡単な生活習慣があれば大丈夫。
それよりも陽性は排毒しづらいので、陰性なものが多い夏がチャンス。
陽性毒の多い人はあれこれと脱塩しましょう。
さて、本題。
朝寅の刻(午前3時から5時)は瞑想に適した時間ですが、日中の暑さでも、その気になれば精神集中できます。
瞑想に限らず、何かを求めて、そこへ向けてジャンプするためには、まず身体を調えるべきです。
身体を調えるのはふたつ
ひとつは肉体的なこと
おなかが痛い、頭痛がする、気持ち悪いでは面倒が多い。
食生活を調え、清潔で規則正しい生活にしましょう。
もう一つは心構え
不満を抱えたり不平疑い慢心を持ったまま瞑想しても効果は無い。
それらは執着分別の結果で、それがあると冷静に自心を観察することができないから。
修行によってトラブルを解決するのではなく、トラブルは解決してから修行に入らねば効果は期待できません。そのために戒律があります。
夏
例えばセミが鳴いている。うるさいくらいに。
それをセミの声と認識するのは法塵という煩悩です。
それが無くなるまで坐る
ただ呼吸するだけ。
その後
心を観察します 。
セミの声と認識している心を
セミがいて鳴いているだけ
自分は坐っているだけ
坐ってじっとしていても汗が流れます。
陰性なものがたまっている人は、額や頭から汗で排毒します。
陽性なものが多い人は背中や足から。
ただ、それだけのこと。
流れている汗は、いつか乾燥して消えます。
いずれ消えてしまうものを、実体があるようにあれこれと考える必要なありません。
汗は流れているだけ。
自分は坐っているだけ。
それを忘れた時・・・。