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[ 2026/03/15 05:19 | ]
よりどころ
地粉とパン粉に木の芽を混ぜた衣でタケノコを、

残った味噌汁で高野を戻し、余った衣をつけて焼く。




さあ、食べよう

とか、

買い物に行こう

君が好きだ

世の中を変えたい

などなど、

何でも心が思ってから、行動に移します。

目的を達成するためには、それにかなう勤めをしなければなりませんが、

とにかくまず心が(脳が)思うことから始まる。


朝起きるとか、危ない場面で逃げるなど、思う以前に行動していると感じるかもしれないけれど、

それは深層心理に録画録音されているものが、無意識にリプレイされているもので、心が最初であることに変わりない。

かように、心はすべてのよりどころ、出発点。 強く思えば必ず達する。


その心は、思いようによって、やさしい言葉や行動につながり、それは他を潤す。

その心は、迷いや不安や悩みを吹き飛ばし、焼き尽くすことができる。

その心は、大空のように妨げるものが無く広々として差別が無く、汚れに染まっていない。

分別を離れ無染無着だから、
 
仏と自分と衆生は平等であるとわかる。これも心をよりどころとしている。


『菩提心論』にあるように、

昔よりこのかた、衆生と仏とを隔てる極細の思いがあるけれど、

これもトレーニングをすることで、仏の心になる。


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[ 2017/05/18 08:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
簡単は難しいのか
粉砕した乾燥レモンとミカンをどう使おうかと考えて

豆腐、炒り玄米粥、玉ねぎをドレッシングにして混ぜてみる。



砂糖や蜂蜜に漬けたものと違い、そのままの乾燥くだものなので、苦味がちょっと強いかな。

乾燥みかんは陳皮だから、風邪の薬になるかな。


冷蔵庫に古いトマトがあったので、上記の炒り玄米粥、玉ねぎと味噌で炊いて、ローリエ、塩こしょう、パプリカと煮込む。




さて、

王様の格好をして王様らしく振舞っていても、家に帰って衣装を解き、化粧を落とせば素の自分に戻ります。

自分にこだわり、他と比べ、うぬぼれたり、自分を正当化しても、

それを離れれば素の自心に戻ります。

同じように、三密五相と云う密教の瞑想修行によって、

仏身、仏心に戻ることが出来ます。

話としては単純だけれど、なかなかできないことが多い。

早寝早起きも簡単なことですが、実践するのは難しい人もいます。

酒をやめる、ということも簡単、やめるだけのこと。だけど実践は難しい。

身体の病は、身体を作っている食べ物を工夫すれば改善します。

心の病は心を観察して懺悔反省感謝すれば改善します。

簡単な仕組みなのだけれど。

それを実践できるようにするのが、宗教の役割のひとつだと考えています。






[ 2017/05/19 18:06 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
妊娠の原理と七七日
山の下草刈りをして、山椒の実を摘む。



塩漬けと醤油漬け。しばらく楽しめます。


それはさておき、

最近はお葬式をしない人が増えています。お墓はいらない、という家もある。 

昔のような、

元服や徴兵検査はだれもやらないだろうけれど、

七五三、成人式、入学式、還暦や喜寿なども、

出席しない、参加しない、行わない人は昔からいます。してもしなくてもどちらでもよい。

その人、その家庭の方針で決めるもの。

だから、

結婚式も葬式も、してもしなくてもよいけれど、

それをしないのは心がけが悪いとか、人としてどうか、ということではない。 

 
最近は法事を行わない家も少なくない。

三回忌、七回忌などを年忌と云います。

しかし、仏教で故人を追善供養するのは中有の七七日(いわゆる「しじゅうくにち」)まで。

これは『大灌頂経』『梵網経』に典拠がある。

その後の百か日、一周忌、三回忌は中国の風習です。かの国で作られた『十王経』によるところが大きい。それでも、三回忌までです。


その後、七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。

江戸時代の檀家制度のため(キリシタン禁制のため)、寺院維持の収入を増やすためなど、

いろいろ考えられます。

いずれにしても、仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、

年忌に関わらず、人は故人先祖を尊敬し供養します。 


ところで、

七七日を満中陰と云います。中陰が満ちる。

中陰はサンスクリット語の antarabhāvaの訳で、antara(中間の)bhāva(生存状態)ということ。

これは旧約で、新訳では「中有(ちゅうう)」と云います。


『倶舎論』などでは、衆生が輪廻するサイクルを四つに分けています。

1、生有:精子卵子合一した妊娠の一刹那
2、死有:死の一刹那
3、本有:生有より死有にいたるまで
4、中有:死有より生有にいたるまで


1,2,3、は分かりやすいですが、問題は4、ですね。

『大毘婆沙論』70では、中有の生存期間を、

1、短期間
2、七日間
3、四九日
4、不定

のいずれかとしています。

初期仏教の大衆部などでは、

死の一刹那に、ただちに次の生を受ける

つまり、中有は無い、という立場もあります。


なぜ、4種類の期間があるかといえば、

中有の期間に、

次の生に父母と予定されているものが性交を行えば、

中有は直ちにそこへ赴いて妊娠にあずかる

と考えたようです。つまり、

妊娠成立の条件は、女性の排卵、男女の性交だけではなく、中有の顕現がある、

ということ。  

中有は、自分の父母に予定されている男女が性交を始めると、

空間的にいくら隔たっていても、直ちにそれを感得し、一瞬にしてその場に顕現する

と『瑜伽師地論』1にあります。

輪廻の主体は中有、ということになる。


この中有の運命は前世の業によって決まっています。地獄か極楽か人間界か、父母はだれか、が決まっている。

そして人間の場合、

『大毘婆沙論』70によれば、

1、予定される父母が性交の機会に恵まれなかったら、他の父母に転じる

2、父母になるはずのものが、強制的に他の男女と交わり入胎する(中有の意志は必ず達成される)

とチャンスが二種類ある。

そういうことがあったのでしょうね。


肉体ではなく、心だけが輪廻する、という考えかたもあります。

『修行道地経』1には、

父母交合のときに心(精神)が赴く

『瑜伽論』には、

受精のときに、阿頼耶識(存在を決める根本的な識)が和合し依託する

とあります。


いずれにしても、

あらゆるものが空(実体が無い)ならば、

輪廻する実体も無いから、輪廻はありえない、と考えるか、

中有を信じると、

おそらく日々の行いを正し、臨終の姿勢を清めやすいですから

あたらな生(希望)のために一生懸命に生きよう

と考えるか、

今存在しているその事実こそが真実で素晴らしい、と考えるか、

仏教でもいろいろあります。


[ 2017/05/22 11:56 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
鬼と業

厚切りトーストに何を載せようかと考えて、


豆腐と少量の油揚げ、大根を炒りつけ、味噌、こしょう、タバスコで調える。




これは大腸の滋養になるもので、

何かを見極めたいという時は、このような白くて辛味のあるものがよろしい、



それはさておき、

『十住心論』には、

身体の病は多いといっても、要はただ六種である。四大(地・水・火・風)の不調と鬼と業である。

身体の病を治す方法に、温泉、散薬、丸薬、酒、針、灸、まじない、いましめ の八つがある。


鬼や業は仏教の修法によらなければならない。

とある。

業は悪業の報いだから、懺悔(の修法)が有効だろうけれど、鬼は具体的には何だろうか、とあらためて『仏教医学辞典』を調べてみた。


鬼病は、

鬼が四大五臓に入る(『摩訶止観』8)ことで、その鬼は神通力のある夜叉と羅刹らしい。

『楞伽経』には、

1、金銀草木などの精
2、風に託して災いをなす
3、老いたる狐狸に託して人を惑わす
4、蛇蝮に託して人を害する
5、疫病
6、餓鬼
7、睡眠中に人を惑わす
8、水石などの精
9、八幡使者の鳩
10、吉凶禍福の言を伝える巫女のごときもの


という十種の鬼をあげている。

わかりにくいものもあるけれど、根本は煩悩ですね。

だから、十住心論には呪法をもって鬼病を治す、とある。

お金も食べ物も、もっともっとと欲しがり、

他人をだまし、過失を求め、

常に怒り、

暴虐で人肉を食らうような鬼

なので、

身体の不調以外の鬼と業による病は、

懺悔と反省、精神集中と自心観察(心静めの瞑想修行)

によって無くすことができる。






 


[ 2017/05/23 07:34 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
はじめました。
昼に、添加物たっぷりの冷やし中華を出されて閉口したので、

夜は自分で作る。



タレは、

味噌汁の残り、純正醤油、ごま油、こしょう、酢、乾燥りんご



生臭たっぷりの麻婆豆腐が食べられなかったので、夜は自分で作る。



ニンニク、玉ねぎ、トマト、トウバンジャン、味噌、残りご飯・・・。


うまいものを作る

という努力工夫をしている人には敬服しますが、
 
うまいと感じる心身を調える、

という工夫が、人口に膾炙すれば良いなあ、

と思っています。



[ 2017/05/25 06:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏教精神身体医学とお坊さんコール
息子が帰ってくると、

翌朝、僕の枕元に、

「6時に起こしてください」

とメモが置いてある。

僕は早起きなので、朝6時前にはひと仕事終えているから、おちゃのこさいさい。

なので、

早起きが苦手なかたへ、モーニングコールします。

どうぞ、ご利用ください。

それだけではもったいないので、仏教の相談ご質問お悩みごとなど、

お気軽にお電話ください。

但し、16時までに。



それはさておき、

以前にも書きましたが、 

『十住心論』冒頭に、

「心病多しといえどもその本は唯一つのみ、所謂無明これなり」
(心の病は数限りないが、その原因は根源的な迷いである)

そして、

「醍醐がすべての病気を治す薬となるように、陀羅尼の妙薬はすべての重罪を消し去り、

速やかに根源的な無知の根を浮き取る」

さらに、『性霊集』九には、

「陀羅尼はすべての病に有効である」

また、『般若心経秘鍵』に、

「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く」

とある。


つまり、

心の病の原因は、無明の煩悩(おろかさの迷い)であり、

それは陀羅尼(観想と念誦)で取り除かれる。


この無明について、他の記述を探してみると、

「この甘露を注いで迷者を潤し、同じく無明を断じて摩軍を破せん」(『秘鍵』)

「身をもって十二因縁を修し、そこに無明の種子を抜く」(『 秘蔵宝鑰』 第五抜業因種心)

「我れ無明に積習せらるるによりて、身口意業に衆罪をつくる」(『大日経開題』 至心懺悔)

「マタの慧眼は無明の昏夜を破し(肉眼を加持して心眼とする)」(『秘蔵宝鑰』秘密荘厳心)


などがあり、まとめれば、

迷い(無明)によって三毒・煩悩・罪が生まれ

陀羅尼の修行によって無明は消える。


この陀羅尼とは、サンスクリット語ダーラーニー(dhāraṇī)で、

記憶、保持、禅定、三昧などの意味があり、

総持と漢訳し、すべての禅を保持し、悪を抑えること。

散乱する五感を制御して、精神を統一した状態が「陀羅尼」


その時、唱えるものに陀羅尼、真言などの文句がある。


具体的には、

座禅瞑想によって恐怖苦難を超え、

臍下丹田(気海)に意識を集中して、気息が調えば万病を消呑し、

足下に集中すれば、風大(腎臓・膀胱系)の不調に効果的。

さらに、

空観の瞑想によって、病を超越する。


『維摩経』には、

「空なる心身に病の生じるは、前世の妄想、顛倒、煩悩による」

とあるけれど、心を調えるには禅定などの仏教的トレーニングがとても有効。

単純に呼吸法を修するだけでも、

内臓のマッサージが行われ、血行が改善します。


心病は脳内の血行の問題だから、

血液を作る食べ物と、血行を良くする生活法が重要で、 

呼吸と瞑想法はそれを促すことに役立つ

と考えています。

 

_______________________________________

※「お坊さんコール」は

0285-35-4901

または

090-6257-1472 





[ 2017/05/26 11:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
智慧と慈悲
お坊さんの集まりに出席して、いろいろ話を聞iいた。

仏教とは何か、寺はどうするべきか、

いろいろな意見があっておもしろかった。


ダライ・ラマがどこかで書いていたけれど、

チベットでは儀式ばかりして、仏教とは何かという勉強をおろそかにしている僧侶が多い。

勉強しないで修行しても無意味である、

と。

そういうことは、仏教に限らず、どんな社会でも同じかもしれない。


それはさておき、

『宗秘論』に、

球を持てば善念生じ、剱を把るは殺心の器

とある。

同じように、

合掌すれば拝む心になる。

袈裟をつければ拝む心になる。

お墓参りに行けば、仏壇の前に坐れば拝む気持ちになる。

いやいや、

恰好なんて、持ち物なんて、場所なんてどうでもよいのだ。

拝む心さえあれば、どこでも何でもよいのだ

というものでも無い。

形を調えたほうが、濁りが減る。

どこでも拝めるけれど、場所を利用すれば、場所の力がある。

道場で拝むほうが拝みやすい。

そうして、

純度が高まれば、文殊や不動のように、剣を持ってもそれは殺心の器ではなく、

煩悩迷いを断じる智慧の剱となる。


墓前や位牌の前で合掌すれば慈悲の心が生じる。

勉強すれば知識が増えて知らないことが減り、迷いが減る。

これによって心の平安が訪れる。

これは、

どちらか一方ではいけない。



[ 2017/05/28 07:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夏みかん色
お酒を飲むのは善いことか善くないことか。

飲めば冷静な判断ができなくなり、冷静な判断ができないということは悪いことだ。

悪いことなら、おもしろいということになる。


それはさておき、

妻が夏みかんをたくさん採ってきて、それを全部むいてくれた。

野生のものだから酸っぱい。ものすごく酸っぱい。

顔をしかめて、身を縮こまらせるほど酸っぱくてうまい。

甘い果物は苦手だけれど、すっぱいものは好き。


考えてみれば、トマトもイチゴも昔は酸っぱくてうまかった。

いつの間にか、軟弱で甘いものばかりの世の中になってしまった。
 
あまーい! なんておじさんは嫌いだ。


酸味は肝臓の薬であり、夏の滋養。

夏ミカンの黄色は悟りの色、仏心地の色。大日如来の色。

あめつちのありのままの智慧の色

密教のシンボリズムでは、

黄色を豊かな姿で確固とした揺るぎない性質の表現とする。

物事の本質を明らかにし、統合させて絶対なる智慧を現す。


つまり、

黄色は仏教の色、密教の色。

だから、しあわせの色。仏教の目的は悟り(しあわせ)だから。



[ 2017/05/30 06:13 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
裏表
僕は思っていることが顔に出るらしい。

機嫌不機嫌がすぐ分かる、と妻が云う。

ということは、

僕はウラオモテの無い素直な人間、ということだろうな。


六尺(180センチ)の塔婆を9本頼まれ、

書いて拝んで、墓地まで運んでまた拝む。

結構重かった。


塔婆の表には胎蔵の大日如来

裏には金剛界の大日の梵字を書く。

裏と表で大日如来の世界を現している。

これを法界とか宇宙とか自心とも云う。

裏と表で、

真如とそれを悟る知恵 

本来の姿と現れた姿

智慧と慈悲

実践と瞑想

を表現し、それは表裏一体、同じものである。


合掌の左手と右手のように

男と女のように

パリーグとセリーグのように(ちょっと違うかな)

本質は同じものである、 

 
こちらから見ればこうで、反対側から見ればああである。でも、それはどちらも真理の表現 。


僕らは普段、何でもふたつに分けて見たり考えたりすることに慣れているけれど、

本来はみなひとつの裏表を見ているに過ぎない。


[ 2017/05/31 06:56 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
米ぞう幻想録
 「百鬼園先生幻想録」の顰に倣って、米ぞう思えらく

酒を飲むのもよいが、酔うと危ない.

大丈夫ですと縁者が請け負ってくれても、安心できない。

そもそも、飲まなくてもよいものを飲むのは、自然の摂理に背き、仏の意思に逆らう不逞である。

もっとも、それは酔った場合に考えればいいことで、飲めば必ず酔うと決まったわけでもなく、

また無事でいる人の話を聞いてみると、酒を飲むことは随分面白いようでもあるから、、やっぱり飲んでみたくもなる。

坊主が酔っ払いに向かって、

お前の親父は何で死んだのかと尋ねたら、酔っ払いは、父も祖父も曾祖父もみんな酒で死んだと答えた。

坊主が驚いて、それでもお前は酒を飲むのが怖くないのかと聞くと、

今度は酔っ払いが、

お前の親父や祖父さんや曽祖父さんは、どこで亡くなったのかと問い返した。

そこで坊主が、みんな布団の上で死んだと答えたら、

酔っ払いはびっくりして、それでもお前さんは布団に寝るのが怖くないのか、と云った。

酒がいくら危険でも、布団の上で人が死ぬのに比べれば、遥かに安全である。



米ぞう又思えらく

坊主が金襴の袈裟をかけて読経するのは、何か色物のようでおもしろいものである。

最近は仏教離れ、寺離れ、檀家離れというのが流行っているらしいが、

読経というのは門前の小僧でも習わずに唱えられるようなので、きっと坊さんでなくてもできることなのだろう。

だから、

親戚のうちでだれか髪の薄い者に法衣袈裟をつけさせ、正面に坐らせればよい。

法話というものも、

『よく分かる仏教入門』の類や『布教法話集』などをインターネットで探して購入し、それをネタ本にして話せばよい。

一杯食わせてみる勇気があれば、その儀式はたちまちにして芸術の一部門たる認識を得るであろう。

教員や医者と違い、坊さんのふりをして坊さんみたいなことをしても法に触れることは無いから、すでに珍しいことではないかもしれない。



米ぞう思えらく

物は名の始めである。

初めに物ありて、次にその名を定める。

猫を飼ってその名をネズミとし、

「ネズミや、ネズミや」と呼べば、猫が尾を振って飛んでくるだろう。

蚊が飛ぶ季節になったが、蚊とはいえ殺生はいけないことである。

しかしやむを得ず退治しなければならない時は、

その蚊に、権力をカサに横暴なことをしている輩の名をつけてから退治することも試してみよう。


しかしながら、声字は実相である。

世の中の固体、液体、エネルギー、気体、空間は、

みな言葉で表される。

目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻によって嗅げるもの、口によって味わうもの、手とからだによって触れられるもの、意識によって考えられるもの

の働きによってとらえられたものが言語になる。

仏の説法は必ず文字による、文字の所在は世の中にあるものである。

世の中にあるものは仏の身体、言葉、心である。

つまり、

人はみな仏、世の中の総ては仏のサイン

それを受け取れるレベルになれば、

不公平でつらいと思われる人生が平安になるだろう。

それには、

自分の体はどのようになっているか

自分の心はどのように動いているか

それらは他とどのようにつながっているか

とういうことを仔細に観察すればいい。

それには密教の三密行がもっとも簡単で早い効果がある。


________________________________________

料理教室&瞑想講座

6月3日(土)11時~

会場:吹田市PINO

料理は、腎臓・肝臓の養生。

問い合わせは下記まで

http://salon-pino.com/



春の不動明王護摩供

6月4日(日) 12時30分~  

鳴門市撫養町木津 JR金比羅前駅下車 金比羅神社上の山頂

鳴門不動院


 

仏事と修行方法のご相談はメールでどうぞ

gbqmk185@ybb.ne.jp



  





[ 2017/06/01 07:56 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
向暑平安

余った種イモを食べるとき、

芽が出始めて、その根元の白い部分、将来芋茎になるところだけれど、

その部分がシャキシャキとしてうまい。大根が採れるまではここがその替わり。


 


コシアブラが採れはじめ、これはタラの芽より柔らかく食べやすい。




塩ゆでし、水にさらしてから白和え。


和え衣は塩煮した豆腐、よくすった白ごま、味噌、こしょう、酢



ちょっと疲れた時はしいたけ。


乾燥なめこの出汁でシイタケを炊く。

焼くより炊いたほうが陰性になるので陽性な疲れが取れる。



衣替えをしてから、古いカメラも掃除して虫干し。

この作業がとても楽しい。




[ 2017/06/03 07:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お不動さん
JR鳴門線金比羅前駅を降りると目の前が長谷寺

東に山門があり、毘沙門堂を左に見て、金比羅神社へ上る階段があります。

途中に土俵があり、秋のお祭りで、ちびっこ相撲が行われる。

社殿に着き、その左を抜けて裏山へ登ります。




新緑のなか、木漏れ陽を受けながら10分ほど登ると、頂上にあるのが不動堂



小さなお堂で、春秋の年二回、護摩を焚いています。

毎回、お願い事が書かれた添え護摩が100本程度集まります。

お堂が狭いから護摩の火が近い、熱い、煙い。

火には明るさと熱があり、食べ物を柔らかく食べやすくする。人間だけがその火を使う。

そして、本能的な憧れを僕らは持っている。



これは誰の心にも在る智慧の火、迷いを焼く。

火の前で拝む

煙に巻かれて拝む

道場のお蔭を感じる。


祈願はいろいろあるけれど、

こうして誰かのことを拝んで、慈悲の心を起こせば、自分の心に平安が訪れます。

それが最大の功徳のご利益。


[ 2017/06/05 12:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
腹痛旅行
少しお腹の具合がおかしいなあ、

と思いながら駅まで歩き、電車に乗って東京へ。

出かける前は18番ホームの「グル麺」でおそばを、

と思っていたのだけれど、とても食べられる体調ではない。

新幹線に乗って座席に坐るともういけない。

とてもお腹が痛くて、脂汗が出てきた。
 
天気は快晴、富士山もよく見える、隣にはものすごい美人が坐っているのに、お腹が痛い。

梅干のタネをなめながら唾液を出し、ゆっくり複式呼吸しながら真言を唱えて新大阪着。

ホテルのバスタブに熱いお湯を張って浸かる。

発汗してだいぶ良くなり、

秀ハーブラウンジの元気玉(アラビノキシラン)を飲み、食事はしないで寝る。

念のため、
 
お茶を沸かして部屋にあるカップ・コップにすべて入れておく。

翌朝、大量の黒いうんこが出て爽快、仕事へ向かう。


お腹がだんだん痛くなるのは、

身体が変化しているということで、

ああ、僕は生きている

と実感できる。

 
その日作ったのは豆腐ごはん。



蒸し暑くなるこの季節は豆腐がうまい。

ご飯と一緒に炊いて、大葉と練り梅。これで冷えすぎない。



[ 2017/06/06 07:28 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
よりどころ
裏山の草刈をしながら、

タケノコを半分収穫、半分は蹴飛ばす。

採り立てだから、下処理は残りご飯を入れた鍋でちょっとゆでればOK



パプリカと炒め、ゆでた大豆、キュウリと和えてサラダ。

塩漬けの山椒実を添える。




キクラゲと煮物



タケノコ昆布

これは水を使わず陽性に作れば、下半身の滋養とガンの薬になる。




それはさておき、

テレビは非常に低俗で、想像力や思考力を低下させるので「一億総白痴化」する、

と、大宅壮一が云ったのが1957年。

テレビを観ているとバカになる、といわれましたね。

 

意見はけたたましく言うのだけれど、自分の意見の知的水準に対する内省はまるでない。

彼らはインターネットと携帯の狭い世界の中でバカな意見の交換をするのに忙しい。

そいうバカが増えていると、池田清彦が「加速するバカ化」(『やぶにらみ科学論』)で云ったのが2003年。


『大パリニッバーナ経』では、お釈迦さまの言葉として、

「自らをよりどころとし(自灯明)、法をよりどころにせよ(法灯明)」

と説きます。

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、

法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

ここに修行者は、

身体について身体をを観じ、熱心に、良く気をつけて、念じていて、

世間における貪欲と憂いを除くべきである 」

この後、同じように、

感受について

心について

諸々の事象について

熱心に、良く気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いを除くべきである、

とあります。


学ぼうとする人は、

自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、

法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしない。

法とは真如のことで、勉強して論理的に証明したもの。


この際、

身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)  

という観想を修すことが基礎になります。そうでないと現象をイメージとして捉えがち。

論理的な説明をつけられるということと、自分のイメージと合わせて正当化することは別です。 


例えば、

朝ごはんは食べたほうが良いのか、抜いたほうが良いのか

穀物(炭水化物)は摂ったほうがよいのか、食べないほうがよいのか

チーズやヨーグルトは

魚は肉は

積極的に食べるべきか、そうでもないのか

 水はたくさん飲んだほうが良いのか、そんなことはないのか

塩分は摂るべきか、減塩が良いのか 


これらはテレビやインターネットや「他をよりどころとして」いると、分からないですね。

なぜ、そうなのか、と勉強して実践すれば分かる。

分かれば不安悩み迷いが無くなり、平安な心身になります。

大切なのは、先にも書いたように概念や感想ではなく、理論的バックボーンです。



僕は陰陽で考えることが得意だけれど、

世の中のものはすべて元素でできており、

消化吸収も化学反応、料理も化学反応、病気や健康も化学反応だから、

化学的に判断するのも便利だろうな。



[ 2017/06/08 07:16 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お笑い福祉士
笑福亭學光師匠は鶴光門下で、お笑い福祉士発案者。



お笑い福祉士 公式サイト
https://owaraifukushishi.jimdo.com/


學光は がっこう ではなく「がっこ」

鶴光師匠も つるこう ではなく「つるこ」


下野市石橋の「讃岐うどん処 合掌 松屋」の大将・石崎さんは、本県警の刑事さん



師匠と僕は、鳴門長谷寺住職のご縁でお付き合いがあり、

大将と師匠はお遍路さんをしている時に知り合い、師匠のアドバイスでうどん屋を始め 、

僕と大将は同じ石橋高校出身 。

そんな御縁トライアングル 。

先日、

徳島から羽田に着いたら、8日に近くまで行くからうどんを食いに行こう、

と師匠からメールがあり、昨日営業前にお邪魔しました。

四国の出汁が味わえます。

師匠の落語会も考えています。

一家にひとり、お笑い福祉士がいれば良い世の中になるだろうな、と思っています。





[ 2017/06/09 07:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
タケノコで思い出すこと
藪防止のために毎日タケノコを蹴飛ばしています。

昨日はその中で小さいのを4本採り、畑でナスも採れはじめたので一緒に、焦しニンニク炒め。



陰性な材料で体内の陽性を溶かし、陽性な調理でお腹を温める方法です。

 
食べながら6年前のことを思い出し,、今はどんな状況なのか調べてみました。

・下野市のモニタリング検査結果
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kinkyu/g01/shimotsuke.html


・市町別 農林水産物等の出荷制限・自粛品目一覧
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kinkyu/y00/documents/shityoubetusyukkaseigen170301.pdf


・栃木県産農林水産物等の出荷制限と解除の状況について
http://www.pref.tochigi.lg.jp/kinkyu/y00/shukkahikae.html

これを見ると、栃木県では今でも牛肉は出荷制限中なのですね。酪農家は大変だろうな。

・全国のタケノコの検査結果データ
http://www.radioactivity-db.info/product.aspx?product=%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%82%B3&category=%E8%BE%B2%E7%94%A3%E7%89%A9


数字はウソをつかないから、それを見て冷静な判断が出来ればよろしい。

そこに噂話や勝手な感想はいらない。


最近はJAを通さない産直の野菜が直売所などに並んでいますが、

それらは残留農薬などを調べていないことが多い。

JAはチェルンブイリ以来、検査体制を確立しているから、残留農薬でも放射性物質でも、その検査制度は高い。

そして、

福島県など行政の検査が異常に厳しい状態はまだ続くのだろうな。

もっとも、そういうことより身体に悪いことをしている人はかなり多いけれど。

そんなことも、冷静な判断の材料になる。


あの時は、

事実より感情を優先させる人と、

「1カップの水に小さじ1」と「太平洋に小さじ1」

の違いを無視する、量の概念を認めない人がずいぶんいたけれど、

今はどうしているのだろうか。

今年のタケノコのデータを見て、あの時のことを思い出すのだろうか。


ウワサ話は忘れてよいけれど、

あの災害や事故のこと、

それによって傷ついた人が大勢いること、

は忘れないほうがいい。



ちなみに、

タケノコを食べた後の望診では、

何も問題は無い。



[ 2017/06/10 06:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
早弁 駅便
「早弁」(はやべん)は、

お昼休みまで待たず、1時限目2時限目の休み時間、もしくは自習時間中にお弁当を食べることである。

「早便」(はやびん)は、

郵便や鉄道で、その日の早い時間に出発したり到着したりするもの。

うんこを素早く済ませるのは早便ではなく早糞(はやぐそ)。
 
これは、

早寝、早飯、早算用と並んで、昭和のおじさんが得意とするものであり、当時は美徳でさえあった。


弁当は辨当、便当などとも書かれ(日本国語大辞典)、便當と書かれた駅弁もある。

高島俊男によれば、

「便当(ビエンタン)」(便利な)という支那語を、日本流に「べんとう」と読み、字は弁当となった。

飯桶の「面桶(ミエントン)」の漢音から「べんとう」になった。

と説があり、いずれにしても弁は当て字で意味はない。 (『お言葉ですが 2』)


そもそも弁は、

弁:かんむり 帽子のこと
辨:区別する 辨別(弁別)
辧:処理する 辦務官(弁務官)
瓣:花びら  花瓣(花弁)
辯:ことば  辯説(弁説) 辯雄(雄弁)辯護士(弁護士)

を戦後の国語改革でみな「弁」に統一してしまったものである。

弁当は「辨當」(辨(そな)へてその用に当てるの意か)と日国にあるが、これは後からつけたものであろう。和語ではないから、こんな語源は信用できない。
 

「便」は、

都合がよいこと、

のほかに「大便」つまり、うんこの意味がある。

なぜ、うんこが「便」なのかはよくわからないが、ウンコの正式名称は上記にもあるように「糞」である。

これは「古事記」にもある言葉で、

イザナミの糞から生まれたのが、波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメノカミ)。

ちなみに、僧侶のことを「糞坊主」と云うのは皆さまご案内の通りである。


うんこは幼児語で、「うん」はいきばる声、「こ」は接尾語

以上のことから、


駅弁は駅便でも良いのだけれど、

駅でうんこをする、ということにしても問題ない。

鉄道マニアには、駅の便所を愛するグループがあり、彼らはそれを駅便と呼ぶが、

駅でウンコをするのも駅便で良いだろう。

駅糞では味気ないから。



東海林さだおは、

「男は誰しも偉業に憧れる。

何か大きなことを成し遂げたい。

という性とか業から逃れられない」

と覚り、

歴史上の偉人たちのような業績をなすために、

「富士そば」の全メニュー制覇という偉業を目指したが、(『偉いぞ!立ち食いそば』)

僕も、せめて新幹線全駅のトイレでうんこをする、駅便制覇という偉業に立ち向かってみたい。





お弁当の本、あります。どうぞ、お求めください。

『穀菜食の舎 須永家のお弁当レシピ』(博進堂刊)

お申込は下記リンク先から、

https://www.hakushindo.jp/store/products/list.php?category_id=37




[ 2017/06/11 07:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お金の話
父の三回忌にあたり、

施主は母だけれど、僕がいろいろ段取りをした。

菩提寺(僕は在家出身なので菩提寺がある)の本堂で読経後、お墓参りをして、近くのそば屋で会食。

見積もった費用は、

・寺へのお布施(三回忌供養の謝礼)

・僕(の寺)からの御供料

・お供えの菓子折り代

・12時からの読経をお願いして、会食に住職はお誘いしないのでお膳料
 (食事時に仕事を頼むのだから)

・参列する親類への引き物(菓子折り)代

・会食の飲食代

このほか、僕らの交通費などは考えない。

費用の大半は母が用意して、当日は親類から幾許かのお香典をいただく。

以上が収支関係ですね。


当日、お寺へ行ったら、母の名前で塔婆が用意されていた。

僕からは依頼していないけれど、お寺の好意である。

こういう時、特に塔婆料は必要ないと思うけれど、母に確認したら、包んでくれ、と云う。

なので、御宝前に供えられた香典袋に塔婆料を差し込んだ。

以上、それぞれの項目の額に決まりは無い。すべてこちらの好意である。


最近、思うことがある。

僧侶派遣会社の広告を見ると、

費用はお布施〇〇万円のみ。

お膳料、交通費などは不要です

などとある。

お膳料はまだしも、交通費はどんな職種職業でも発生するものではないだろうか。

支払う側にしても、交通費の負担をするということが最も気になることではないだろうか。



それから、

派遣業務や講師料などで、

主催者が参加者から参加費を徴収し、

そこから会場費などを引き、

講師料を払い、

残りが主催者の収入になるのだろうけれど、

参加者にその内訳は知らせないのだろうか。

自分が支払ったお金がどのように使われるのかを知る権利はあるはず。

例えば、

3000円の参加費を払い、

そのうち2000円が講師に渡り、残りは経費である

というようなことを説明しないのだろうか。


さらに、

収入は参加者の会費

支出は会場費、手数料、講師料、講師の旅費

の場合、

まず決めるのは講師料と旅費で、そこから参加費を計算するのがビジネスである。

もし、参加費(参加者)が少なくて収入が低い場合、

赤字は主催者が補填する。

収入が思わしくないから講師料が払えない、というのは失格である。


世の中では、

最初に決めた予算が膨れ上がって、当初よりお金がかかるけれどどうしようか、

なんていう市場やオリンピックなどがあるようだけれど、

何のための予算なのだろうか。


ともかくも、

お金の話は悩ましいものである。



[ 2017/06/12 07:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ワンチャン生かされている



冗快さんの個展にお邪魔して、とても良かった。

特にモノトーンの作品が美しい。


「冗快きり絵の世界」

http://www43.tok2.com/home/nihonbashiumemura/concept.html

・6/12(月)~6/18(日) 11:00~18:00(※最終日は16:00迄) 

・ギャラリー 日本橋 梅むら 

東京都中央区日本橋室町1-13-1梅むらビルB1
(コレド室町3の東側です)


冗快さんの作品のひとつ、『冗快ひとり戯言』のなかに、
 
生かされている
なんて思わないで
生きた方が
楽かもしれない

という頁があるのだけれど、

「生かされている」という言葉はちょっと気持ちが悪い、

と僕は感じる。


ところで、

来週はいつ車が必要?

と次男に聞いたら

ワンチャン火曜日

と答える。

maybeとかperhapsのことみたいだけれど、おじさんは使いこなせない。

若者言葉はおもしろいからよいけれど、

「生かされている」は、おもしろくない。

原罪があるキリスト教にはそういう考えかたがあるのかもしれないけれど、

気づき、癒し、自分探し、のような生ぬるい気色悪さがあるし、

させていただく、と思います

のような、言い訳の余地を残すような気持ち悪さもある。


ダラダラグズグズしていないで、直ちに修行に入りなさい、

というのが基本の仏教では、生も死も積極的なものです。 

だから、

生きる上で起こる個人的な怒りは、世界を救う怒りに変わり、

煩悩は菩提に転換し、

欲望を感じる感覚は、悟りの智慧に転じる。


よくよく考えると、

僕はただ生きているだけ

転んだらただ痛いだけ

気温の高い日は、ただ暑いだけ

存在が真実である本不生。

そうなるべきもの、あるべきものであって、

あるものではない。


でも、

ワンチャン生かされている

なら随分といいかな。


[ 2017/06/13 15:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
人間関係の秘密
『南北相法』には 、

中指が自分、薬指は配偶者、小指が子ども、とあります。

ヒトの細胞では、

外胚葉(表皮・神経系)、内肺葉(消化器系)、中胚葉(循環器系)が形成され、

外胚葉は陰性で、中胚葉がもっとも陽性。

陽性なので分裂せず、中心(陽性な場所)である中指になります。

陰性な外胚葉はもっとも陰性な外側へ向かい、陰性ゆえに分裂するので薬指と小指になります。


つまり、

一番陽性な中指が自分(他と比べる時、自分は常に中心に存在する)

中指は循環器系(血の巡り=判断力)なので情と関係する。

薬指は神経系の経絡で知と関わるので、

知と情の関係が夫婦になります。

小指は生殖器の経絡なので子どもを現す。


これを知っていると便利で、

それらの指の傾きで両者の関係が分かり、

それぞれの指の勢いで、体調を観ることができます。


情は血の巡りの良し悪しですので、

血行がよければ、自分とそれ以外の関係はうまくいきます。

さらに、

判断力を表す感情線(これは循環器系)と生殖器を表す小指の間に結婚線ができます。

子どもが出来るかどうか、
 
子どもを育てる判断力があるかどうか

が現れる。


いずれにしても、

結婚を始め、人間関係の吉凶は陰陽の問題です。

陽性な男と陰性な女

陰性な男と陽性な男

この組み合わせなら吉。

生活の中で陰陽は変わるので、その時に相手も変われば問題無く、

変わらずに陽性と陽性になれば衝突し、陰性と陰性になれば離れる。

男女のみでなく、あらゆる人間関係に当てはまります。


陰性な人が陰性な他人と仲良くなりたいと思えば(もし、そんなことがあるならば)、

自分が陽性になればうまくいく。

つまり、

自分次第で何でも変えられる

ということです。




[ 2017/06/15 07:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の探求 1

先日、『維摩経』ってどんなお経ですか、

と縁者から聞かれました。

学生時代に仏教概論の講義で、

これはドラマ仕立てになっているからおもしろいよ

と教わったなあ。


主人公(維摩居士)の病気見舞いにいった菩薩たちが、仏教についていろいろ話します。

生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、自我と無我、迷いと悟りなどの相反する概念は、

もともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという話。

そして、

そのような対立するもの、相対する概念を超越したところに解脱の境地があるということを、

主人公は沈黙を持って示します。

岩波現代文庫に入っていますので、関心のあるかたはどうぞお読みください。


この経典のなかに、

心清浄なるがゆえに有情清浄なり

という言葉があります。

山は山、水は水、あなたはあなたで、それぞれが真如の妙体。

清浄でないものの姿は、清浄でない心の反映、ということ。


『釈論』には、

自分の心・仏・衆生が三平等であると知る心が、真理の根源、万有の本体であり、

善悪、美醜、大小、優劣の別相は不平等心に映る仮像

とあります。


僕らの本体は、

その中に仏の性質を具えている

ということで、

それが、心という姿をとります。

心という現象は、それが仏そのものであるという真理と一である、

ということ。


すべては平等であり、ふたつに分かれたものは元々ひとつのものである

というのは事実ですが、

それが清浄である、というのは価値判断。

仏教は、そういう立場です。

 


[ 2017/06/17 06:45 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の探求 2

先日、

ある勉強会に出席したら、

講師先生の目尻に汚いシミがたくさんあった。

そこは奸門と云い、人間関係特に男女関係のトラブルがあると汚れが現れる。

肝臓の排毒がある、ということ。

いろいろ大変なのだろうなあ、と思い、平安を祈った。


過日、

さわやかな朝食会場で、若いご婦人と向かい合ってハムエッグを食べている紳士の眉が立っていた。


性交の後は眉毛が陰性になる。

陽性が抜けるということだから、自慰行為や生理でも同じようになる。

いろいろ頑張っているのだろうなあ、と思い、無事を祈った。


そう思ったり祈るのは心ですが、

仏教では、

心の主体(大日如来・私そのもの)

心の作用(その他の諸尊・私を構成している細胞それぞれ)

の二つを考え、


さらに密教では心を

チッタ :対象をとらえて思い計らう心、煩悩、迷いの元(悟りの元でもある) 現象


フリダヤ:心臓 仏身そのもの 真如そのもの

のふたつを考えます。

このふたつはひとつでふたつ。


『大日経』に書かれているのは、

本当の我(仏、悟り、心)が一切のものを自己の細胞として包蔵し、これを生かし、育む。

だから、一切を見ることは、自分自身を観ることと同じである。

悟り(幸せ)を求める最初の心から、悟り(幸せ)に至るまでの過程が人生であり、

つまりそれは、

如実に自心を知るための過程。

人生とは何かと云えば、

自心を知ることである。

なぜならば、

悟りも迷いも、心より生ずるから。


それらの心が大日始め、諸尊を存続させる。


心を見つめると、

貪り、怒り、慢心、疑い、妬みなどがあり、

それを冷静に観察し、他人に対する慈悲の働きかけを通して超克する

それが仏教徒の人生と云えます。




[ 2017/06/18 08:36 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の探求 3
坊さんだって人間だから、

坊さん以外の人と、考えていることもやっていることも同じだよ

というような言いかたがある。

坊さんが医者や教師やおまわりさんや総理大臣だったりすることもある。

さらには、

サルでもイヌでもネコでも同じですよ

とも聞く。


そしてまた、

大人も子どもも同じですよ、というような言いかたもあり、

それが、

男でも女でも

日本人も外国人も

というのもある。 


生きかたはみな違う。

同じようにウンコやオシッコはするけれど、頭の中とそれに基づく行動は違う。

誰一人として同じものはない。 


サルはサルである。人間と似ている点があるかもしれないけれど、

現象が似ていることに意味は無い。

そして、

心の働きで、論理的説明がつけられないものは妄想である。


ところが、

『金剛頂経』では、

私と大日如来は相似であるから、同じものである

と説く。

この経にある「仏になる方法」を修法することで、

心は仏の心になり、

身体も仏になる。

仏の世界である曼荼羅の中心に入り、

自心の中にも曼荼羅が現れ、

中心におわす大日如来が自分であり、その周囲の仏菩薩諸尊が私の心の働きをする。

脳が大日になり、身体の細胞それぞれが眷属になる。


つまり、

私が大日と相似になるように、体と言葉と心を調えれば、

私は大日と瑜伽(相応)できる。

簡単に云えば、 

勉強と修行によって心が仏のそれと似てくれば、

身体も仏になって、仏と我が同じになる。

それは、今見える私ではなく、本来そうであるべきものになる、

ということ。



[ 2017/06/19 06:23 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の探求 4:愛情を捨てる

『十住心論』では、

自分のことばかりで他人に関心を示さない、貧しく暗く狭く卑しく濁っている心から、

他への広大な思いやりを持つ、豊かで明るく広く深く清い心までを十の段階に分け、

そのうち最初の三つを世間三カ住心と云う。それは、欲と怒りと愚痴の世界。

ひとつめは、


悲しみ、苦悩の時、検討違いなことばかりして迷いを重ねる心。

その時に、

性欲、物欲、名誉欲が不安の支えになると錯覚する。


ふたつめは、道徳の世界。

道徳的に振るまっても中身は落ち着かず、十進九退で前にはなかなか進まないことが多い。


みっつめは、天神への信仰

自分の成果を祈って安心することもあるけれど、

お蔭が無ければ続かない。広く明るい安らぎがない。


これを越える方法のひとつが、自分(のもの)への愛情を捨てること。

その愛情は執著になり、炎天下で喉が乾くように心身をかきたて、真理を覆う。


執著を離れれば、慈悲があふれる。

個別の愛情から、大きな慈悲へ転換する。これを大欲と云う。


例えば、

少欲知足は物事を否定して真実に至ろうとする消極的な方法で、

大欲は物事を肯定して、積極的に生かそうとする方法。


心は固定的実体ではなく、因果という他との関係性の中にあるだけなので、

最初は過去と現在の自分のことだけだけれど、

だんだん友人家族すべての人に広げるように、

どこまで気を配るかで変わる。


この広大な心を身につけるには、

腹式呼吸が有効で、

さらに妄想錯覚を事実と混同しないためには(迷わない)、

イメージと呼吸を合わせる浄化呼吸法が役に立つ。

このとき、脳を維持する穀物(炭水化物)が滋養になる。

基本的には脳内の血行が良くないと心も乱れるので、

きれいな血を作る食事と呼吸と運動と睡眠は大切である。


不平不満妬みは陰性なので拡散し、

怒り、執著は陽性なので、内にこもって固くなる。

だから、

中庸で片寄らない普通の生活が、心にはよろしい。



[ 2017/06/20 10:56 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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