諸悪莫作(しょあくまくさ)
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうそい)
是諸仏教(ぜしょぶつきょう)
悪いことをしない
良いことをする
自分の心を清らかにする
これが諸仏の教えである
仏教とはそのようなものです。
自分の思うようにならないことが「苦」ですが、
生まれること
老いること
病気になること
死ぬこと
の四苦と、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と分かれること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(肉体と精神)が思うがままにならないこと
を合わせた八苦があり、
この苦しみからは正しい理解や洞察によって脱することが可能であるとし、それを悟りと言います。
そして、そのための修行方法があります。
そのことをお釈迦さまが会得しました。
苦しみ(思うようにならないこと)には原因がある、
そこから脱するためにはその原因を取り除けば良い、
そのためには正しい生活をすればよい
と。
これはお釈迦さまが発明したものではなく、お釈迦さまが修行の結果、体験的に得られたものですから、誰もが修行によって同じ境地に至る(ブッダになる)可能性があります。
そこが仏教の特徴です。
仏教では、救いは神のような超越的存在の力によるものではなく、個人の実践によるものと説きます。
お釈迦さまの実体験を根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それを実践することを勧めるのが仏教です。
苦悩は執着によって起きる。
それらは八正道を実践することによって解決に至る
という極めて実践的な教えです。
八正道とは、
1、正見
自己中心的な見かた偏見をしない。
2、正思
貧り、怒り、愚痴を捨てて、理論的に考える。
3、正語
嘘、二枚舌、悪口、飾り巧みな言葉を使わず、優しい言葉を使う。
4、正行
むやみな殺生、盗み、邪淫をせずに正しい行いをする。
5、正命
規則正しい生活と、他人の為になるような仕事をする。
6、正精進
自分と人のためになるような精進努力をする。
7、正念
心をいつも悟りの方向へ向け、正しく憶念する。
8、正定
静かに精神を統一して、冷静になる。
________________________________
【修行してみる】
○合掌
右手は仏、左手は我。
両手を合わせることで、仏と我が一つになるのが合掌です。
人の気は右手から出て左手で受けるので、合掌することで気が通って心が落ち着きます。
右から左へ力が伝わる、仏から我へ力が伝わる、と考えて良いでしょう。
聖と俗は同じもので、見かたの違い、ウラオモテの関係とも言えます。
姿勢を正し、合掌して目をとじ、
仏が我に入り、我が仏に入ると観想します。
右と左の区別が無くなるまで、両手があることを忘れるくらいまで、じっと合掌して坐ることで、心を探求する修行になります。
仏になること、悟りに達すること。
『大日経』に、悟りとは、
「実の如く自分の心を知ること」
とあり、
お大師さんの『御遺誡』には、
自分の心、仏の心、衆生の心
の三つが差別なく同じものと知ること
とあります。
仏教でよく使われる喩に
金と金で作られたものや、水と波
がありますが、仏・自分・衆生はそのような関係にあります。
人には生老病死と、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と分かれること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(肉体と精神)が思うがままにならないこと
の苦しみがありますが、その苦しみから脱することが解脱であり、悟りであり、仏教の目的とも言えます。
またそれは、
真理の法に目覚めること
とも表現されます。
後に書きますが、お釈迦さまが悟られた縁起の法や空を理解し、「私」や「モノ」など存在の分析を体得することにより、世界や宇宙のしくみ、ダイナミックな真理に目覚めることができれば、執着から離れることができ、苦しみの輪廻から解放されます。
さらには、
一切の衆生を救うこと
も仏教者の目的です。
仏教には自利と利他という言葉があり、
自分が悟って心が自由になる自利=仏の智慧を得ること
他人の心を自由にする利他=仏の慈悲を実践すること
があります。
慈悲は
苦しみを抜き、楽を与える
ことですが、これが衆生を救うことです。
身体を使う、お金を使う、笑顔を見せる
なども慈悲行ですが、
気の毒だなあ、悲しいだろうなあ、と共に苦しみ悲しむことが大きな慈悲につながります。
お大師さんの『三昧耶戒序』には、
苦しみを抜き楽を与えるには、まず苦しみの源を断つ必要がある。
苦しみの源を断つには、まず仏の教えを授けることである。
そのために小乗大乗各宗派など、その人の心に合った教えの入門先がある。
人々の宗教的資質はさまざまであるから、教えにも区別がある。
とあります。
悟りとは一般的に言えば「しあわせになること」であり、
それは人格の完成や転迷開悟であり、
仏(ブッダ)になることです。
________________________________
【修行してみる】
○ 立腰
正坐がもっともよろしいですが、足が思うようでないなら椅子でもある程度の効果はあります。
お尻を思いっきり後ろに突き出し、
反対に腰骨を前へ突き出す
そして、下腹部に力を入れ、肩の力を抜きます。
手は定印を結ぶか、親指を握って膝の上に置きます。
集中力、持続力がつき、内臓の働きが良くなり、精神のバランスが調います。
例えば、
般若心経は大乗仏教の最もポピュラーな経典ですが、顕教的な見かたと密教的な見かたがあります。
顕教と密教の区別は人にあります。
仏教は、誰かが神さまの声を聞いたり、啓示があったり、神秘的不可思議なことが起きて始まったものではありません。
お釈迦さまが瞑想修行して気がついたことが最初です。
結果には原因がある
あらゆるものは移り変わり、固定した実体はない
我とは執着であり、本来は無我である
など。
ですから仏教の教主はお釈迦さま、その悟られた内容が基本となっています。
その、悟ったお釈迦さま本人を頼りにするのか、悟った内容を頼りにするのか、
という議論が仏教にはありました。
悟りの内容を、お釈迦さま以外にも修行して得た人がいれば、その人も拝む対象なのか、なども。
密教は大日如来の教え、という立場です。
大日如来は、お釈迦さまが悟った内容を人格化したもの。
ですから、おおざっぱに言えば、
顕教はお釈迦さま、もしくは阿弥陀さまなど修行して悟りを得たかたの教え
密教は大日如来の教え
密教は大日如来が説いており、それを説く言葉が真言や陀羅尼です。
『大智度論』には、
仏法に二種ある。
ひとつには秘密、二つには顕示である。
それらは陀羅尼を説くかどうかで区別される。
とあります。
大日如来は宇宙に遍満し、永遠に光を放ち、真理を説いています。
花が咲き、鳥が鳴き、雨が降り、朝が来て夜が訪れる。
好きな人がいて嫌いな人がいる。そのどちらでもない人もいる。
それらすべてが大日如来の説法、つまり、心を知り迷いを取り除く方便であり、それに気がつくかどうかが、悟るか迷うかの違いです。
お大師さんの『弁顕密二経論』では、
1、顕教はお釈迦さまや、修行して仏になった阿弥陀さまなどの説法
密教は真理の法そのものである大日如来の教え
2、顕教は、悟りの世界は体験によってのみ知ることができる、とし、
密教では、悟りの世界を真言やマンダラ、印契、梵字などで表現説明できる、とする。
3、顕教では長い長い時間の修行によらなければ悟ることはできないが、
密教では、この身このままで今すぐ仏になる(即身成仏)と説く。
4、顕教で救われない人でも、密教では陀羅尼の功徳によって速やかに救われる
と、顕教と密教の区別を表しています。
密教は秘密の教えですが、その秘密とは、
受けとる側の素質が、その教えや行を受ける段階になっていないから、秘密になっている。
そこに到達してから教える、という秘密
万人に開かれているのだけれど、それを受け取る資質がないから秘密になっているようにみえる。
と言うことです。
まだ泳げない子にいきなりバタフライを教えても危険ですから、泳げるようになってから教える。
教えは広く公開されているのだけれど、ラジオが不良で受信できないように、こちらの状態が良くないから受け取れない。
ということです。
一度見たけれど覚えていない。
でも、二度目には感動した。
三度目に見た時には、より深くそれを理解するようになった。
などど、見る側の目が変化します。
一度聞いたことは忘れる。
二度目に聞いて記憶に残る。
三度目には、こちらの経験や知識も増えているから、より深く理解できるようになる。
など、こちらの耳も変わります。
ですから、段階を踏んで勉強し修行すれば、少しづつ秘密の扉が開かれます。
お釈迦さまが菩提樹の下で瞑想修行の末に悟られたことが出発点。
瞑想は坐って修する坐禅
立って行う立禅
歩く瞑想
などの他、
書く、食べる、読む、寝る
みな瞑想修行になります。
密教と顕教の違いのひとつに修行方法があります。
密教は後に書きます三密行を大切にしますが、
顕教で大切な実践項目が六波羅蜜(ろくはらみつ)の行。
般若心経にも出てくる波羅蜜多は、
パーリー語の Pāramī, パーラミー、サンスクリット語の, Pāramitā, パーラミターの音訳。
「到達」「完遂」「達成」という意味で、彼岸に到達すること、修行の完成を意味します。
その意味をとって「度」とも訳されます。
彼岸はさとりの理想世界のこと。
この行によって心の垢を払います。
本来悟っている、仏である自分の外側についたものを取り除く行。
六つある行は、
1、布施 :与えること。
具体的には、財施(お金やものなど)
無畏施(微笑みや手助けなど、安心を与え、不安や恐怖を取り除く)
法施(仏法について教える)
2、持戒:戒律を守ること。
3、忍辱(にんにく):耐え忍ぶこと。
4、精進:まじめに努力すること。淡々とずっと続けること。
5、禅定(ぜんじょう):特定の対象に心を集中して、心を静かにすること。
6、般若:智慧のこと=さとり。仏の智慧を得ること。
1、~5、は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜によって成就されます。
般若はサンスクリット語のプラジュニャー、またはプラークリット語 パンニャーの音写語。
悟りの真実の智慧、ということ。
具体的には、これも後に書きますが、縁起・空・無我などを体得すること。
大乗仏教では、
布施と持戒が「利他」:他人を利すること。
忍辱と精進が「自利」:自分の利益になること。
禅定と般若(智慧)が「解脱」:苦しみの連鎖から逃れること。
と考えます。
自利と利他は、仏教者の目的のひとつです。
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【修行してみる】
○ 呼吸法
呼吸法は数多くの種類がありますが、瞑想修行の準備運動です。
呼吸が調わないと、心も調いません。
そのトレーニングのひとつが数息観(すそくかん)
姿勢を正しくして坐り、
口を細く開けて息を糸のように吐きます。
吐くときに「1,2,3・・・・」と声を出さずに息の上に数字を載せるようなつもりで、数えながら息を吐きます。
10まで数えたら1に戻る。
吐き切ったら、息を大きく吸う。
これを繰り返します。そのうちに心が落ち着き、集中力が身に付きます。
その際、両掌を上に向けると、心がより落ち着きます。
また、座布団を頭の上に載せると、丹田に力がつきます。
慣れてきたら、数字だけではなく、口から出るすべての言葉を、息に載せるように吐いて呼吸します。
その言葉が口から出て、遠くまで届くように。
歩く時も呼吸法の練習ができます。
息を吐きながら5歩、続いて息を吸いながら3歩
と歩きます。
少しづつ長くして
息を吐きながら13歩、息を吸いながら11歩
などと、呼吸と足の動きを合せます。
最初は少ない数で、少しづつ増やすと良いでしょう。
奇数回で、吸うほうを短くするのがコツです。
戒定慧(かいじょうえ)の三つ。三学と言います。
戒は身と口と心の悪を止め、善を修すること。
定は禅定の定。心の離念をとりはらい、精神統一して仏の心に住すること。
慧は、迷いを破り、すべての真実なる姿を見極めること。
先ず基本は戒律。
これによって心を惑わす悪業から離れ、初めて心静かに修行することができます。
次に禅定。
坐禅瞑想の修行のこと。これによって心をコントロールます。
そうすることで仏の智慧を得て、心に平穏がもたらされます。
仏の智慧は、真実を正しく観察すること。
あらゆるものには実体はなく、縁と条件によって成り立っているに過ぎないものだから、そのようなものに執着しない、ということ。
簡単に言えば、
こだわらない、比べない、とらわれない。
乱暴に言えば、
何でも良い、どうでも良い、まあ、いいか、という境地。
仏教の聖典には、
・律蔵(戒律をまとめたもの)
・経蔵(お釈迦さまの説いた教えをまとめたもの)
・論蔵(教えについての註釈や解釈をまとめたもの)
の三蔵があり、この三つに通じている僧侶を三蔵法師と言いますが、
三学にあてはめると、
戒学は律蔵
定学は経蔵
慧学は論蔵
に相当します。
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【修行してみる】
○ 授戒
戒律には多くの種類がありますが、基本となるのが菩薩十善戒。
儀式としての授戒会に参加して、お授けを受けると良いですが、十善戒などの聖句をいつも唱えることで、心身にしみこませることができます。
〇懺悔文(さんげもん)
我昔所造諸悪業 (がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡 (かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこんかいさんげ)
我、昔より造るところの悪業は
みな貪りと怒りと愚癡によっている
身と口と心から生まれるそれらを
一切今、懺悔します。
〇十善戒
弟子某甲 尽未来際 (でしむこう じんみらいさい)
不殺生 (ふせっしょう)
不偸盗 (ふちゅうとう)
不邪淫 (ふじゃいん)
不妄語 (ふもうご)
不綺語 (ふきご)
不悪口 (ふあっく)
不両舌 (ふりょうぜつ)
不慳貪 (ふけんどん)
不瞋恚 (ふしんに)
不邪見 (ふじゃけん)
・次のようにも唱えます。
一つ、不殺生 いのち尊びてあわれみ深く、我はあたたかき人とならむ
一つ、不偸盗 与えられざるものを手にすることなく、我は人の幸をも楽しまむ
一つ、不邪淫 道ならざる愛欲をおかすことなく、我は正しき愛を守らむ
一つ、不妄語 言葉貴びて責任(つとめ)を乱さず、我は実語の人とならむ
一つ、不綺語 綺(かざ)り巧みて、つくろうことなく、我は素朴の人とならむ
一つ、不悪口 ののしりて人をあなどらず、我は愛語の人とならむ
一つ、不両舌 両舌(なかごと)して人の交わりを割かず、我は和合の人とならむ
一つ、不慳貪 ものをおしみて貪ることなく、我は施しを念う人とならむ
一つ、不瞋恚 瞋りにくらみて己を失わず、我は度量(ゆる)す人とならむ
一つ、不邪見 因果の法則を疑うことなく、我は黙々として善きに励まむ
〇発菩提心
おんぼうじ しった ぼだはだやみ
〇三昧耶戒
おん さんまや さとばん
以上ふたつは密教の戒律を表す真言で、
悟りを求める心を起し、
仏と自分が本質的に平等であり、
迷いと煩悩にそまる自分を仏の道へと目覚めさせ
迷いと煩悩を取り除く
という心を忘れないこと。
これらを唱えたなら、
心に慈悲の念を抱き、仏の智慧の象徴である白浄の満月が自心の内で輝いている、
と観想します。
信心とは「まじり気」の無い心、純粋で澄んだ心のことです。
そして、宗教は内面の浄化を目的としています。
ですから、信仰が深まれば、人は少しづつ折り目正しくなり、他の幸せを考える善い人になります。
善人の用心とは、
他を先とし、己を後にすること。
密教の三昧耶戒では
自分自身や自分の恩人を見ることと同じように、他人のことも見る
としています。
自分を見て自分を調える。
自分が自分が、という自分への執着を減らすことによって、他への気配りが拡大する。
というのが信仰の利点であります。
ある会合で、
ある人が僕を手招きして、
顔を近づけてささやきました。
あのな、私はお大師さんに会ったんじゃ。
でな、コレコレこういうことを言われたんじゃ。
と。
こういうことはあるんですよね。
お大師さんばかりでなく、お釈迦さまや、観音さまや、お不動さんに会う、
ということが。
お釈迦さまから始まった仏教は、その後いろいろと変化してきました。
お釈迦さまの言われたとおりにしようというグループや、
地域や時代によって変わっても良いのだ、とするグループができ、
お大師さんが唐から持ち帰った密教と、
その後の人たちが持ち帰ったものとは、唐での流行りが違うので、これまたちょっと違う密教になります。
でも、どれも目的は悟りであり、そのために修行をする、ということに変わりはありません。
たどり着くところは同じで、その行きかた、進みかた、手順は違っていますが、どれでも構わない。
お釈迦さまは2500年くらい前に、80年の生涯を送られた、とされています。場所は今のインド。
お釈迦さんはとても素晴らしい人でしたが、遠い昔で、遠い場所で、
僕らとはずいぶん隔たりがあります。
そんな中で、時間的空間的に限定されたお釈迦さまその人、ではなく、お釈迦さまが悟った内容を人格化するような動きがでてきました。
信仰の対象になると、その人は拡大解釈されて死なない、ということが多いです。
お釈迦さまも、お大師さんも。キリストの復活というのも、そういうことでしょうね。
お釈迦さまが、肉体を持つその人個人ではなく、時間や空間を超えて、僕らがいつでもどこでも会えるようになる。
阿弥陀さんやお薬師さんも同じように現れるのでしょうね。
仏さまにはいくつかの種類があります。仏身(ぶっしん)といいます。
顕教で分類しているのは三身(さんじん)。
1、法身(ほっしん)
宇宙の真理・真如そのもの、仏性。これは見えない聞こえない触れない、姿も無い。
2、報身(ほうじん)
仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。阿弥陀さんなどですね。
3、応身(おうじん)
この世において悟り、人々の前に現れる姿。お釈迦さまです。
密教では少し違った分類をします。
1、自性法身(じしょうほっしん)
この世にあるものすべてに象徴されるもの。心によって認識されるすべての作用であらわされるもの。宇宙の大生命それ自体を人格としている仏。
大日如来です。
2、受用法身(じゅゆうほっしん)
大日如来が相対的な世界に現れたもの。
曼荼羅の中央におわす、四仏四菩薩。
3、変化法身(へんげほっしん)
それぞれの素質傾向に応じて真理を説くもの。
例えばお釈迦さまやお地蔵さん。
4、等流法身(とうるほっしん)
真理を説いて聞かせる相手と同じ姿をとって現れる。
これはもう、ありとあらゆるものが仏ということ。動物も魔物も何でもかんでも。
仏さまの形をしていない仏。
密教では全部法身なんです。だから、見える聞こえる触ることもできる。姿形がある。
あたかも太陽の光によってあらゆる命がはぐくまれるように、法身の光は一切を照らし、衆生の善を生じる働きを開発しています。
こうした智慧の働きを慈悲と言います。
だから、世の中は、仏の自覚さえよみがえれば慈悲であふれ、平和になります。
そして、
一切のものがそれぞれに、それ自身と対峙することによって真理を説いています。
鳥の声も雨音も法身の説法なんです。
その法身の言葉が真言。
だから、僕らは真言を唱えて仏になろうとします。
そして、人はそれぞれの時期(自分の心の段階)において、それぞれの仏になります。
いたるところで法身が説法しているから、現世利益も加持祈祷も成り立ちます。
顕教では、
煩悩を滅して菩提(さとり)となる
としています。
密教は、
煩悩も菩提も同じもの、同じ心から作られているもの
とします。
僕らの心の中にある仏も、
時には地獄とか煩悩と呼ばれることにもなります。
どちらも物事の裏表に過ぎなくて、すべてはもともと満徳を円満している
というのが密教の立場。
僕らの心の中にはいくつもの対立があります。
原因と結果
迷いと悟り
天界と地獄
仏と我
好きと嫌い
これらの区別差別が無くなって、どちらもが同じと知れば、自在で堅固な心になり、一切の魔から離れることができます。
これらの区別差別が迷い苦しみの原因ですから。
人も動物も草木も何もかもが仏である
と多くの仏者が言いますが、
密教では、それらを構成している物質も仏と見ます。
僕を構成している元素も仏なんです。
だとすれば、
煩悩も菩提も仏であり、煩悩即菩提。
そのまま菩提なんです。
これは、放逸な生活の中では怠惰とわがままを許してしまいがちですから、心を調え、生活を正しくして、修行してこそ、そのまま仏です。
心を訓練すると、区別差別をしないで、ただ見るだけ、ということができるようになります。
月は悟りの象徴だけれど、そうすると月以外は汚れたものになりかねない。
だから、
ただ月をみる。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう) :すべてのものは常ではなく、変化している。
2、諸法無我(しょほうむが) :すべてのものは、実体がないものである。
3、一切皆苦(いっさいかいく) :すべての作られたものは、苦しみである。
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :涅槃は安らぎである。
このうち3、を除いたものを三法印と言います。
1、諸行無常
お釈迦さまの伝説で、四門出遊(しもんしゅつゆう)というお話があります。
釈迦族の王子さまだったお釈迦さまは、
ある日、お城の東門を出た時、年老いた人に出会い、自分もやがて年をとることを痛感します。
南の門を出た時には病人に出会い、病に苦しむ日が自分にもやがて来ることを思い、
西の門を出た時は死人を見て、自分にも必ず死が訪れることを知ります。
北門を出た時、出家修行者に出会い、その平安で静かな姿に感動します。
お釈迦さまは、人も時間も何もかもが常住ではなく変化していること、つまり無常を知ります。
いつまでも元気で健康でいるわけではない、いつか自分も死ぬ、と。
ですから、
今、この場所で、この身体で、同じ相手がいて、同じ気持ちで、ということは無いわけです。
でもしかし、
無常を知ることで、
今、この状態にこだわり、とらわれることに意味は無い、と理解します。無くなってしまうのだから。
そして、
変わってしまう毎日の自分なのだから、常により良くなるように努力精進しなくてはいけない。
『遺教経』には、
「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
とあります。
僕らはいつも「無常観」を持っています。
あの人はいなくなってしまった。
あの風景はもう見ることはできない。
その時代が懐かしい
などと。
私たちが見たり聞いたり感じたりするすべてのものは、縁と条件によってできたものです。
もしそれらが、変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになります。
みんな変化している。
空も海も、自分の身体も止まってはいない。成長するものもあれば、壊れていくものもあります。
電気も水も流れ、植物も少しづつ変化しています。
止まっているように見える石ころや紙きれも、少しづつ摩耗したり劣化しています。
心も同じく、好きが嫌いになったり、迷いが悟りにと変化しています。
無常ゆえに病気になったり老いたり死んだり、好きな人と別れたりという苦しみがありますが、無常ゆえの楽しみもあります。
子どもが生まれて成長するのも、お米や大根がおいしくなるのも、
僕の知識が少しづつ智慧になるのも、
諸行無常だからです。
2、諸法無我
あらゆるものが無常なら、あらゆるものは無我です。
変化しているなかで、変化しない自分や「我」など存在しません。
僕の中のどこに「我」があるのでしょうか。
分解してもどこにもない。
ただし、悟るのは、幸せになるのは、また他人を救うのは、身体がある自分ですから、この身体は大切にするべきです。
これこそが「自分だ」というものは存在しません。
だからこそ、
自分や我というのものは、世界や宇宙のすべてとつながった、壮大な錯覚なのです。
自分でないものも無我ですから、その間に仕切りや境目はありません。
3、涅槃寂静
涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ parinirvāṇa」の訳語で、火が吹き消された状態のこと。
苦の原因となる煩悩迷いが吹き消された状態=さとり のことです。
そこは静かで穏やか。真の楽があります。
無常と無我を知ることで、心は涅槃寂静になります。
4、一切皆苦
無常で無我なのに、「自分が」とか「自分の身体」とか「自分のもの」などと執着することから苦が生じます。
自分とか我はどこにもありません。
この執着の炎を吹き消せば、心の苦しみは解決できます。
病気でも死でも、好きな人との別れでも、欲しいものが手に入らなくても、無常無我を知れば、それを心が苦や楽として作り出さず、迷いから離れます。
精神的な「苦しみ」は、無常、無我、縁起という智慧の光によって姿を消します。
無常であり無我ですから、「苦」も実体が無いのです。心が作り出している概念にすぎません。
このように、
実際には無いものを有ると考えるのが、迷い・苦で、仏教ではそれを無明(むみょう)と言います。
___________________________________
【修行してみる】
○ 読経
人は心に思ったことを言葉にして、言葉にしたことを行動に移します。
この、身体、言葉、心を三業といい、仏のそれを三密といいます。
密教では、全ては仏を内在していますから、僕らの身体、言葉、心は三密です。
お経を唱える時、
数息観のように、長い息の上にお経の言葉を載せるつもりで唱えてみます。
息つぎに決まりありませんから、自分の息が続くように唱えます。
お経は節をつけず、雨だれのようなリズムで唱えます。
誰かと一緒に唱える時は、耳で唱えます。
気を配りながら一緒に唱える、ということ。
そして、暗記していても経本は手放さないで唱えます。
意味は文字から伝わります。
読経だけでも心が静かになり、功徳をつむことができます。
それは仏の言葉ですから。
貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言います。
大本は愚癡、すべてはここから生まれます。
この愚癡を無明(むみょう)ともいいます。
明るくないこと。迷いのこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態。
何も見えない暗闇に、灯明ひとつあればパッと明るくなり周囲が見えます。
同じように、無明の闇の中では真実が見えないので迷い、智慧の光があればすべてが見えます。
あらゆるの苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅します。
「我」というものが存在するという見解が無明。
智慧の光、つまり「我」などというものは実体が無い、と理解することで苦しみはたちまち姿を消します。
そして、「苦しみ」も何か実体を伴って存在しているわけではありません。
自分がそう持っているだけ、概念に過ぎない。
実際には無いもの(自分が脳の中で勝手に作り出して想像、錯覚しているもの)を有ると考えるのが無明です。
以前に書いた六波羅蜜の行
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は、
それによって煩悩をひとつづつ浄める行です。
布施によって貪りを、
忍辱によって怒りを、
智慧によって愚癡を、
というように。
時間をかけて三毒煩悩から離れようとします。
それに対して密教では、
煩悩即菩提
問題は自らの中にあるので、
智慧と慈悲は三毒を母体にして生じ、
三毒は進歩向上させる原動力
と考えます。
僕らは三毒具足しているけれど、本来清浄、仏性がある。
その本性の全能を信じ、その信を不動のものにしようとします。
六波羅蜜は煩悩をどうするか
ということが問題になりますが、
密教の三密行は本心の広大清浄にすわりつづけようとします。
そのままで、煩悩を生かして活用して仏になろうとする。
六波羅蜜は心の垢を払うために積み重ねていく行であり、
三密行は固有の宝を開顕する行です。
具体的には慈愛と三密行です。
慈愛には、
1、人の暮らしを助けると
2、人の魂を高め清めること
がありますが、重要なのは 2、です。
三密行は、
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の観念をこらす
仏の身体と同じく印を結び
仏の言葉である真言を唱え、
仏の境地を瞑想します。
そうして、本来清浄な心に座ろうとします。
人は何かをしようとする時、まず心にそれを思います。
そしてそれを口に出し、
口に出したことを行動に移します。
その、身体、言葉、心の三つを三業(さんごう)と言いますが、仏のそれは三密と言います 。
自分の三業を三密にします。
三密行は専門的で伝授やトレーニングが必要ですが、
もっとも簡単な方法は
仏前で合掌し、口で真言を唱え、心で仏の恩徳を思う、
という作法。
密教の三密行は、
僕らは元々悟り、完成している、無尽の財をもっているから、他人のために慈愛を行じ、
この身このままで今すぐに仏になろうとする行です。
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【修行してみる】
○写経
淡々と同じことを、あまり余計なことを考えずに、ただ続けることが精進です。
ただ書く、という写経は、心を調えることに役立ちます。
出来れば筆で、そして墨をすることから始めると良いでしょう。
墨をするという丁寧な作業は心がこもります。 それが精進です。
書く紙は市販の写経用紙でも、半紙でも構いません。
塗香があれば手に塗ります。紙が汚れず、手がサラサラになるので書きやすい。
香りで心も落ち着きます。
香を焚き、姿勢よく坐ります。
書写する経は般若心経がポピュラーですが、他にお好きなお経があればそれでもかまいません。
一度にすべて書く必要は無く、少しづつ書きましょう。
般若心経なら、
まず、お経を一巻、唱えます。
紙に向かい、経題の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と書きます。
次の行から一文字づつ書写します。
間違えたら、その文字に点を打ち、その下や横に書き直します。
ただ、ひたすらに書きます。何も考えないのが良い。
写し終わったら、一行あけて、日付。
次の行に願意を書きます。写経という修行を何のためにしたのか、ということを書きます。
家内安全、世界平和、何でも構いません。
特にわからなければ
「報恩感謝」が良いでしょう。
次の行の下方に名前を書きます。
書いた写経は巡礼遍路などで納めたり、有縁の寺に奉納します。
自宅の仏壇に納めてもよろしい。
たくさん書くほど、修行の効果があります。
仏教以外の宗教や哲学では、自我や神や永遠なる自己、というような実体があると説くものがありますが、仏教では自我という執着(これが苦しみの原因)から離れることを目的とします。
あらゆる存在は縁と条件によって生滅しているだけ。
「我」とか「私」は、
色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)が仮に集まってできたものに過ぎない、
というのが仏教の立場です。
色蘊(しきうん) - 肉体
受蘊(じゅうん) - 見る、聞くなどの感じること。
想蘊(そううん) - 見たものが何か、と思うこと、知識。
行蘊(ぎょううん) -~したい、などという意志
識蘊(しきうん) - おいしい、きれいなどと 認識すること。
これらが集まって仮に「私」というものがあるだけで、「私」そのものがどこかにあるのではありません。
このような無我を覚ることによって、煩悩(無明)を滅して涅槃(悟り、苦からの解脱)に至るこ
とが仏教の目的です。
さて、
お釈迦さまが亡くなってから、弟子たちがその教えをまとめた経典ができるようになりました。
亡くなられた直後なら、お釈迦さまから聞いた話の内容もはっきりしていましたが、100年後くらいから考えかたがいろいろと変わってきました。
また、お釈迦さまが説法した地も広いので、お話の内容も多岐にわたります。
その中で、
お釈迦さまの言われたことをガンコに守ろうとする派
時代や地域に合わせた形に替えようとする派
に分かれます。
前者は上座部(じょうざぶ)という、お釈迦さまの言われたことをきちんと守ろうとするグループ
後者は大衆部(だいしゅぶ)という、お釈迦さまの精神を守っていこうとするグループ。
この、上座部が所謂小乗仏教、大衆部が大乗仏教になります。
元々の思想の違いで二つにわかれたもので、小乗が大乗に変わる、ということではありません。
小乗の目的は阿羅漢(あらかん)になること。
供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるべき人、という意味です。
修行を積んで、供養を受ける人。聖者ですね。
大乗仏教の目的は菩薩 。
自分の悟りと、自分以外の人を救うこと(上求菩提下化衆生)を目指します。
小乗では、
声聞(しょうもん):お釈迦さまから教えを受けて実践修行する。
縁覚(えんがく):お釈迦さまの教えをヒントに、縁起を観察し、ひとりで真理を覚ろうと努力する。
大乗の菩薩は、
衆生を教化済度する、という修行を通して悟りを目指す。
ほかにも大乗と小乗ではいくつかの違いがあります。
まず、上記の無我について。
小乗は「自分」は無我であるが、「自分」という概念以外の身体やモノには実体があるとします。
「私」というものはどこにも実体がないけれど、「私の身体」は実体がある、という立場。
大乗は、「自分」も「自分以外のもの」も無我である、と説きます。
「私」も「私の身体」も、いろいろなものが縁と条件により寄り集まって構成された仮の姿でしかない、と。
よくよく探してみても、そんなものはどこにもない、と。
拝む対象も、
小乗は一般的にお釈迦さまに帰依し、
大乗では三世十方におわすあらゆる仏を拝みます。
大乗は戒の形式より精神を重んじ、大衆的在家仏教であり、
小乗は戒律主義、専門化して出家主義
という傾向があります。
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【修行してみる】
○歯を磨き顔を洗い目を洗う
仏教は心の浄化を目的としますが、そのために身体の浄化も必要です。
汚れた口で経や真言を唱えることもできますが、きれいにした口と比べて濁ったり乱れたりします。
・歯を磨いて口を漱いだら
清浄の口を得て、仏法を誦持せんと思う。
・顔を洗ったら、
清浄の法門を得て、長く汚れなきことを願う。
・目を洗い、
眼の病は治癒し、十方に仏を見る、と思う。
それぞれ、歯を磨く真言、顔を洗う真言、目を洗う真言がありますが、明師に従い教わってください。
お釈迦さまを供養する、
というのはお釈迦さまを尊敬する、ということ。
尊敬する人には、おもてなしをしたい、身辺のお手伝いをしたい、いろいろ教えてほしい、などと思います。
故人を供養する、
というのは、故人を尊敬の念をもって思い、習うべきところは習い、反省するべところは反省し、襟を正して生きていこうとすることです。
その姿勢が供養になります。
ですから、何をお供えしても、尊敬の気持ちが無ければ供養にはなりません。
ご本尊さんの供養は修法であり、瞑想修行のひとつです。
その供物をそろえるところから修行が始まります。
仏教には六種供養というものがあり、
六種の供養は、以前に書いた六波羅蜜の行になります。
1、お水やお茶を供える。
これは布施の心。水はすべてのいのちを育み、どんなところにも平等に流れる、思いやりの心を養うことになる。そう思い行動することが供養になります。
2、塗香
手や身体に塗る香は、持戒の心をあらわします。
香りが身体にしみこむように、戒律も身体にしみこむことで価値があります。
清らかにした手では悪いことができません。
同じように、清らかな心、清らかなことをしようと思えば、悪いことから自然と離れる、
というのが戒律です。
お金持ちになろうと思ったら無駄遣いをしないようになる。
ということと同じです。
3、花。
花を見ると心がなごみ、自然と微笑みます。これは忍辱の心。
耐え忍ぶことは、花を見て心が和むようなもの。
この和む心が供養となります。
4、線香を立てる。
これは精進の心。
線香に火をつけると、一直線に淡々と燃えます。急に燃えすぎたり、途中で止まったり横道にそれたりしない。それが精進です。
そうような心が供養になり、功徳になります。
5、ご飯を供える。
これは禅定の心。心を静かにすること。
お腹が空いてイライラしている時に、ご飯を食べるとホッとするように、冷静になって心に波が立たないようにする心が供養になります。
6、灯明(ローソク)を点じる。
これは智慧の心。
迷い苦しみ煩悩によって正しくものが見えないほど暗くなっている時に、
智慧があれば明るくなります。
灯明をつけて暗闇を照らすように、智慧を得て心に灯りをつけることが供養になります。
供物をそろえて心を豊かにし、心を調えることが供養になり、それを擦ることが修行です。
供物は心のシンボルです。
『宗秘論』には
供養は総てその報いを求めてはならない。
とあり、
密教では、仏と我と衆生とが平等である、と観想しながら拝むことが、最大の供養になるとします。
そして、
それが悟りへの道になります。
お釈迦さまのこと
阿弥陀さまや観音さまなど、いろいろな仏さまのこと
礼拝対象の仏像仏画
日本では亡くなったご遺体も仏と言います。
仏は正字が「佛」
サンスクリット語「ブッダ」仏陀の略。仏陀は「覚者」「悟った者」
如来とも言います。
仏(如来)になれるけれど、人々のの救済のためなど敢えてなろうとしない人を菩薩という、
という解釈がありますが、それはちょっと違う。
民俗学・柳田國男の説では、盆の精霊棚に飾るホトギに由来した言葉
としています。
諸仏は法身にして、ただ肉身にはあらざるなり
と『十住毘婆裟論』にあります。
仏は
肉体としての、見える形ではなく、真理として観ずる
ということ。
お釈迦さま亡き後、
そのお姿を像にするのは失礼になる、
と考え、仏像というものはしばらく作られませんでしたが、
西洋文化の流入、ガンダーラ文化の発展とともに仏像が作られます。
『観仏三昧海経』には、
仏滅後、現前する仏なければ、まさに仏像を観ずべし
如来の滅後、多くの衆生遇って仏を見ざるを持ってのゆえに、諸々の悪法をなす。
かくの如きの人、まさに像を観ずべし
もし像を観ずるものは、わが身(仏身)を観ずるに等しく
と、仏像を拝むことが主流になります。
仏の身体には、
仏足石に表されているように、足裏に輪形の相が現れている。
手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
直立したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
身体から後光を放つ。
眉間に右巻きの白毫がる
などの、三十二の大きな特徴と、
耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(福耳)
のどに3本のしわがある。
眉が長い。
鼻の穴が見えない。
などの細かい八十の特徴があるとされています。
http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/32so.html
『秘蔵記』には
初心者はその三十二相、八十種好をもって仏を念ずべし
中級者は法身(あらゆるものが仏の現れであるとする)をもって仏を念じる
上級者は、ありのままの姿(嫌いなものも厭うべきものも)を仏と念じ、貪りと執着を離れるべし
とあります。
密教では
仏は固定的静止的なものではなく、つねに一切を照らし、一切を生かし、一切を創造しつつある全一としての宇宙の生命体
と考えています。
そして、
真言などの文字、仏具などの象徴物、仏像仏画、山や川などのあらゆる存在
これらをすべて仏として、瞑想修行の本尊とします。
ですから、
ひとつとして仏でないものはない。
ですから、あらゆるものに供養します。
あるとあらゆる一切のものを仏とし、その仏に奉仕し、それを供養する心構えを持って、一切に処するとき、
世界は平安でみんなが悟りを得る曼荼羅世界になります。
世界は仏によって成立している。
人は身体の中に、本来清らかな仏たるべき性格をそなえている (『秘藏記』)
心が平静で正しければ、真理を見、仏さまを拝むことができる。鏡がすべてをありのままに写し出すようなものである。(『宗秘論』)
諸仏は宇宙そのものであるから、わが身はその中心にいるのであり、自分も宇宙そのものであるから、諸仏は我々の中におられるのである。(『理観啓白文』)
仏さまとは真理を悟ったかたをいい、衆生とはものの真相を知らぬもののことである。(『声字義』)
多くのものにとりかこまれて中央に仏さまがおられる。仏さまとはだれのことか、自分の本心の名である。(『慕仙詩』)
仏とは本より具わっている自分の心の徳である。(『中寿感興詩』)
悟りの究極を仏と云う 。(『入忌日料物願文』)
仏を求めるならば、自分自身の中に求むべきである。仏と自分と同体であるからである。 (『答求理趣釈経書』)
「原因に縁って結果が起きる」ということです。
お釈迦さまが、人生の苦しみをよくよく考えた時に、
「此れ(煩悩)があれば彼れ(苦しみ)があり、此れがなければ彼れがない、
此れが生ずれば彼れが生じ、此れが滅すれば彼れが滅す」
のように「煩悩」と「苦」の因果関係を説明したのが縁起の基本です。
その後、大乗仏教では、
目に見えるものも、見えない真実真理のようなものもすべて
相互依存性によって生じる、
という立場になります。
つまり、あらゆるものは(感情も意識も)何かに依存して起こる。
何にも依存しないで生じるものな無い。
「長いもの」は「短いもの」があるから存在し、
「種子」と「芽」、「悟り」と「迷い」も、
お互いに依存しあっている、どちらかのみ生じることは無い。
右があるから左があり、右だけでは存在しない。
この縁起、
時間的には
これ生ずるが故にかれ生ず
これ滅するが故にかれ滅す
と表され、
空間的論理的には
これあればかれあり
これなければかれなし
と表されます。
空の理論を大成した龍樹(ナーガールジュナ)は、
過去・現在・未来の時間や原因が結果を生むという因果性さえも、相依性(縁起)として解釈します。
過去に依存しなければ、現在と未来の成立することはあり得ない。
それ故に現在の時と未来の時とは自立的に存在しない。
過去がなければ現在や未来はなく、現在がなければ過去や未来もなく、未来がなければ過去や現在もない。
つまり、過去・現在・未来は相互依存している、
というわけです。
お釈迦さまのさとりとは、
この縁起の法則を知り、それによって無常、無我、空を体得したことです。
あるものが他のものとの関係において成立する
それ自体独立した性質のものとして存在しないのだから、それという実体は無い。
だって、それがなければ存在できないのだから。
あなたがあるから僕がいる
つまり、あなたがいなければ僕はいない。
ならば、僕というものは、あなた無しでは、僕一人だけでは存在しない。
また、 仏教には阿頼耶識縁起という思想もあります。
私たちは眼、耳、鼻、舌、皮膚によって、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を使い、見て、聞いて、嗅いで、触っていろいろなことを観じます。
それは意識を作り、また意識によって作られます。
その意識は自我によって生み出され(人によって見たものがきれいとかそうでもないとか違いますから、それを決めているのは自我です)
その自我は阿頼耶識から生みだされます。
そこは、全くフォーマットされていないDVDのようなもので、何かが入ってくるたびに録画録音され、何かの縁で再生されます。
焼き肉屋さんに入ると服が肉臭くなるように、五感が何かに触れるたびに、阿頼耶識には何かが香りづけられ、それがまた、何かの言動として生まれます。
その阿頼耶識が自我や意識を生み出し、それによって、見る聞くなどの感覚も生まれる
阿頼耶識の中に蓄えられているものが一切を生み出す。
阿頼耶識によってすべてのものが生み出される、という阿頼耶識縁起。
密教では
地 水 火 風 空 識の六大によってあらゆるものが生じたり滅したりすると考えています。
大はサンスクリット語マハーブータの訳語
粗大な原質、という意味です。
古代インドでは宇宙の構成要素として地 水 火を説き、
古典的インド唯物論では地水火風を説きました。
大乗仏教になると物質の場としての宇宙空間=空を加えて五大としました。
地大:大地のように固く、一切を生み出すもの
水大:水のように流れ、一切の熱悩を取り去るもの
火大:火のように明るさと熱があり、無知の煩悩迷いを焼くもの
風大:風のように吹き流れ、迷いの塵を吹き飛ばすもの
空大:空のように障りが無く広がり、一切の執着や差別から離れているもの
そして、それを悟るのが識大
この六つであらゆるものが作られています。
この六大は、たがいに入り混じって無礙、しかもつねに統一されています。
六大とは、物理的・生理的に把握されるものの本性であるのみならず、真実の世界における実体でもあります。
だから、
仏も我も、好きな人も嫌いな人も、魔物も怪物も、煩悩も悟りも、みな同じ六大から生まれる。
六大が無ければそれらも無い。
六大は、それらの中にあって、僕の中の六大と仏の六大は交流しています。あなたの六大と宇宙の六大も交流している。
呼吸の息や、そこに含まれる酸素や炭素と同じように。
野菜に含まれるナトリウムやカリウムと同じように。
故に、六大はすべてのものの本体。
どこにでもある。
だから、すべて平等、差別無し。
お彼岸でございます。
迷いのこちら側世界を此岸、悟りの岸を彼岸と言います。
般若心経にある「波羅蜜多(はらみた)」は到彼岸と訳され、私たちが修行して悟りの岸に到る、ということです。
お先にどうぞ、という気持ち
慈愛の行いをするよう心に戒めを持つ
いつも微笑んで耐え忍ぶ
淡々とやるべきことを繰り返す
心を静かにする
迷わないで、勉強して考える
というのが菩薩の修行です。
暑さ寒さも彼岸までと言うように、時候も変わるころです。
みなさま、どうぞお身体お大事にお過ごしください。
合掌。
例えば、
1、食欲と性欲だけの状態。自我にとらわれ、自分や自分のものにいつも執着している。
2、自分の食べ物持ち物を誰かに分けてあげるような、少しだけ道徳や倫理を知る心。
3、天国や神などを知り、現世で良いことをすればそういうところへ行けると信じ、戒めを護り、来世の安楽を願う心。
4、「自分」というものには実体がないことを悟る心。
5、全てのことには原因があり、縁と条件によって起きていると悟り、迷いを取り除く心。
6、縁にとらわれず、慈悲の心を全ての人に起こし、他を救おうとする心。
7、「自分のもの」というのも錯覚であり、自分の心に起こることも実体は無い、と悟る心。
8、人の本性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であると知る心。
9、あらゆるもの、あらゆる事象に中に、一切のものが含まれる、何もかもがお互いに関連し合って起きている、と悟る心。
10、自分の心の源底を知り、ありのままに自分の身体の数量を悟る心。
4~10は仏教各派における思想の違いですが、いずれにしても僕らの心にはいろいろな悟りと迷いが連続して生じており、固定した「これが僕の心だ」というものは無いんです。
そして、4~10の仏教的な心において最も大切なものが、「慈悲」と「心のトレーニング」です。
心のトレーニングにも多くの種類がありますが、基本は、
心を静かにすること。
その心に映るものを冷静に観察すること。
のふたつです。
もし、慈悲と心のトレーニングが無いと、1~3の心のままで、
自分の安らぎや満足のためには、自分の欲望(たとえそれが悟りや幸せでも)のためには、神を願いながら人を殺す、ということになりかねません。
他への慈しみと、自らの心をより高い境地へ引き上げようとする努力が無ければ、
妄想による存在が脳内に繰り広げられ、限りない要望が引き起こされます。
それが迷いになり、殺し合い、犯罪、邪心、自分勝手な神の世界を作ります。
ですから、慈愛の行いを心がけ、心をコントロールするようなトレーニングに励み、
妄想が引き起こす迷いの世界を消すことが、世界を平和にするための宗教的解決法です。
仏教では、
あらゆる存在は空(実体は無く、錯角、妄想、思い違い、自分の思う通りにしたいという欲望にすぎない)であり、執着するものは何もない
と考えています。
人を殺すのは怖れがあり、臆病だからです。ビクビクしているから攻撃する。
これは腎臓の弱り 、動物性蛋白質と化学的添加物・砂糖の過剰。
人を殺めるのは怒り、我慢できない心。我慢することができないから攻撃する。
これは肝臓の弱り、脂肪と化学物質の過剰。
ところで、
僕は19歳の時に足を悪くして、大学近くの三畳一間に間切り下宿していました。
当時70歳父方の祖母が、
一日おきに来てくれて、ご飯を作り掃除をして洗濯物を持って帰る。
翌々日にきれいな洗濯物を持って来て、またご飯を作ってくれる。
電車に乗って20分、駅から歩いて30分の道。
いつも作ってくれたのが、野菜を煮込んだ味噌汁で、最後に卵を一個落として、半煮えになったもの。
上級生になって、僕は母方祖父母の家に居候していました。
祖父はガンの闘病生活で、ビワの葉灸やら漢方やら。食事は玄米でした。
遅く起き出してくる僕のために、炊飯ジャーの中には玄米ご飯の片隅に、ひとり分の白米がありました。
味噌汁は、祖父の療養メニューなのか、小魚たくさん、ネギたくさん、季節の野菜もたくさん入った煮物。
それを、僕はおいしいとも言わず思わず食べたような気がする。
ここに、自他共に慈悲深く優しくなれる言葉があります。
おいしいね
と
ありがとう
さて、
仏教は修行の宗教であり、その修行方法には、
・ひとり静かに本尊を前にして瞑想する。
・普段の生活の中で、常に仏を見るようにする。
のふたつがあります。
仏教修行の基本は瞑想行ですが、これにも、
・堂内室内で仏さまとただ二人っきり。その仏を凝視して心を集中させるようなもの。
・世間のどこでも、いつでも仏をみるようにするもの 。
のふたつがあります。
ですから、
お仏壇の前や道場で、心静かにひとりで拝む
食事中、移動中、トレイ、お風呂、生活している時間いつでもどこでも拝む
というふたつを行うのがよろしい。
そのためにはまず、身の回りを調え、身体を調えるといい。
修行で目指すものは心浄ですが、それには身浄が前提です。
ですから、身の回り、食事などの生活を調えることはとても大切です。身体と心は一如ですから、身体を作る食べ物に工夫があるのは当然です。
泥棒をしながら拝むこともできますが、不徳から離れたほうが本物の祈りになります。そうでないと乱れ、濁る。
仏を含め、自然界のさまざまの力は、こちらが非力でも手を差し伸べてくれ、不心得な者も助けますが、
名医がいても養生すべく、仏の力が大きくても折り目正しく生きるべきです。
人には知ると知らざるとに関わらず、悩みや不幸が起こる必然が「生きる」ということの中に内在しています。
ですから、
その原因を自心を知ることでたどり、解決することができます。
『大日経』には 、
菩提心(迷いから目覚める心)を原因として
すべてに対する慈悲を根として
実際的な修行方法を以って、人間として果たすべき最高の行為とする。
とあります。
おなじく『大日経』第六受方便学處品には
父母妻子眷属に囲まれて、天人の妙楽を受けながら何らの支障も無く密教生活をする。
その時に直面することにはそれを生かし、それに取り巻く人と協力し、持ちつ持たれつ、よりかかり助けて、その場を生かして生活する。
と生活しながらの修行が書かれています。
眞天庵版「仏前勤行次第 仏さまの拝みかた(食時作法、初心者用瞑想法附」)
ホームページ:
http://
http://shintenan.hanagasumi.net/%E5%8B%A4%E8%A1%8C%E6%AC%A1%E7%AC%AC.pdf
に載せました。どうぞご利用ください。
本来仏である自分なのに、神仏は自分の心の中におわしますのに、
普段の自分は何と恥多きことであるか、清らかに生きることの何と難しいことか。
まずは懺悔してから始まります。
多くの宗派で、お勤めの最初に唱えるのが『華厳経』(普賢行願品)にある
「懺悔文」(真言宗では「さんげもん」と読みます)
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)[2]
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
和文にすると、
我れ昔より造る所のもろもろの悪業は
皆、無始の貪瞋癡(とんじんち)による、
身語意より生ずる所なり、
一切 我今、みな懺悔したてまつる
真言密教では覚鑁上人が著した『密厳院発露懺悔文』(みつごんいんほつろさんげもん)も唱えることが多い。
少し長いですが引きます。
「我等懺悔す 無始よりこのかた妄想にまとはれて衆罪を造る
身口意の業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す
珍財を慳悋して施を行ぜず
こころに任せて放逸にして戒を持せず
しばしば怒りを起して忍辱(にんにく)ならず
多く懈怠を生じて精進ならず
心意散乱して坐禅せず
実相に違背して慧を修せず
恒に是の如くの六度の行を退して 還って流転三途の業を作る
名を比丘に仮って伽藍を穢し
形を沙門に比して信施を受く
受くる所の戒品は忘れて持せず
学すべき律義は廃して好むこと無し
諸佛の厭悪したもう所を慚じず
菩薩の苦悩する所を畏れず
遊戯笑語して徒らに年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ)して空しく日を過ぐ
善友に随がはずして癡人に親しみ
善根を勤めずして悪行を営む
利養を得んと欲して自徳を讃じ
名聞を欲して他愚を誹る
勝徳の者を見ては嫉妬をいだき
卑賤の人を見ては驕慢を生じ
富饒の所を聞いては希望を起し
貧乏の類を聞いては常に厭離す
ことさらに殺し誤って殺す有情の命
あらわに取り密かに盗る他人の財
触れても触れずしても非梵行を犯す
口四意三 たがいに相続し
佛を観念する時は攀縁(へんねん)を発し
経を読誦する時は文句をあやまる
若し善根を作せば有相に住し 還って輪廻生死の因と成る
行住坐臥 知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪
今三宝に對して皆 発露し奉る
慈悲哀愍して消除せしめ賜え
ないし法界の諸の衆生 三業所作の此の如くの罪
我皆 相代って尽く懺悔し奉る
更に亦 その報いを受けしめざれ
以上。
仏法は心を調え、清め澄ましめることを眼目としますが、そのためにはまず身の回りを調え、また身を調えることがで大切です。
そして、心からの祈りを願う人にとり、戒律は戒法は大切なことです。
その、戒律戒めのまえに懺悔が必要です。
謝らなければ何事も始まらない。
ただし、恩師・田中先生は、
「あまり懺悔を重んじていると、本性の広大清浄尊厳を限定するような結果になるおそれがある」(『田中千秋著作講話集』真言密教の観行について)
とも言っています。
大乗仏教においては、
仏道:悟りを目指すものは、その願いを成就させるという誓いを立てます。
菩薩があらゆる存在を救う、願いと誓いを立て、その願いが叶うまでは自分が涅槃・悟りの静寂な世界には赴かない
というのが大乗の特徴です。
まず、悟りを求める心(菩提心)を発し、その次に誓願を立てますが、顕教と密教には少しの違いがあります。
顕教では「四弘誓願」(しぐせいがん)として
衆生は無辺なり誓願して度せん (すべての人を救うことを誓う)
煩悩は無尽なり誓願して断ぜん (すべての煩悩を断つことを誓う)
法門は無量なり誓願して学ばん (すべての教えを学ぶことを誓う)
仏道は無上なり誓願して証せん (仏道は無上だけれど、その道を成就することを誓う)
と唱えます。
密教では「五大願」を立てます。
衆生は無辺なり誓願して度せん (すべての人を救うことを誓う)
福智は無辺なり誓願して集めん (すべての智慧を集めることを誓う)
法門は無辺なり誓願して学ばん (すべての教えを学ぶことを誓う)
如来は無辺なり誓願して仕えん (すべての仏に仕えることを誓う)
菩提は無上なり誓願して証せん (悟りは無上だけれど、体得することを誓う)
顕経は、煩悩をひとつひとつ断じ尽して仏道成就しようする立場。
密教は、この世のものはすべて、煩悩でさえも存在の意義があり、みな福智の財産であり、
その煩悩を転換して、そのエネルギーを使って、悟りへと進む、という立場。
顕教は煩悩の現実に対して否定的であり、
密教は極めて肯定的
という特徴があります。
____________________________________
【修行してみる】
○礼拝行
懺悔文を唱えながら礼拝します。
最もていねいなのは五体投地。
1、直立して合掌
2、右ひざ、左ひざの順に折り、正座する
3、右ひじ、左ひじ、額の順に床につける
4、額、左ひじ、右ひじの順に本に戻し正座、合掌
5、左足、右足の順に伸ばして立ちあがる。
以上をワンセットにして、一礼一唱しながら、108回礼拝します。
毎日続け、1万回になるまで続けます。
五体投地ができない場合は、合掌して頭を垂れながら、懺悔文を唱え、1万回になるまで続けます。
三蔵とは仏典の総称で、
1、律蔵:規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
2、経蔵:お釈迦さまの説いた教えをまとめたもの
3、論蔵: 上記の注釈、解釈などを集めたもの
の三つがあり、その全てを修得した高僧が三蔵法師。玄奘さんの他にもいらっしゃいます。
ところで、
哲学などの学問は客観的なもので、
心とは何か
人生とは何か
などを思惟考察します。
宗教は主観的なもので 、
心を知るためにはどうするか
人生を理解するためにはどうするか
そしてどのように生きるかを実践する
ということです。
三蔵の内、
経と律は、「どうすべきか」という宗教的な部分であり、
論は 「それが何であるか」という理論的解答で、学問的なものです。
「どうすべきか」の主体は瞑想修行。
その内容は止観と言って、
1、心を止める(具体的には、ただ呼吸をするだけ)
2、その心に、観察したものを映し出す
その観察するべきものの代表が四諦、四つの真理。
1、人生には「思い通りにならない」という苦しみがあり
2、その苦しみには原因があり、
3、その原因を取り除けば苦しみは無くなり
4、その取り除く方法は八つの正しい生活法で、最も重要なのが、心の自在を得るための瞑想修行である。
ということ。
三蔵や四諦にある実践方法と解釈は、時代の変遷とともに変わりました。
仏教の中に、色々な考えかたや修行方法ができたのです。
いわゆる小乗仏教では存在の分析が徹底的に行われ、
大乗仏教では心と心の作用が説明されます。
3世紀ごろにまとめられた『華厳経』と
7~8世紀ごろに成立した『大日経』は
それまでの仏教が、此岸から彼岸を見て、つまり、迷いの俗世間の僕らから、悟りの聖なる仏の世界を見て、そちらに行くために六波羅蜜の修行をしながら煩悩を滅し、悟りに近づこうとしたのに対して、
彼岸から俗世間を、悟りの立場から迷いの立場を見ています。
ここへ来るにはどのような過程を通ったのか、を思い出す修行方法です。
彼方に清らかな世界を思いながら、
こちらの迷いの世界から、悟りの世界に届くように唱えるお経があり、
自分の内側から発せらて、自分を包むように唱えられる真言があります。
いずれにしても、仏教は悟りを目指しているのですが、その障害になる非仏教的な考えかたがあります。
『小マールキャ経』などに、
お釈迦さまが、弟子たちから聞かれても答えなかった十無記が書かれています。
無記は「どちらとも決めない」ということ。
それは、
(1)この世は永遠か
(2)この世は永遠でないか
(3)この世は有限か
(4)この世は無限か
(5)魂と身体は同じか
(6)魂と身体は別物か
(7)如来は死後存在しないか
(8)如来は死後存在するか
(9)如来は死後存在し、かつ存在しないのか
(10)如来は死後存在せず、かつしないでもないか
まとめて言えば、
○世界はどのようなものか
○霊魂と肉体の関係
○魂(霊魂)の存続
については答えない、意味が無い質問、という立場です。
このような具体的論理的に説明ができない問題は、悟り、修行、心の安定、煩悩の止滅にまったく役に立たないから、お釈迦さまは答えなかったのです。
どちらと答えても際限ない議論に陥る問題に関わることは修行者の利益にならない、ということ。問題自体がナンセンスだ、と。
中阿含経の巻六十には、
こういう問題に関わることは「智におもむかず、覚におもむかず、涅槃におもむかず」
とあります。
それよりも、
四諦のように、確かに利益のあることをお釈迦さまは説いたのです。
お釈迦さまは答えなかっただけですが、後に大乗仏教になると、
「空」と「縁起」という考えかたで、十無記がなぜ無意味で答える必要が無いかを論証しました。
「空」と「縁起」については、別に記します。
ネパールの地震による物故者の菩提と、不明者の御無事を祈念しております。
毎朝仏壇や神棚に手を合わせ、ご先祖さまの菩提と、自他の無事を祈る人は多いでしょう。
何よりも、
お先にどうぞ
と祈る。
そうして、自分の生活が始まる。
それが祈り、宗教の出発点であり、究極の姿でもあります。
不安な人が平安になるように、
心が安定するように拝む。
誰か縁者がしあわせになれば、何よりも自分の心が平和になる。
そういうものですから、毎日拝みます。
さて、
哲学や宗教では、
肉体と精神
モノと心
は別なものと考えるグループと、
それは一如である
と考えるグループがあります。
基本的に大乗仏教は同じものと考えており、
特に華厳の蓮華蔵世界と密教世界では、モノと心は同じレベル、これを色心不二と言います。
例えば、華厳経の世界を表している東大寺大仏殿や
今年開創1200年を迎えて記念法会が続く、密教世界を表現した高野山金剛峰寺の大塔や
金堂は、
仏の世界そのものであり、僕たちはそこにいるだけで、仏と一体になれるような工夫があります。
そこは現世が即ち浄土であり、今の姿形が即ち仏である、ということを示しています。
密教の三密行は、
自分の身体、言葉、心が、仏のそれらと同じである
と観想するトレーニング方法ですが、
それは、
自分はすでに仏である、仏と同じである、
という前提でなければ、その自覚が無ければできない修行方法です。
ですから、肉体と精神、モノと心、自分と仏は同じもの
と考えています。
大乗仏教では、
瞑想修行による自分の悟りと、他の救済を同時に目指します。
例えば、
仏像には、立像と坐像があり、
立像は、仏がこちらへ救済に来てくれるお姿。
坐像は坐禅瞑想する形です。
前者は利他を、後者は自利を表します。
また、
仏像が結ぶ手の形・印(いん)にも
坐禅するときにお腹の前に置く定印は瞑想の印
掌をこちらに向けて開いているのは来迎印という救済の形。
つまり、
仏が迎えに来る
という姿と、
我が仏をこの世へ迎える
という形があり、
それは固定したものではなく、僕らの心の状態によって変化します。
拝んでくれる人、気にかけてくれる人、宇宙自然の力
そういうものが我を助け、
自分が努力精進する力
それが自他を救う智慧と慈悲を自分の心に迎えます。
お経の百科事典である『大正新脩大蔵経』に収められているのは3,053部(11,970巻)
その中で、最もポピュラーなお経が般若心経でしょう。
葬儀や法事で、護摩祈願やご祈祷で、巡礼やお遍路の際にも、日常のお勤めでも、お唱えします。
このお経は三百文字に満たない短いもので、
大乗仏教の中心的思想のひとつ、「空」を説いた大般若経の精要を略出したもの
とされていますが、
密教では、
大般若菩薩の悟りの境地を表した真言を説いたもの
としています。
その真言が、経文の最後にある
掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶
(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
お大師さんは、『般若心経秘鍵』のなかで、
真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く
一字に千理を含み 即身に法如を証す
行行として円寂に至り 去去として原初に入る
三界は客舎のごとし 一心はこれ本居なり
(真言の意味を観想し、真言を唱えれば、迷いの闇が取り除かれる
真言の一文字に仏の真理が含まれ、それを知ればこの身このままで悟りを体現できる
全てのものは行き行きて死に至り、あらゆるものは去り去って墓場に入る
人の世は旅に宿る借りの姿、心こそ真のよりどころ)
と言っています。
また、
真理を悟るものは誰でもない自分自身である。
迷いも悟りもひとごとではない、自分自身の問題である。
世界は自分の心のありかたによって、たちまちにその姿を改めるものである。
酔っ払いが飲んでいない人を笑い、目覚めている人を眠っている人があざけるのは、何とも哀れで気の毒な事である。
名医はあらゆるものを薬として用いる。名工は宝石を見出す目を備える。薬が薬と知れず、宝石が宝石と知られないのは、それを見出す力を持っていないほうに罪がある。
教えの真の意味をくみ取るのは、人の教養学問人格である、言葉の表面の意味だけではない。
と、般若心経の内容を解説しています。
お経はその題に、その内容が凝縮されています。
般若心経のタイトルは
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)
お経はインドから中国に伝来して漢訳されますが、その時の訳者によって少しづつ違いがあり、仏説がつかないものもあります。
般若心経は、玄奘三蔵、法月三蔵の訳が著名ですが、お大師さんが釈したのは羅汁三蔵の訳とされています。
そのタイトルですが、
仏説 仏が説いた
摩訶 偉大な
般若 智慧(こだわらない、とらわれない、比べない、あきらめる)
波羅蜜多 しあわせの岸に渡る
心経 心の縦糸
という意味になります。
般若心経の冒頭は
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一苦厄
(観自在菩薩が、般若の智慧の完成に至る瞑想をしている時、あらゆるもの(五蘊)は空であると見通した。 すると身も心も空なのだと分かり、一切の苦しみが消えた)
五蘊(ごうん)とは、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)
・色蘊:姿形、「あなた」がいる。
・受蘊:感覚、「あなた」を見る。
・想蘊:知識、「あなた」を好きになる。
・行蘊:意志、「あなた」に近づきたいと思う。
・識蘊:認識、「あなた」が、○○な人だと知る。
ということ。
つまり、身体と四つの心の働き
それらは何の気なしに変化する、実に不安定なものです。だから執着しないほうが楽。
そして最後に
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
(これは大いなる智慧の真言、無常なる真言、並ぶべきもののない真言であり、一切の苦しみを除く空しからざる言葉)
ということです。
般若心経は「空」を説いている、とされるその空とは、
何を見る時でも、その本質を見る、ということはなく、先入観や色メガネで見ています。
純粋にそれを観る、ただ見る、ということはしないものです。
そして、勝手な思い、例えば、見たものを「かわいい」「汚い」「好き」「嫌い」だと思考します。
それは普遍的真実ではなく、自分の妄想です。
その妄想は苦しみ・迷いの根源となります。
何かを見ているその何かは
他のものを原因としてある条件のもとで結果として存在しているので、
固定しておらず、移ろいゆくものです。
幻のようなもの。
それ自体の固有なものはない。それを空と言います。
恒常不変な「私」は無く、五蘊が仮に合わさったもので、実体はない。
ということ。
そういうものに執着するのは意味がない、実体が無いのだから。
幽霊に恋をしているようなものです。
ですから、
諦めて、とらわれないで、魂を解放しましょう
というのが空の考えかたです。
________________________________
【修行してみる】
般若心経を唱える時は
仏壇やお寺の本尊の前で、身支度を整え、姿勢を正し、呼吸を調え、心静かに唱えます。
そのように、心を集中してひとりで唱えることは大切ですが、
それとともに、いつでもどこでも世界中宇宙中に広がるように唱えることも意味があります。
仏に、誰かに、誰にでも届くように、この真言の功徳が行きわたるように唱えます。
お風呂に入りながら、歩きながら、トイレでも布団の中でも、ただ唱えます。
何も考える必要はなく、何か考えてもよろしい。ただ唱えます。
唱えた経文や真言に自分が包まれるように。
世界中がそれにつつまれるように。
そして、
世話になったひとりひとりを心に浮かべ、その人たちが悟りを開くように、幸せになるように唱えます。
特別な時と、特別ではない時、両方唱えます。
菩提、成道、涅槃と同義で、人格の完成と言う人も多い。
その境地を般若心経では「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」とあります。
具体的には、
真理(法)に目覚めること、迷いからの解脱
縁起の法則を体得すること
ですが、この悟りの主体は智慧です。
智慧はまず、縁起の法則を知ること。
好き嫌い、良い悪いなどの分別の心が苦しみをもたらします。
それは、思い通りにならない、ことです。
好きなことができなくて、嫌いなことがふりかかる
良いことが現れなくて、悪いことが起きる
そこで、
四つの諦めること(四諦)が智慧であると、仏教では考えます。
病、老い、死などの、思い通りにならない苦しみには原因があり、その原因を取り除けば苦しみから解放され、その方法は、正しい生活や心の制御である、
ということ。
「自分の思い通りにならない」という苦しみは執着からも引き起こされます。
ですから、修行によってそれを諦めればいい。
比べない
とらわれない
こだわらない
どうでもいいか、
まあ、いいか
というのが悟りの入り口。
そうすると、
苦しいけれど苦しいだけこと
と思えるようになります。
練習して勉強すれば好ましい結果があるけれど、
それをしなければ、それまでのこと。
あきらめるという「諦観」は、
「あきらかに見る」
ということです。
因果の道理をあきらかにみる
悪い状態になった時、
自分がこんな結果を受けたのは、一体どこに原因があったのか。
それを明らかに観ます。心を観察する。
そして、懺悔反省、より良い誓願を持てばいい。
密教では悟りを、
実の如く自分の心を知ること
としています。
悟りは自分の心にのみ求める。よそには無い。
よくよく自分の心を観察していれば、発心した時に悟りが訪れます。
そして、
心と虚空と悟りは同じ、という立場です。
『大日経』には
虚空は過もなく徳もない。
心も、一切の過を離れて万徳を成就している。
虚空は畢竟浄である
無辺際である
無分別である
虚空は種々の顕形色の相を離れて、造作することもないが、よく万象を含容し、一切の草木有情
はこれによって成長し活動することができる。悟りである心もまた同様
これにはまず、自分の中に悟りがある、という前提を信じることが必要です。
衆生が仏になるのではなく、僕らは元々仏であるのに、それを忘れている、ということを信じる
のが菩提心であり、悟りそのものです。
宝の蔵の中には宝物がある
鉱石の中にはダイヤの原石が含まれているから、製錬して磨けば宝石となる
ということを信じることが悟りの入り口。
その信じる心=悟り
を表現したものが地・水・火・風・空の五大です。
大地の如く、
心は大慈悲の種子が出生するところであり、あらゆる事業のよりどころ
迷いでも悟りでも、その心は平等であり、世間に動揺せられない。
火が薪を焼くように、
悟りの心は一切の迷いと煩悩の薪を焼き尽す
火が平等に闇夜を照らすように、悟りの心も誰にでも平等にあり、
迷いの闇を除いて、進むべき道を見せしめる。
風が塵を吹き払い、熱気を取り去るように、
悟りの風も、一切の障り煩悩の塵を除去し、清浄の世界を表す。
水の如く、
悟りの心も、世間に流れ、瞑想修行を助け、心静かな果実を成じ、人々を利益する
そこは広々として風通しが良く、起き上っても寝ころんでも、さわやかな風が吹いているだけ。
嬉しくも楽しくもない、苦しくも悲しくもない。
そもそも感情など越え、ただ静かである。
感情を超越しているから、
迷いも悩みも無い。
他を苦しめることもない。
_____________________________
【修行してみる】
1、口をそそぎ手を洗い、服装を正す。
2、姿勢正しく坐る
3、線香を一本立て、般若心経一巻唱える。
4、ただ、呼吸する。
5、呼吸が調ったら、昨日のこと、今日のこと、失敗したこと、などを思いだし、それがどこから来たのか、よくよく観察する。
6、言い訳やごまかしを取り除き、受け入れる。
7、反省すべきところは反省し、懺悔するべきことは懺悔し、これから誰に何を言い、自分はどう行動するべきか考える。
8、合掌礼拝
9、座を立ち、7、を生活の中で実行する。
「迷い多きに悟り多し」
であり、その迷いの原因は煩悩、と仏教では考えますが、
密教では、
煩悩が持つ大きなエネルギーを、衆生を助けるエネルギーに転換すること。
つまり、煩悩を肯定します。
本来悟っている、元々仏である僕らの心に、塵のようにまとわりついているものが煩悩ですが、
それを否定するのではなく(現実にそれは難しい)
煩悩とは何か、と煩悩の内容をよく知ることによって、解決しようとします。
密教の修行カリキュラムはそれに沿っています。
煩悩は、ひどく喉が渇いた時に水を欲しがるような「渇愛」とも表現しますが、
例えば、
ひとりの人を愛するとともに、その周りの人も、みんなを愛してしまう。
強い怒りがあっても、それを自分だけの怒りではなく、世界中から争いを無くそう、というような怒りに変える、広げてゆく
ということ。
それによって、自分の悟りと他を救うことが同時に可能になります。
密教の常用経典である『理趣経』には、四つの煩悩が書かれています。
1、煩悩障(貪り、怒り、無知) 生きていることに伴う障害。 知るべきことを知りえぬ障り
2、所知障(迷い、悩み、不安) 文化的活動に伴う障害。 心身をかき乱して悟りの邪魔になるもの。
3、法障(分別・区別・差別) 小賢しい智慧。正しい法を聞けない障り
4、業障 行為によって出てきた妨げ。 過去に自分が行った行為による妨げ。
これらも、
自心は本来清らかである、と体得する修行により(具体的には五相成身観という密教瞑想法)
四つの煩悩は清められ、それらの煩悩によって重罪を作ることになっても、それを消すことができる
とあります。
あらゆるものが平等であるということに徹し、あらゆるものにとらわれない自在を得れば、悟りに達する、ということです。
不動明王など忿怒のお姿は 、悪い方ばかり向いてしまうものに対しての怒りですが、
それはとりもなおさず自分自身の内面的な敵と戦う ことです。
煩悩に対して怒る。
良い悪い好き嫌いなどと、自分の妄想で分別していることに対しての怒り
怒りの対象は自分自身です。
世間一般では、
欲望はほどほどに強いましょう。怒ると健康に悪いよ。
顕教では、
怒らないように、愚かさを無くす。
密教では
欲をもっと大きなものにする
我の無い、世の中のための怒り
と、松長先生は『理趣経』(中公文庫)の中で書かれています。
また、
『理趣経』第十段では、
如来は道を外れたすべての者を調えるために、怒りの智慧を説く。
怒りの姿は、慈愛のすがたであり、相手が調えば、その怒りは愛と変わり、相手も怒りと共に仏になる。
顔を和らげ、心を喜ばし、微笑みをたたえながら、大悲の心のままに、怒る。
とあります。
菩提のため、相手を悟りに向かわせるための怒り
自分の感情ではなく、相手の立場を想って怒る
ゆとりをもった怒り
そういうものが密教の怒りです。
もし、普段の生活でイライラしたら、笑って真言を唱えてから、相手に接してみましょう。
怒りとともに、
煩悩の中で、最も大きく力が強いものが性的欲望ですが、
異性を求める欲望を、悟りを欲する心へ。
異性に近づいて触れたい欲望は、悟りに触れようとする心に。
異性を愛して離したくない欲望は、一切衆生を愛する心に。
異性を手にした喜びは、大衆を救うことを喜ぶ心に
修行によって転換させます。
こうすることで、
自分が悟る道程も、衆生を救う過程も、同じ順序をたどります。
何よりもまず、迷える自分の中には光り輝く仏があり、仏の本質は慈愛である
という心に住することが大切です。
※陰陽で考えると
強い怒りは陽性の排毒ですから、陰性な精進料理と、陰性な瞑想修行によって変換することができます。
イライラ、頭痛、ウツ、認知症など、脳の問題はほとんどが陽性毒がたまっているのが原因ですから、それを抜けばいい。
陽性毒は普通の生活をしていれば身体に入り、普通の食生活をしていれば排毒できるものですが、きれいな陰性が足りないと排毒できない。
きれいな陽性が足りない、ということです。
____________________________________
【修行してみる】
○欲望の転換
1、止息法
姿勢正しく坐り、3分程度ゆっくり呼吸します。何かを考えても考えなくてもよろしい。
ただ、呼吸するだけ。
その後、息をすべて吐いてから、呼吸を10秒止めます。
慣れてきたら20秒止めてから息を吸います。
2、沐浴
般若心経一巻を唱えてから、冷水を足、手、頭、身体の順にかけます。
礼拝の気持ちを持って衣体を着します。
3、正座法
畳、または堅めの座布団の上に正座し、頭上に500gから1㎏の重さがあるもの(座布団など)を載せて、姿勢を正します。
手をへその前におき、静かに呼吸します。
両手掌を上に向けると、心は平静になります。
毎日10分ほど座れば大きな効果があるでしょう。
都の大学を辞めた19歳のころから、遣唐使の留学僧として唐に渡る30歳までの間は、どこで何をなさっていたのか不明な点が多いのですが、
その間、おそらく大日如来を拝んでいたのではないか
と金山穆韶先生はおっしゃっています。
大日如来は密教の中心的な仏です。
曼荼羅の中央におわしますが、あまりにごつくて近寄り難い面もある。
オールマイティ、完全者、代表取締役CEO、終身名誉監督・・・。
あまりにもすごくて分かりにくいので、マンダラ世界では役割が分かれている。
阿弥陀さん、観音さん、お不動さん、お地蔵さんなど、それぞれ大日如来の働きを分担しています。総務人事経理営業製造などの現場に分かれているように。
なぜなら、人の宗教的資質はさまざまなので、それぞれに人の心に合う仏になって、お導きくださる、という感じかな。
大日如来の根本は智慧と慈悲
その性質は
1、除闇遍明(ジョアンヘンミョウ)
大日如来の智慧の光は、遍くすべてのものを照らし、闇を消す。
太陽の光は必ず影を作るけれど、大日如来の光は隅々まで照らし、影を作らない。
2 能成衆務(ノウジョウシュム)
大日如来の慈悲の光は、あらゆるいのち、存在を生かします。
3 光無消滅(コウムショウメツ)
大日如来の智慧と慈悲の光は世界と共にあり、永遠。
太陽には寿命がありますが、仏は永遠です。
何よりも、大日如来の思想がそれまでと決定的に違うのは、
大日如来は生きている、そして、我々に理解できる姿形で説法している。
その内容は、悟りの内容である
ということ。
目に見える自然現象や、真言という言葉で説法しています。
だから、
ただの雑草ではなく、それが薬草である、という目があればその説法が見える。
真言を学び習得すれば、その説法を聞ける。
そして、
誰でも大日如来を悟れば、そのまますぐに成仏できる、大日如来になれる。
さらに、
悟りの境涯はすでに永遠の昔から「説法」し続けていて、私たちにはそれが聞こえず気づかないだけ。ラジオの性能が悪いから電波をキャッチできないだけ。
密教の修法である「三密行」(手に印を結び、口に真言を唱え、心に大日如来を観じる)
によって、気づき聞こえるようになります。
三密行によって如実智自心(あるがままに己が心を知る)が得られますが、その瞬間、僕らは大日如来を悟り、大日如来になります。
そのことを、お大師さんは
「大日如来のみいまして、無我の中において大我を得たまえるなり」 (『吽字義』)
ただ大日如来のみいまして、はからいの小我を超えた無我のなかにおいて、本当の我を身につけられる
と言っています。
大日如来も僕らも、同じ縁起で、同じ元素で作られている、という感覚でいればいい。
恩師・田中先生の講話集 『大日如来に抱かれて』から引きます。
「わしが値打ちがあるんだということを自分が努力して知ることだと言うふうに思って一生懸命になることでなく、
下駄を向こうに預けてね、 大きなものの中で、 自分がいつのまにか、 自分を忘れる、
そこには大きなものしかないんです、 大いなる如来がましまして、 私はもう無限の世界に消えてしまっている。 このように知ることを如実知自心という」
「一切世界は大日如来遍満の世界だ。 どこもここも六大、 ここもあそこも大日如来。 結局大日如来という、 広大無辺の世界の中で、 われらは泳いどるようなものです。」
「本当に大日如来の信仰があるんだったら、 そのときから大日如来の命をわが命として、 世間に向かうというふうな、 それが即身成仏だったら、 即身成仏というのは、 自分ひとりが悠々自適ちゅうじゃないですわ。 自分が智慧に生き、 自分が慈悲に生きるといいますか、 特に、 私が慈悲の権化の、 慈悲のかたまりのようなもんを一面に持っておらんことには、 即身成仏もヘチマもないんですから」
「われわれには我というものがあって、 なかなか決まったことが無条件に信受出来ない。
だから全部が全部、 悟りを開いておる、 大日如来ならざるはない、 一切世界が元々から大日如来なんだ、 もう何もかもそうなんだと言われたけれども、 私は漏れるー私もその中に漏れとるわけでもなんでもないけれども、 本当かいな、 ということになって、 どうもそういう受け入れにくいと。
それを受け入れやすくするところに、 人間の試みがある。」
土の一塵の中に、
宇宙全体に
我が身に
一切衆生の身に
大日如来という名の慈悲と智慧がある、
と信じることが基本です。
四無量心観(しむりょうしん かん)があります。
この心に住すれば、自他を救うことができる。
四無量心とは、
慈・悲・喜・捨の四つ。
・慈無量心:相手の幸せを願う心。楽を与える姿勢
・悲無量心:苦しみを除いてあげたいと思う心
・喜無量心:相手の幸せを喜ぶ心。慢、疑の無い心
・捨無量心:執著しない心。私が慈・悲・喜の思いを持った、ということを忘れること。
諦める心。
すべての存在は如来蔵。その中に仏(悟り)があります。
ですから、自他の身体・心・言葉は、本来仏と同じだと考えましょう。
すべての人やいのちは、自分は本来仏であるということを忘れがちなので、自他善悪好嫌などの分別が生じて煩悩を起こします。
ですが、
本来清浄、よそから埃のように舞い降りた煩悩は、智慧の風が吹きとばし、
たまたま来たお客さんのような迷いは、慈悲の水とともに流れ去る。
主観客観を離れて見れば、すべては平等
そう思うようになれば心は不生、あらゆるものは空。
たとえば、
あの人から悪口を言われた、馬鹿にされた
子どもが言うことを聞かない。
子が勉強しない
夫が無愛想だ
夫(妻)が文句ばかり言う
何もかも、思うとおりにならない
などと思っても、
それはそれだけのこと。心を動かす、心がゆれる必要はありません。それは心の無駄遣い。
怒ったり泣いたり、悲しんだりする必要も意味もない
相手はそれまでの人なのですから、ただ慈愛・慈悲の気持ちを持っていれば良いのです。
世の中で慈悲より強いものはありません。
慈悲の甲冑をつけていれば、もろもろの障害は去り、他を利益します。
だって、慈悲喜捨の心と姿勢を持ち、慈悲の言葉を話す人に対しては、どんなことをしても打ち負かすことはできないから。
四無量心を持つことで、最も恩恵を受けるのは自分自身です。この心を持てば相手が平安になり、
それを見て、自分自身の心が安らかになりますから。
「物の興廃は必ず人に由る、人の昇沈は定んで道に在り」
~物が盛んになるのも廃れるのも、みな人によるのである。ひとの向上や堕落は、その人の信ずる道によるのである。~
身分や貧富に関係なく誰でもが学べる学校の設立に関するお大師さまの文章『綜芸種智院式并序』に、このお言葉があります。
家や会社や学校、集団組織が栄えるか衰えるかは、そこにいる人たちの努力精進、思いやり、優しさ、智慧などがあるかどうか、人としての道を歩んでいるかどうかで決まる、ということです。
人には好き、嫌い、どちらでもない、という区別差別の心がありますが、それは自分で決めているだけの勝手な判断です。
私が嫌いなものでも他の人から見れば素晴らしいものかもしれません。そのように、人によって違うものも認めていくことが大切です。自分の好き嫌いだけではうまくいきません。
大切なのは「お大師様のお言葉」を知識だけではなく、生活の中で実践することです。口先だけか、実践するかが「興廃は人に由る」であるとも言えるでしょう。
http://www.musubidaishi.jp/message/2013/07/post-77.html