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[ 2024/04/26 17:47 | ]
13、真言と陀羅尼
お大師さんの『声字実相義』には、


如来は

見えるものによって見えないものを、

形あるものによって形なきものを

というように、必ず何らかの意味を外に表現する、広い意味の文字によって説法している。
 

その文字は、

音声の屈曲、目に見える形、香り、味といろいろある。

その文字は、見るもの、聞くもの、香るもの、味わうもの、感じるものの世界がその主体

世界の音声、言語、文字は悉く実相で、それは大日如来の説法にほかならない

とあります。


この世のすべての音・声・姿形は真言=仏の説法である、ということ。


また

『般若心経秘鍵』には、


如来の説法に二種あり

顕教では一般的な言葉で説き

密教の素質があるものには陀羅尼を説く

陀羅尼は多くの深い意味を持っている

とあります。


真言は、

サンスクリット語・マントラ(mantra)のこと。

お大師さんの師の師・不空三蔵の訳。それ以前は呪と訳しました。

仏菩薩が説いた言葉、聖なる言葉、真実語

という意味。


陀羅尼は、

サンスクリット語・ダーラニー(dhāraṇī)の音訳で、

意味からは「総持」と訳します。すべての善を保持し、すべての悪を抑えること。

記憶を保持する能力があり、瞑想のための呪句で、経典読誦の代りともされています。


両者の内容性質に明確な区別は無く、

一般的に、真言は比較的短く、陀羅尼は長い。でも、例外はあります。


真言も陀羅尼も、漢訳日本語訳せずに、梵語・サンスクリット語のまま唱えます。

それはなぜかと言えば、 

1、秘密のため 修行が進んだものに対してのみ聞かせる

2、多義のため  たくさんの意味があるので、一つに訳せない。

3、支那に無い言葉、概念のために訳せない

4、先例によって訳さない

5、尊重するために訳さない



真言密教では、

時間を経ずとも今、この身のままで悟れる。

その悟りの世界は常に大日如来が説法している。

その境地は言葉で説明することができる。

と言う立場ですが、

その言葉が真言や陀羅尼です。


般若心経の最後にある「ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテ・ハラソーギャテー・ボジーソワカ」も真言ですが、


「真言とは不思議なものである。心に思い浮かべつつ唱えれば、迷いを払ってくれる。

ひとつの文字に多くの真理が含まれ、生きているこの身体のままで、悟りの境地に達することができる 」

と『般若心経秘鍵』にあります。


真言陀羅尼で大切なことは、たくさんたくさん唱えることです。

その唱えかたに2種類あります。

堂内(お仏壇の前や道場)で、仏さまとふたりっきりになり、静かに心を込めて、ただ淡々と唱える 。

口から出た真言で自分が包まれるように。ひたすら唱えます。

もうひとつは、

いつでもでもどこでも、何をしながらでも唱える。

お風呂でもトイレでも、歩いていても、電車やバスの中でも。

口から出た真言が世界中に広がり、全ての人の功徳になるように。







__________________

【修行してみる】

〇食時作法

『テーラガーター』に、お釈迦さまの弟子・マハーカッサバ(摩訶迦葉)が食事をとる様子が描かれています。

「私は坐臥所から下って、托鉢のために都市に入った。食事をしている一人の癩病人に近づいて、彼の側に恭しく立った。

彼は、腐った手で、ひと握りの飯を捧げてくれた。彼がひと握りの飯を鉢に投げ入れてくれる時に、彼の指もまた千切れて、そこに落ちた。

壁の下の所で、わたしはそのひと握りの飯を食べた。それを食べている時にも、食べ終わった時にも、わたしには嫌悪の念は存在しなかった」

全く執着の無い食事、というものがここにあります。


食事は何のためにあるのか、

それは悟りのため、悟るために食べます。幸せになるために食べる。

ですから、食事も修行になります。

食事の前に合掌して以下を唱え、心を静かにして、さわやかな気持ちで食べましょう。



※「食時作法(じきじさほう)」
  
先、 金輪聖皇 宝祚延長 十方施主 災障消除 福寿増長
(きんりんじょうおう ほうそえんちょう じっぽうせしゅ さいしょうしょうじょう ふくじゅぞうちょう)


次 五観

一には、功の多少を計り、彼の来処を量れ
(ひとつには、こうのたしょうをはかり、かのらいしょをはかれ)
『意味:己の行為をかえりみ、この食べ物が如何にして作られたかを思う』

二には、己が徳行の全か闕か多か減かを忖れ
(ふたつには、おのがとくぎょうの ぜんかけつか、たかげんかを はかれ)
『意味:己の徳を積む行いが、完きか欠けているか多いか少ないかを思う』

三には、心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』

四には、正しく良薬を事とし、形苦を済はんことを取れ
(よつには、まさしく りょうやくをこととし、ぎょうくをすくわんことをとれ)
『意味:食べ物はいのちを養う為であり、正しい食物を必要の限度にとることを思う』

五には、道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず
(いつつには、どうごうをじょうぜんがためなり、せほうはいにあらず)
『意味:自他ともに幸せになることを目標にして、徒に世の栄達を願わざることを思う』



次 正食偈

若飯食時 当願衆生 禅悦為食 法喜充満

(にゃくぼんじきじ とうがんしゅじょう ぜんねついじき ほうきじゅうまん)
『意味:食事は、  悟りの智慧を養うためであり、悟りが得られる喜びが満たされるように、と願うために食べます)


いただきます。


食事が終われば

次 食竟偈

飯食巳訖 當願衆生 所作皆辨 具諸佛法

(ぼんじきいこつ とうがんしゅじょう しょさかいべん ぐしょぶっぽう)
『意味:食事の作法は、そのまま修行の道であると心する』

ごちそうさまでした。 

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[ 2015/06/18 05:50 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
13-1、食時作法 補足1
なぜ食べるのか、について『古ウパニシャッド』には、

一切の有情は食より生じ、生じた彼らはまた食によって生命を保ち、死後に再び食に帰入する

とあります。


初期仏典では、食物に対する厭想・不浄観の瞑想、つまり、食べ物や食べることは厭うべき汚れたことと観想しましたが、これは貪欲(むさぼりの心)を退治する方法のひとつでした。

密教では、

心の中に三十七尊(マンダラの中心仏)を観想し、その仏に食を供養し、仏から食を供養され、無量の福と化す

と観想します。


『釈氏要覧」には、修行者に食事が必要な理由が書かれています。それは、

1、食事は、飢餓の苦行をすることを否定するため

2、自己の細胞を生かして与えられた命を大切にするため

3、施主の功徳を受けるため

4、肉体四大を調えて仏道修行するため


そして、『蘇悉地経』には、

一日一食とせよ、むやみに断食すべからず、多食すべからず、全く少なくすべからず、食に疑いあればこれを食すべからず

とあります。


前回のページに書いた「五観」の中に、

心を防ぎ、過を顕すは、三毒に過ぎず
(みつには、心をふせぎ、とがをあらわすは、さんどくにすぎず)
『意味:善心を妨げ過ちを起こすのは、貪りと瞋りと愚痴なることを思う』 

とありますが、これは、

おいしいからと貪らず

まずいと言って怒らず

並みのものだからといって愚痴をこぼさない

という食事の姿勢。



また、「正食偈(しょうじきげ)」にあるように、

普段の食は肉体を長養し、坐禅瞑想などの修行そのものも食であり、それは悟りの智慧を養う、
という考えかたです。

坐禅瞑想して心が静かになる悦び

悟りの教えを聞いた喜び

これが、食事の喜びと同等であり、食事はそのためにある、悟りの境涯を育むために食を受ける、というのが食時作法の眼目です。


食べる時には心の中で『誓願偈』を唱えます。(ひと口目だけ)

為断一切悪 為修一切善    
為度一切生 為回向仏道    

  
ご飯をひと口入れて、
一切の悪を断つために、と思う。

ご飯をひと口入れて
一切の善を修するために、と思う。

ご飯をひと口入れて
全てのいのちを救うために、と思う。

お汁をひと口入れて
仏道に回向するために、と思う。

こうして食べることは、

戒律を守り(つまり悪しきことを断つ)、善きことに励み、他を助け救う

という大乗仏教の三聚浄戒(さんじゅじょうかい)を実践することにつながります。


ところで、大食は四大不調の原因になりますが、『出曜経』九には、大食の五患が説かれています。

それは、

1、 大便しばしば
2、 小便しばしば
3、 睡眠多し
4、 身重く修行に堪えず
5、 患多く食消化せず



[ 2015/06/20 05:26 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
8-2、入定
お大師さんは承和二年(835年)3月21日寅の刻、

高野山奥の院にご入定されます。

その後、お大師さんは弥勒菩薩とともにすべての人が悟りを開くまで修行をしている、

お大師さんは生きて僕らを救済してくれる、

という入定信仰が生まれます。

天長九年(832年)、お大師さんは万灯・万華会の願文に

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されました。

「生きとし生けるものすべてが悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」と。

今も奥の院では、毎日二回、お大師さんに食事のお膳を運び、

年に一回、法衣袈裟をお取換えする儀式が行われています。


死ではなく、生きたまま現世に生きる人々の救済にあたっている、という信仰。

これはミイラ(即身仏)とは違います。

禅定(瞑想)に入って世俗的なものを断ち切ることは、禅定の場、修禅の道場である高野山では当然の姿です。


密教の教えの中心的なものである「即身成仏」は

生きているうちに自分の中の仏性を開発する

生きている自分の中に、かけがえのない価値を見出して仏になる

ということで、

肉体を持ったまま死んでいる人、ではありません。
 
本来仏を自覚することです。

お大師さんの教え自体が生きていれば肉体は別問題で、ずっと生きています。

これは深信と言って、理屈ではありません。証拠のあるなしに関わらず信じること。


それに対して、理屈の上から納得しないと信仰に入ってゆけないことを信解と言います。
 

密教の瞑想は、

小宇宙(自分)がそのまま大宇宙である

大宇宙がそのまま小宇宙(自分)である

ということを観想し、その宇宙にあるすべての存在を育てて安楽を与える慈悲と、

迷いの闇を切り開く広大無辺な智慧を体得するものです。


そして、それは、

それ仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し

迷悟我にあれば発心すれば即ち到る

(『般若心経秘鍵』)

自分の中に見つけます。

その、見つけた所が即身成仏。



人はみな死にます。誰でも入定というわけにはいかない。

ですが、

死すべき身であることを知り、いのちを喜び、人に生まれたことの意味を問う。

それが 宗教的な人生です。

生まれてきたからには無意味ということはありません。

たとえ一日でも意味はある。生きてその意味を求めるのが求道。

もし、死んでしまったら、周りの人がそれを考えて生きる。

それが供養になります。

『秘蔵宝鑰』には、
 
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。

生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。

(迷いの世界に狂える人は、自分が狂っていることを知らない

事実を見ないものは、自分が何も見えていないということがわからない

生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない

死に死に死に死んで、死のおわりをしらない)



一切を慈しみ、幸せになるようにと祈り、

一切の有情非情はひとつのいのちをわけあっている

という平等観に座れば、すべての迷いが晴れます。

生きている意味を考えれば、

自分の運命がわかります。それは、何かが決まっていることではなく、工夫し開発すれば、弱点をより良いものへ運ぶことができるということ

です。



[ 2015/06/21 14:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
14、回向
供養でも祈祷でも、読経の最後には『回向文』(えこうもん)を唱えることが多い。

これは『法華経』の「化城喩品偈」です。


願以此功徳(がんにしくどく)

普及於一切(ふぎゅうおいっさい)

我等與衆生(がとうよしゅじょう)

皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)

訓読すると、

願わくは、この功徳を以って 

普く一切に及ぼし

我等と衆生と皆共に

仏道を成ぜんことを


仏教の基本は慈悲慈愛ですが、一切のものに慈悲をもって接するとき、

それは善行となり功徳が生まれます。

その功徳をめぐらして、他の人々の苦しみを抜き、楽を与えることを願う。

それが回向です

善行の功徳により、亡者の成仏を祈り、有縁無縁の人々の解脱(苦しみからの解放)を祈ります。

良いことをしたらご褒美がもらえる。

それを自分のものにしないで、他のみんなにあげる。

ということ。


自分と他人と、みんなが悟るために、功徳をめぐらす。

みんな一緒に、悟りの庭で優遊することを祈ります。



相手に尊敬の気持ちが無ければ、お供物を供えても供養にはならず

信仰や慈愛の気持ちや戒律が無いままに、ただ経を唱えても功徳は少ない。


仏法は心を調え、清めることが眼目ですが、

そのためにまず、身の回りを調えるのがいい。

読経や念誦は心浄を目指しますが、

その前に身浄という前提が功徳を倍増します。

 
身を調えないと、念誦は濁り乱れます。

精進潔斎作法具足の用心が、ほんものの読経や念誦を生み、


それが本物になってくると、僕らは不徳を離れ、功徳を積みます。

その功徳を、皆のものにしましょう。

[ 2015/07/01 05:28 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
14-1、悟りへのプロセス
悟りとは何か、を説明する時、

「悟り」そのものを身体としているのが大日如来である、

という言いかたをします。

また、

密教ではその悟りを「一切智々(いっさいちち)」とも言いますが、

それは、

完全な生きかた、よりよき人生の出発点は、悟りを求める心であり、

悟りを求める心を、他人を救おうとする行為によって育て、

悟りを求める心や他人を救う行為が、その人の生活そのものになった時、完成された境地が現れる

この究竟までに達した時、一切智々がわれわれのものになる。

と『大日経』に説かれています。


悟ったのちも、慈愛を持って常に他を救いたいと願い、行動する。

これが大日如来の境地です。

一切智々のはたらきによって、すべての人を差別することなく救う。


勿論それは僕らの心の中にあります。

「仏法遥かにあらず、己心を捨てていずくにか求めん」(般若心経秘鍵)

「自分の可能性を信じて修行すれば即身成仏できる」(大日経)

大日如来は風のように説法しているので、心の窓を開け、風を入れればいい。

戒めを護ろうとすれば、窓の鍵は開きます。


僕らは、生きるためにやむを得ず戒を犯しますが、

そのことを常に心に置き、

自分ひとりで生きているのではなく、他によって生かされて行かされていることを実感できるようにするのが宗教で、そのためには懺悔反省が必要になります。


一切智々は僕らの身体と心で表現されています。

僕らの肉体には骨や筋肉といった固いものがあり、

それは大地のように固く大きく、あらゆるものがそこから始まり成長し、帰ってきます。

そこから、

一切のものが生まれます。病気も健康も、幸せも不幸も、喜びも悲しみも、忍耐と恐怖も

他から来ることはありません。
 
だから、僕らのなかにあらゆるものの出発点と帰着点があります。

同じように、

僕らのなかにある、血や体液のような水分は、雨のようにすべてを潤して熱を取り去り、

呼吸などの、風のような流れは、迷いの塵を吹き飛ばします。

僕らの中にあるものをひとつづつ観察して、それがどこからきてどこへいくのか、どのように広がり、かつ縮むのか、それなどのような性質なのか

と考察することで一切智々に近づきます。






[ 2015/07/04 06:09 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
14-2、三大と死後の行方
大乗仏教の考えかたのひとつに三大があります。

みっつの広大無辺なもの、

あらゆる存在はこの三つを持っています。

この三つがあるから存在している、ということ。

その三大は

体大
相大
用大。

体・相・用(たい・そう・ゆう)と言います。

体大は本体論。

相大は姿形、性能、性質

用大はその働き。


仏教では、

僕らの心の本体と性質と働きは広大無辺である、という立場です。

もう少し詳しく書くと、

僕らの心は

平等であり、生なく滅なく、増なく減なく、常にある、という体。

智慧と慈悲など一切の功徳が備わっている、という相。

善を行い、善の功徳を得て、修行して悟りを得る、という用。


密教では

僕らもその他も何でもかんでも、

地・水・火・風・空・識の六大で成り立ち、宇宙間に存在している。

これは普遍的なもので、六大が体大である。


その六大を通じて現れたものがマンダラという相(すがた)で、

色々な姿を持ち、

それぞれがそれぞれのシンボルや文字を持っています。


この、六大(本体)とマンダラ(姿)の上に起る働き・作用が三密。

用大です。

身密、口密、意密の三密によって、成仏する。


つまり、

僕らの本体は六大であり、

僕らの姿形は仏であり、その性能も仏であり、

僕らの働きは、自他を悟りに向わせ、幸せにすること




ところで、

亡くなった人はどこにいるのでしょうか。

仏壇の中

お墓

それとも遠い遠い極楽世界


故人の三大 も生きている人の三大も広大無辺 

だから、

それを思う僕らの心が体であり、

神さまがどこにでもいるように、故人もどこにでもいます。

神様のイメージがあり、神さまという性質があるように、

故人のイメージと性質はどこにでも、あなたが思うところにあります。


おそらく、もっとも美しいところである自心にいるでしょう。

自分の思うところに亡くなった人はいる

それが生きかたになります。


月が多くの水面に映るように、

故人は多くの人や物に映ります。



[ 2015/07/20 07:48 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
15-1、中道
仏教は修行の宗教であり、修行によってお釈迦さまのような悟りをめざします。

その、実践方法の基本が中道(ちゅうどう)

相対するふたつの極端な考えかたや姿勢に偏らないこと。


たとえば、

厳しい苦行や、それと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることが中道。

大切なのは、

苦行をしない、快楽も求めない

というだけでは目的は達成されず、

偏らない適正な修行をすることで悟りを得る

ということです。


お釈迦さまは六年間にわたる厳しい苦行の末、これでは悟りには近づけないと判断しました。

『雑阿含経』や『転法輪経』には、

「比丘たちよ、出家した者はこのふたつの極端に近づいてはならない。

第一に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。

第二に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。

比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」


苦・楽のふたつ以外にも

霊魂や来世が有る・無い

という二つを離れ、

 
運命が決まっている・決まっていない

という二つも離れることが中道。

それらは、

有る、と言えば道徳や精進努力の欠落を招き

無い、と言えば人心の荒廃をもたらすからです。




快楽への執着、禁欲苦行への偏りの両極端を離れた中道が基本姿勢であり、 

中道の実践項目としての八正道

http://shintenan.syoyu.net/%E7%9C%9E%E5%A4%A9%E5%BA%B5%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%A1%BE%E3%83%BB%E5%AF%86%E6%95%99%E5%A1%BE/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%80%82


この立場をとる人は四諦を観ます。 
http://shintenan.syoyu.net/%E7%9C%9E%E5%A4%A9%E5%BA%B5%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%A1%BE%E3%83%BB%E5%AF%86%E6%95%99%E5%A1%BE/10-1%E3%80%81%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E6%95%99%E7%9A%84%E6%80%9D%E6%83%B3


中道は、

あらゆるものが存在する
あらゆるものが存在しない

という両極端を否定し、

あらゆる存在に自性はない
あらゆる存在に他性はない

という縁起の法則につながります。

すべては、

縁と条件という、関係性によってのみ存在しているのです。

何も関係性がない(オレは誰とも関係がなく、自分ひとりで存在している)などということは無いのです。

 
昨今は中道を、

いい加減
良い加減
偏らない心

などと、聞こえやすい言葉で説明しがちですが、この程度では仏教ではなく、自分流勝手な説で、我田引水も甚だしい曲解。

中道は、難しく言えば、

自我を離れた無我の状態

 で、修行によって体得できるものです。

その修行方法が四諦八正道。

正しい生活と真摯な瞑想(心のコントロール)です。



お釈迦さまの最後の言葉で有名なものに、

自灯明 法灯明

があります。


『大般涅槃経』には、

身体について、身体を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。  

心について心を熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。  

諸々の事象について諸々の事象を熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。

これが仏教者の基本的姿勢。問題は自らと法(存在の分析)によって判断し、他から聞いた噂話などで判断しないことです。


それによって、錯覚や妄想の無い、正しい修行を進めることができます。

[ 2015/08/17 11:32 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
15-2、即身成仏
密教の中心思想のひとつが即身成仏

この身このままで仏となること 

ですが、仏とはそんなに簡単になれるのでしょうか。

この身このままが仏である、

僕らは本来仏と同じであり、僕らの中には仏が住んでいる

なら、修行など必要無いのではないか、

 ということにもなりかねない。


そのあたりのことを『大日経』には、

悟りの境地は、真言を誦持することによって得られる、修行の成就と仏の境地の完成である。

とあります。

密教瞑想のひとつである三密行をして真言を唱えることによってのみ、即身に仏となることが可能 

ということです。

お大師さんの『即身成仏儀』には、

世界の存在要素である六つの粗大なるもの(地・水・火・風・空・識の六大)は、さえぎるものもなく、永遠に融合しあっている。 

四種の曼荼羅は、それぞれそのまま離れることはない。 

仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為形態が、不思議な働きによって感応しあっているので、すみやかにさとりの世界があらわれる。 

あらゆる身体が、帝釈天の持つ網につけられた宝石のように、幾重にもかさなりあいながら映しあうことを、「即身」という。 

とあります。

僕らと僕らの世界を構成している元素のような五大と想いは、海水の中の水と塩のように溶け合っている。

だから、

主観と客観

身体と心

知識と実体験

行者と宇宙

なども一体化し、瞑想(瑜伽=ヨーガ)によって一なる世界そのものとなる。
 
この同一化した存在=身体こそが即身成仏

ということです。

ダラダラと怠惰な生活のまま仏になる=悟れる、わけではありません。


 真言は五大(この世に存在するものすべて)の響きととらえ、それが存在するもの(識大)を包む世界を開いている

というイメージ。

そこには対立概念が無く、互いが無碍渉入して、存在をうみだすものと、生み出される悟りは同じになります。

 
その姿を曼荼羅といい、
 
その働きを三密と言います。

三密は、身体と言葉と心が仏と同じになること。







[ 2015/08/17 17:46 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
少しもじっとしていない世の中
30年振りにあった同級生が、

オマエ、変わってないなあ。
 
俺なんか30キロも増えたよ

とお腹をさする。



この歳になって、

変わらないね、

なんて言われると、

成長していない、貫禄が無い、頼りがいが無い、貧弱、なんて感じもするけれど。


毎日会っていれば、相手の変化に気がつきにくい。

しばらく振りに会うと変化に気がつく。


毎日分からなくらいのスピードで、少しづつ僕らは変化しています。

心も同じ。変わっている。

知識や経過が増えて、心も変わる。


僕の身体も心も、じっとしていない。

森の木も、海の生き物も、なんでも、じっとしていない。ちょっと見ない間に変わってしまう。

いきなり大きく成長したり、いきなり老けたりはしないけれど。



僕は小学生の時、

通信簿にはいつも、落ち着きが無い、協調性が無い

と書かれていたけれど、じっとしていないのは生き物として当たり前。

長い目で観れば、みんなじっとしていない。

じっとしていない、というのは陽性ということで、子どもは大人より陽性だから、じっとしていない。
 


今の僕は今だけの僕で1秒後には変わる。
 
1秒後の変化はわかりにくけれど、10年後の変化は分かるかな。

そういう、見えるところに変化があれば、その裏側も変化しています。現象の本体も、まったくじっとしていない。

それをエネルギーといいます。

で、

この、じっとしてないことを、諸行無常といいます。

じっとしていないから、それに固執執着できない。だって、変わってしまうのだから。

執着しようとするなら、それは変化する前の、すでにもう無いものに対する妄想。

それは、本当に大切なものなのかしら。






[ 2015/11/25 19:33 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
スマホの中はスマホ?
スマホが無い。

あれ、

家に置いてきたのかな、お店に忘れたのかな、
 
いずれにしてもスマホが無いとちょっと不便だな。

つい最近までスマホなんて持っていなかったのに。

バブル期バリバリのサッリーマンだった時だって持っていなかったけど、問題無い。

今だって、スマホを持っていない人もいる。

なのに、何で無いと不便なのだろうか。


そもそもスマホって何?

電話?カメラ?LINE?・・・???

あなたと私をつなぐもの?

安心感?

電話なら家に固定電話があるし、使わない日もあるし、手紙があるし。
 
カメラだって僕は一眼レフやら何やら持っているし。僕、カメラマニアなんです。
 
あなたと私をつなぐのは、思いやりと愛情だし、

安心感は僕の思いよう。
 

スマホを分解してみても、函の中には回路や巧妙な部品があるだけで、そこに電波が流れてくるだけ。
 
動画の音やあなたの声がそこにあるわけでない。
 
これが「スマホ」だ、というものはない。スマホなんて実体はどこにも無い。

いろいろなものが寄り添って、その関係性でスマホがあるだけ。
 
よくよく考えれば、

世の中のすべてはそうなのだ。あなたも僕も。極楽も地獄も、迷いも悟りも。

スマホの中にスマホという事実や本質が無いように、僕の中に自我も無い。

「ある」と妄想しているだけ。

このように、

有ると錯覚している無いことを、

スマホの中にスマホが無いことを、

諸法無我といいます。


もし、

私があれば私以外もあるわけですが、その間に対立があるか調和があるかで世界は変わります。

そして、

私以外は私の中にある。

そうならば、

私の函に、世界中にある大いなるものを受け入れられるようにしようじゃないか。

スマホの中に宇宙を見ようではないか。




[ 2015/11/26 10:20 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
飲む、打つ、買う
世の中のすべてのものはじっとしてない

なのに、

ある一瞬に見聞きしたものを、永遠のものだと勘違いしていたり、

この世にあるものはひとりで存在している、と勘違いしていると

苦しみが生じます。

そんなものはすでにもうないのに。

右が無ければ左もないのに、右じゃなくてはだめ

と思っていたらもう大変。

何かと関係していなければ何も存在できないんです。

僕以外のものが無ければ僕を限定できないのに。 

小難しく言えば、

あらゆるものは諸行無常なのに、諸法無我を知らないから苦が生じる

ということ。


そのような、

常に在る、自我がある、という執念の炎が吹き消されると、心は穏やかになり、悩みから開放されます。

これを涅槃寂静といいます。


ところで、

古来女性が好きなものが「いも、くり、なんきん」 とか「いも、タコ、なんきん」

これはお金も大してかからず可愛いものですが、

それに対して男が好きなものが「飲む、打つ、買う」

これはお金も時間もずいぶんとかかりますねえ、

というのは落語の枕によくある話。


でもね、

お酒も賭け事も女性も、それ自体には何の問題も無い。

お酒を飲んでも何の問題もない。

お酒でダメになるやつは酒までの人間。

競輪競馬パチンコをしても、法律の範囲なら何の問題も無い。

それでダメになるやつはそれまでの事。

 女性と遊んでも何の問題も無い。

それでダメになるやつはそれまでの男。


酒も賭け事も異性も、

それ自体は何ら善悪美醜の区別の無いもの。ただ在るだけ。あるように見えるだけ。

見方によって、ある時は美しく、ある時は汚れる。

それに執着する我に問題がある。 

執着の炎は、正しい生活法と修行によって吹き消すことができますが、

執着の反対は諦めること。

まあ、いいか。

そんなことはどうでもいいじゃないか、

もっと大切なものは、自分の中にあるのだ。

ということ。


人もモノも表裏内外があるから、

これと決めないで、まあ、いろいろあるねえ、と互いに足しあい補いあえばいい。


僕にも長所短所があって、役に立つこともあれば迷惑をかけることもある。

でも、

今できることをまじめにやっていれば、周囲と自然に調和する。 

長所が誰かを助けるし、短所は何かが補うから。


個人の悟りとか幸せ、世の中の平安というのは

いろいろなものが調和している

ということ。




[ 2015/11/29 07:15 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
法味
仏法の深い味わいを、食物の美味にたとえていう語。

読経や儀式などを法味ということもあります。


人にはそれぞれいろいろな生きかたがありますが、

これでもかと努力精進して、勉強して調べて練習して、

そうして問題を解決し、迷いを取り除いて安心を得る人生があり、


そうではなく、

妄想を共有して安心する

という方法もあります。


妄想して自分流の解釈を作り上げ、

それを共有したがる傾向が人間にはある。


でも、

法味は妄想からは得られないかもしれない。自分で考えて、自分で進むのがいい。


『法句経』160には

おのれこそ おのれのよるべ

おのれを惜きて 誰によるべきぞ

よく調えし おのれにこそ

まこと得難たき よるべをぞ獲ん

とあります。


自分自身が灯明であり、その明るさで法味を受けるようにすることが、

悟り(幸せ)につながり、

自分が悟れば(幸せになれば)、
 
世間は浄土になります。 


________________________________

平成28年
【年間祈祷】、【
先祖供養】、【陰陽研究塾 通信講座】
のお知らせ
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E5%B9%B3%E6%88%9028%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B

[ 2015/12/07 10:57 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
修行の階梯 Ⅰ
お釈尊さまの時代に、6人の代表的な思想家がインドにいました。
(六師外道:ろくしげどう と呼びます)

彼らはそれぞれ独自の思想を説きます。


死後の世界など無いという唯物論

判断というものを中止する、つかみどころの無い鰻論

人間は業によるのではなく、生来の運命によって決まっているという運命論

人間も世間も、地・水・火・風・苦・楽・霊魂の七つで構成され、

これは固定的で実在し、不変で、何をしてもこの七つを通過するだけ。

無道徳論

身業を重視するジャイナ教

の六人

これらと仏教の大きな違いは「無我」の思想の有無です。



『沙門果経』によれば

お釈迦さまは

世間の多くは二つの立場に拠っている。

それは有と無である。

もし、人が智慧をもって世の中の出現を正しく観察するならば、

世間において無はありえない。

人がもし、正しい智慧をもって世の中の消滅を観察するなら、

有はありえない。

あらゆるもはある、というなら、これはひとつの極端説である。

あらゆるものは無い、というなら、これも極端説である。

ブッダはこの両極端に近づかないで、中道によって真理を説く。

 
これが仏教の基本的立場です。

絶対的なもの、論理的に説明できないものを、現実の言葉で特徴づけないで、心を止めて心を観察して平安を得る、という立場。


悟りとは、この中道を知ることであり、苦しみからの解脱は中道の生活をすること。

苦しみの原因を取り除くためには中道を体得する修行が必要で、それは、

正しいものの見かた
正しい考え方
正しい言葉
正しい行為
正しい生活
正しい努力
正しい反省
正しい精神統一

という八つの方法(八正道)

もっとも大切なのが正しい精神統一(瞑想、心のコントロール)

これを成就するために他の七つがあります。


日常の言動では、極端ではなく、調和がとれるように努力工夫します。

極端を離れるよういつも注意して話し行動し、

座禅瞑想などを常に修法して、心を中道に常住させるようにします。

良いとかダメとかを離れ、

常に冷静に心を観察して、どちらにも偏らない気持ちをもって接するようにします。




[ 2015/12/10 19:22 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
修行の階梯 Ⅱ
八正道によって中道を知る、という修行は出家修行者、つまりプロ向けの修行ですが、大乗仏教になると、誰もができる修行にすこしづつ変わります。

大乗仏教になると、中道は縁起や空という思想につながります。


この世のすべての事象・概念は、

「陰と陽」「右と左」「前と後」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」

のように、

相対的な思考で成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなります。

ですから、

片一方のみが、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではありません。

迷いと悟り

衆生と仏

も同じです。


すべてのものも心も、

相互に依存しあっている。

これを六波羅蜜の修行によって体得し、

迷いも悟りも空であることを知ります。


六波羅蜜は 

1、布施波羅蜜 :分け与えること。財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施。

2、持戒波羅蜜:戒律を守ること。

3、忍辱波羅蜜:耐え忍ぶこと。

4、精進波羅蜜:努力すること。

5、禅定波羅蜜:心を集中して、散乱する心を静かにさせること。

6、智慧波羅蜜:すべては縁と条件によって成立し、何かと何かの関係性のなかで存在している。あなたがいるから僕がいる。右があるから左がある。宇宙を思うから宇宙がある・・・。
どちらかだけでは存在できないので、それに執着する必要は無い。執着しなければ諦められる。まあ、いいか、と。諦めれば苦しみから解放される。心が静かに平安になる。自他の争いが無くなる。

1、~5、の修行によって、6、が成就されます。



[ 2015/12/11 09:13 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
修行の階梯 Ⅲ
密教では、

自他の内容は、大日如来のような大きな心である、

と知り、その大きな心に坐ることを基本とします。


大きな心とは、

自分のことだけではなく、広く他のことも心にあること。

修行によって宇宙大の大きな心が現れ、

苦悩はそこに収まり、

その心となるとき、

智慧と慈悲は 、一切の制限を超えて無限になります。


具体的には、四つの心を発すことが、密教の修行。


まずは、混じり気の無い心。

植物が出す酸素を我が吸い、我が吐く二酸化炭素を木々が吸うように、

自身は宇宙につながり、天地一切がこの身に集約されていると観想すること。

素直、無邪気、謙虚な心でいることが修行の第一歩。


次に、

すべての衆生を救い、助けるとの請願を実行する心。

あらゆる存在を、自分自身や親兄弟と思うこと。

自ら仏となって一切衆生を救う大誓願をおこすこと

どうして苦しむ人を放っておけようか

困っている人は他人ではない。

という心をおこすこと。


より仏教的には、

金品などの暮らしを助けることも大切だけれど、

信仰によって人の魂を高めさせることは、もっと大切。


三つめは、

道を求める心。

自らをよりどころとし、自分で考え自分で判断すること。

数々の教えの中から自分にあった最勝のものをみずから選び出し、それをよりどころとすること。


四つ目は、

心をまとめること。自分の心をありのままに知ること。

迷う前の心に戻り、

秘観を修して、自分の心の本性を見つけます。密教の瞑想法はそのためのカリキュラムを持っています。

それは、心の統一法ですが、
 
無念無想ではなく、

何を見てもその中に仏を見出し、見るもの聞くものすべてに悟り(曼荼羅)を実現すること



人は行為の記憶に支配され、
 
ああ、こうすればよかった

という思いが私を限定します。

だから、

いつも工夫を積む必要があり、そのために常に自分の内側を観想 する必要があります。

世間で言う「心」は外側からみただけで、自心を知ったことにはなりません。

その、自心に直入する方法が、密教の観想・瞑想法です。


悟りは、他から来るのではなく、

自分の中の菩提心より生じます。



_________________________________

2016年【年間祈祷 ご案内】 

1年間、毎月28日(または18日)に不動明王をご本尊として、ご祈祷を修法いたします。

ご祈祷は拝む人、拝まれる人の内面にある大きな慈悲を開発して智慧を生み出し、その智慧で迷いや煩悩を焼き尽くし、人生を豊かに平安にするものです。

どうぞ、皆様の煩悩を浄め、大厄を消除し、すすんで家内安全、商売繁昌、病気平癒、心願成就など、開運の祈願をなされますようご案内いたします。 一年間毎月ご祈祷いたします。

お名前、生年月日、祈願の種類(おふだ有り、またはお札無し)、
住所(おふだ有りの場合)
願意を下記へお知らせください。

※願意例
家内安全、身体健全、商売繁盛、無病息災、厄除招福、心願成就、当病平癒、 安産成就、   如意円満、学業成就、罪障消滅、報恩感謝、世界平和、萬邦協和など


※祈願料 
☆1万円(おふだ有り、願意ひとつ)   

☆二千五百円(おふだ無し、願意ひとつ) 




【先祖供養】 

毎月命日にご回向し、祥月命日に拝んだ後、回向の証をお送りします。

ご回向するご先祖の戒名(下記例参照)とご命日、施主さまのお名前、回向の証送り先住所をお知らせください。

※例
○○□□信士(信女、居士、大姉)、○○家先祖代々、水子供養など

※年間供養料(過去帳に記し、毎月命日に拝みます) 1霊2万円  



※申し込みお問合せ先
眞天庵・穀菜食の舎・陰陽研究塾
電話・FAX:0285-35-4901 
携帯電話:090-6257-1472 
メール:sunagakounin@gmail.com
またはホームページから
http://shintenan.hanagasumi.net/

[ 2015/12/15 06:57 | Comments(3) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
神さまと仏さま 1
お彼岸の連休に、我が家もお墓参りに行きました。

お墓にはお骨が埋葬されていますが、よくよく考えると不思議。

本来、

遺骨を残すのが土葬で 、残さないのが火葬。

火葬とは、遺骨を全部焼き、灰にして撒くか川に流すもの。

なのに、火葬でわざわざ遺骨を残して納骨する、

という特殊な文化が日本にはあります。


お墓があって仏壇があって菩提寺がある。

お参りするところがたくさんある。

さてさて、故人はどこにいるのでしょうか。


どこにでもいますね。

故人の本体は満月のようなもの。

その月は、地上にあるいくつもの水たまりに映ります。

月はひとつだけれど、それが映る水鏡はたくさんある。

同じように、

故人の本質はひとつだけれど、
 
お墓や位牌や残された人の心に映ります。


供養とはサンスクリット語・プージャの訳語で、本来の意味は「尊敬する」こと。

お釈迦さまを供養するとは、お釈迦さまを尊敬すること。

ご先祖さまを供養するとは、ご先祖さまを尊敬すること。


尊敬する人がいれば、

その人には礼儀をもって丁寧に接し、

その人を見習い、その人のようになりたいと思い、その人の真似をする。

その人の良いところを見習って、襟を正して生きる。

それが供養です。その気持ちが無ければ、お墓参りをしても供養にはならない。


もう少しブラッシュアップすれば、

本当の供養とは、菩提心をおこすこと。

悟りを求めようと強く思う。そのために努力精進する。
 
「菩提心を起こすはすなわち諸の如来において広大の供養するになる」

と『理趣経』にあります。



富士霊園の駐車場脇に、なんだか不思議な「瞑想室」があった。




[ 2016/03/22 10:34 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
神さまと仏さま 2
仏さまとは何でしょうか。

お釈迦さまはじめ、如来菩薩明王などの尊格

仏像や仏画

ご遺体、死んだ人

という意味でも使われます。


仏さまの本体は

地・水・火・風・空・識の六大 

仏さまという存在を分析してみると、その本体が現れてきます。

あれやこれやと細かく調べてみると、

最終的な本体につきあたるはずです。

でも、

諸行無常と言って、すべては変化していますから、その本体も無常が本質で、

その変化をいくらたどっても固定な実体はありません。

仏さまが出現する、という結果も、

どうやって、どうして現れたかの原因をいくらたどっても、

次ら次へ原因が現れ、永遠に本源は不明。

あらゆるものは六大でできているのですが、それは動いている、生きて変化して、互いに影響して分割されない全体性を持っています。



仏さまの姿かたちは、

曼荼羅 に現れています。

絵図や立体(堂内の仏像)の曼荼羅には多くの仏さまがいらっしゃいます。

大日如来、阿弥陀さん、お薬師さん、お地蔵さん、観音さん、お不動さん

毘沙門さんや弁天さんもいます。

そのほかに、

夜叉や死人、その死体人を食らう人、何でもありです。

つまり、

世の中の優しい人、恐い人、どちらでも無い人

殺人鬼や放火魔も仏さまです。

もちろん、

あなたも僕も。

みんなで曼荼羅世界を構成しています。

みんないるのが仏の世界。



仏さまの働きは

行動、言葉、思い

この三つに、いろいろな働きがあります。

他の苦しみを抜き、楽を与える行動・言葉・思いもあれば、

そうでないものもある。 

慈愛を基本に思惟し、行動し、発言すれば、

仏と私は同じになる。

ともかく、

世の中のすべての行動、音声、思考は仏の現れです。




[ 2016/03/31 07:57 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
神さまと仏さま 3
神さまとは何でしょうか。

これはいろいろでしょうね。

各宗教宗派によって理解が違う。

一神教と多神教では違うでしょうし、

神さまが創造主で絶対神なのと、

あらゆるものが神であるという八百万の信仰とでもずいぶんと違う。


もし、神さまがすべてを創り支配しているなら、

神がいないと思考停止になる可能性がある。

でも、

何かをしたり考えるとき、

論理的に矛盾が生じた時には、神が解決してくれます。

そういうものがいたら助かる 、という神。

もし、

宗教としての理論的バックボーンがなければ、

神は実在ではないので、誰もが神を自由に解釈できてしまう。

そうすると、

戦争することに都合の良い神さまも創造できてしまう。



仏教とそれ以外との違いは、「我」があるか無いかです。

仏教は無我をすわりとする。

仏教は因果の法則を疑うことがありませんが、

絶対神創造神は因果を越えているのでしょう。


仏は自分の中にいますが、

神さまはどうなのだろうか。


『十住心論』では、

 ただ性と食に対する欲望をもって生きているだけにすぎない迷いの心では、

殺、盗、邪淫等々の不善をつくり、触愛、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲などにふけっています。その結果は地獄のような世界。

これは、自己のみを知って他のことが眼中にない。

でも、

その心に、優れた師の導きなどの、少しの光が当たれば、

愚かな少年が、節食して困っている人に自分の食物を施したり、

倫理道徳を知って、自他共存の工夫が積まれます。

さらに、

道徳、倫理を超え、宗教的な理想の世界に生まれることを願う心が現れます。

たとえば、

天界に生まれることを願う。  


これらみっつの心も、曼荼羅部に位置するものだけれど、個別的な心で「我」がある。


それらの心の次に、

無我をすわりとする仏教があります。


曼荼羅的思考、世の中は調和している

と考えれば、

神さまは仏さま、仏さまは神さまです。




[ 2016/03/31 08:17 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 1
 お葬式の作法は地域によってずいぶんと違います。

枕経があったり無かったり、

火葬は葬儀後だったり前だったり、

納棺は通夜の前だったり後だったり、

告別式と葬儀が一緒だったり別だったり、

野辺送りをしたりしなかったり、

その場所時間は親族だけだったり、僧侶も一緒だったり、

みな地域によって違います。

先日、横須賀で葬儀の後、300キロ移動して信州伊那谷でお通夜葬儀を勤めましたが、戸惑うことが多かった。

僕ら僧侶が行う所作も地域によって違います。

さらに、それぞれ師伝が違い、葬儀会場では時間的な制約もあるので、お坊さんはそれぞれ心持に従って行うべき作法を択び、工夫して拝みます。

おそらくどの宗派でも、これが唯一正式な葬儀作法だ、というものはないでしょう。


細かい話ですが、

僕は、

枕経か通夜のときに臨終の印明を授け、

翌日朝勤(後夜行)で、本尊加持の後に引導作法を修し、
葬儀では授戒、授血脈、灌頂の作法をします。

常の行法では、入我我入で五相成身観、字輪観で五字厳身観を修していれば、両部の観想が身につくので、導師の準備としてよろしいかと思います。



[ 2016/04/08 09:18 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 2
僕らは拝む時にご本尊をおまつりします。

葬儀会場では葬儀屋さんが用意してくれますが、そのご本尊さんにもいろいろあります。

葬儀はご遺体にお授けをするのですから、ご本尊はどなたでも良い、とも思いますが、

『二巻章』をもとにした『真言宗引導作法』によれば、死者の枕方には不動明王を懸けることになっています。


実際の葬儀会場では、

真言宗だから大日如来ですな、

と会場側で判断しておまつりすることが多い。

場所によっては阿弥陀さんやお釈迦さんもある。

「南無大師遍照金剛」と御宝号のお軸が懸かっていることもある。

多くの場所では、
 
真言宗なら大日如来、禅宗ならお釈迦さま、浄土宗なら阿弥陀さん、日蓮宗なら南無妙法蓮華経というお題目、

などと決めておまつりするところが多い。

葬儀の祭壇だけでご本尊さんは無し、故人の御影だけのことも多い。


そもそも本尊とは、

自分の無力さをご本尊さまにお願いして助けてもらう、

という考えかたもありますが、

僕らの中には無限の可能性があり、それが本尊。つまり本尊は我が内部におわします。

その、自分自身にそなわっている可能性を開発して現実にするために拝む。

本来自性清浄の心が本尊ですから、それを体験するために修法します。

その修法には、本尊と行者と一切衆生も参加しています。

お葬式の参列者もこの利益にあずかる。
 
列席することにより信心が深まり、心が純化し、それぞれ自分の中にある本尊を見出す。


だから、


お葬式などの儀式に参列して拝むことは、悟りへの道程になるのです。

[ 2016/04/08 09:26 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 3
高野山真言宗のお葬式でお不動さんをご本尊とするのは、

お不動さんが教令輪身(きょうりょうりんじん)という尊格だから、

と僕は考えています。

お不動さんは大日如来の使者で、

救われないもののために大日如来の命令を実行する人、
 
そういう役割のかたを明王といい、教令輪身といいます。

 
本来大日如来である僕らの身体が多くの細胞で作られているように、

あらゆる仏は、大日如来が主の世界・マンダラの一部。大日如来は諸尊の総体。


お不動さん・不動明王は、

「真言の道を実践するものを守護するのが誓願」(『底哩三昧耶経』)

「この尊は大日の化なり。使いとなりて諸務を執る」(『唅十九種相観想略頌文』)

とありますが、


大日如来が派遣した使者は、大日如来が変身した姿。

方便のために、どんな仕事でもすぐにやる。

ですから、故人を導く儀式の本尊として適格。

お不動さんはじめ、明王と呼ばれる仏さまは憤怒の姿をしていますが、

これは煩悩が強く強情な相手でも、慈悲の怒り(の力)で悟りへ導く姿です。


お不動さんが右手に持っている剣は、煩悩障と所知障のふたつを断ち切ります。

僕らが覚りを開けない、ブッダになれないのは、このふたつがあるからです。

煩悩障は我々自身の行為の誤り、道徳的欠陥。

所知障は客観的認識のあやまり。正しい教えを聞いても実践できないという欠点。

これを智慧の剣で断ち切ります。

 

[ 2016/04/08 09:41 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 4

僕らはお葬式で、

引導作法という所作を行います。

これは、

「引導して正法に入らしむ」(『大日経疏』)

ということですが、

故人を出家させお授けをしています。お坊さんにしているわけですね。

僕らが生きている間に、得度して僧侶になったのと同じ作法です。

仏弟子としての戒名をつけ、戒律を授け、

自坊にて香華を供えて引導作法を修します。

死者の所へは金剛杵を持ち、仏の三昧に住するための観想と読経、念誦をします。


これはもちろん、

仏に成る、成仏する、悟る

ためです。

迷いを悟りに変える。

仏とは大日如来のことですから、大日如来になるためです。

大日如来は宇宙の象徴で、悟りそのもの。


真言宗の引導作法で他の宗派と違うのは灌頂(かんじょう)を行うこと。

密教の戒律や印・真言・資格を授けて、正統な大日如来の継承者とするための儀式です。 

つまり、

葬儀ではお導師さんが故人の師となります。

そして悟りに導く。

故人のみならず、

ご遺族ご親族を悟りに導きます。

お葬式は、

生死と涅槃(迷いと悟り)が無別である、

それは、自分と仏が同じであること、

を体得する機会です。

それが、人格の完成と、安心と平安を得ることにつながります。

 


[ 2016/04/08 09:58 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 5
なぜお葬式をするのでしょうか。

人間には肉体的な死とは別に、社会的な死、というものがあります。僕らは社会的な生き物だから。 

そのために、お葬式という儀式をして、

家族親族地域縁者に死を実感させて、社会的な幕をおろす。

人は他とのつながりが必要な生き物で、そのつながりが人生を豊かにします。安心も他とのつながりから生まれます。

お葬式はそのつながりを確認する機会にもなります。

縁者の死を受け入れると、自分の生きかたが変わる。


死は避けられず誰にでも訪れるものですが、多くの人はそれを望んでいない。できれば避けたい。

思い通りにならない苦しみの第一が死であり、その死を何とかしたいというのが宗教の始まりです。

さらに、

死や死後のことは分からないから不安である、もしかしたら亡者になってさまようかもしれない、

場合によっては、生きている僕らに何か悪さをするかもしれない。

だから、

生き返らないように、さまよわないように、祟りがないようにお葬式を行う、という考えかたもあります。


死者には白装束を着せます。

婚礼の白無垢も同じ。婚礼は葬儀と同じです。

死んだ気になって嫁ぐ、一度死んで生まれ変わる

ということ。


僕らが出家得度するときも白衣から始まり、

遍路さんも白装束。

白無垢白装束はは本来喪服、死に装束です。

それぞれみな一度死ぬ。

これは、始まりでもある。

生きている人は、その人がいなくなった人生を、始めます。




[ 2016/04/08 10:37 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 6 死者の幸福
仏教は修行の宗教です。

何のために修行するかといえば、悟るため、幸せになるため。

僕らは生きているから、修行して、努力精進して、悟ったり幸せになる可能性があります。

でも、

故人は肉体が無いからそれができないかもしれない。

なので、

生きている僕らが功徳を積んで、故人の代わりに修行して回向する。

僕らが良いことをして、その結果を故人に回し廻らす。

というのが宗教の役割のひとつです。法事などもそのために行う。

縁起の法則から見れば、

生前の行いが死後の幸福にもっとも関係しそうです。

『十王経』や『中陰経』には、

極善の人はすぐに浄土に生じ、極悪の人はすぐに地獄に堕す。故に中有(四十九日)は必要ない。

とあり、

そのどちらでもない人のために追善供養をするのでしょうが、生きている人が拝むことで死者の幸福につながる、

と考えるのは、僕らが生きるうえで重要です。

なぜなら、それは感謝と反省をもたらすからです。


故人がもっとも喜ぶのは、
 
生きている人が仲良く暮らすことでしょうね。




[ 2016/04/08 10:50 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]



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